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甲斐銚子塚古墳

甲斐銚子塚古墳(かい ちょうしづか こふん)は、山梨県甲府市下曽根町にある前方後円墳。国の史跡に指定されている(指定名称は「銚子塚古墳 附 丸山塚古墳」)。山梨県内では最大規模の古墳で、4世紀後半の築造と推定され、古墳時代前期では東日本最大級の規模になる。「銚子塚」とは江戸時代の地誌類において前方後円墳に見られる通称で、側面が銚子(柄の長い酒器)に見えることからの名称と考えられている。山梨県において「銚子塚」と呼称される古墳は笛吹市にもあるが、そちらは「岡銚子塚古墳」と称して区別される。なお、本項では甲斐銚子塚古墳に隣接する丸山塚古墳についても記載する。所在する甲府市下曽根町は甲府盆地の南東縁に位置する。笛吹川の左岸、盆地南部に広がる曽根丘陵北端に立地する。一帯は大型古墳が集中的に分布する地域で、甲斐銚子塚古墳は盛土と推定される標高340メートルの東山台地に展開する。甲斐銚子塚古墳は標高260メートル付近に位置する。下曽根・上向山地区にかけて大丸山古墳、丸子塚古墳、かんかん塚古墳とともに東山古墳群を構成する。南西の米倉山にも古墳群がある。江戸時代後期の文化11年(1814年)に編纂された甲斐国地誌『甲斐国志』では甲斐銚子塚古墳に関する記述があり、この時代から「銚子塚」と呼称されていたことが確認される。近代には伊勢講の信仰対象として山頂に石祠・石灯籠などがり、「伊勢塚」と称された。なお、現在では伊勢講に関する施設は史跡整備により別の地点に移設されている。1925年(大正14年)に刊行された『史跡名勝天然記念物調査報告書』においては石室を有した大型の前方後円墳で、環濠(周溝)、埴輪を伴う古墳であることが著述されている。1928年(昭和3年)、伊勢講の帳屋(あくしゃ)建設の際に石室が発見された。この時の調査は文部省嘱託の上野三平により報告されている(同年9月1日刊『史学雑誌』)。1966年(昭和41年)には明治大学考古学研究室・大塚初重の主導による測量が行われ、主軸長は169メートル、前方部幅は69メートルで高さ8.5メートル。後円部径は92メートルで高さ15メートルと推定された。1985年(昭和60年)には山梨県教育委員会による発掘調査が行われた。1975年(昭和50年)には『中道町史』において調査結果がまとめられた。1983年(昭和58年)から整備保存工事が施され、周辺は曽根丘陵公園として整備され、出土した考古資料を保管する山梨県立考古博物館も設置された。1928年の調査で甲斐銚子塚古墳の石室は東西の主軸と後円部の交差する地点に位置し、竪穴式の割石小口積みで、あることが指摘されている。底は粘土床で、割竹形木棺の形跡が認められた。石室は内法長6.5メートル、幅0.9メートル、高さ1.2メートル。石室内部中央に朱が厚く堆積したことが認められ、この付近から様々な副葬品が出土している。後円部で葺石を葺いた三段築成で、前方部では葺石のない二段築成である。周濠は一重で15〜20メートルである。1985年の発掘調査において副葬品としては鏡5が出土した。甲斐銚子塚古墳の鏡は岡山県岡山市の備前車塚古墳や群馬県三本木古墳、福岡県藤崎遺跡の出土鏡と同笵(どうはん)関係にある三角縁神人車馬画像鏡1、内行花文鏡1、鼉龍鏡(だりゅうきょう)1、同じ鋳型で造られた仿製鏡(ほうせいかがみ)の三角縁獣文帯三神三獣鏡(三角縁神獣鏡)1、半円方格帯環状乳神獣鏡である。内行花文鏡は舶載品で、「長宜子孫」「壽如金石」の吉祥句が配置される。鈕は破損しており、意図的な破壊であるとも考えられている。鼉龍鏡は画文帯神獣鏡・環状乳神獣鏡などを基に独自の構図・表現を加えた倭鏡で、甲斐銚子塚古墳から出土した鼉龍鏡は外区に鳥文・菱雲文を巡らせ、内区の構造は簡略化されている。なお、笛吹市の岡銚子塚古墳では甲斐銚子塚古墳出土品よりも鏡径の大きい鼉龍鏡が出土している。ほか、水晶製勾玉4、碧玉製管玉、車輪石6、鉄刀4、鉄剣3、鉄鏃片、短冊形鉄斧、腕輪形石製品1、石釧(いしくしろ)・貝釧、杵形木製品などが出土した。車輪石はオオツタノハの貝輪を模した石製品で、甲斐銚子塚古墳出土のものは碧玉製。円形で環体の幅が小さく、朱が付着している。木棺の内部に配置されていたと考えられている。石釧はイモガイ製の女性用貝輪を模した石製品であるが、甲斐銚子塚古墳からは石釧のほかに南海産の巻貝であるスイジガイ製の貝釧も出土している。古墳の祭祀に関わる遺物として、埴輪は壺形埴輪・円筒埴輪・朝顔型埴輪が出土している。特殊器台系譜の初期円筒埴輪は静岡県磐田市の松林山古墳、群馬県太田市の朝子塚古墳と共通する。また、東海系土器の器種であるS字状口縁台付甕(S字甕)も出土しており、外面横方向にハケ目のない新しい形式であると指摘される。S字甕は表面が黒色で火を受けた痕跡のあることから古墳の祭祀に関わるものであると考えられている。1928年の出土品の大半は東京国立博物館に、また、1985年に行われた調査での出土品は山梨県立考古博物館に所蔵されている。築造年代は古墳時代前期の4世紀後半であると推定されている。曽根丘陵一帯では弥生時代後期後半から古墳時代前期前半にかけての方形周溝墓が多数造営された上の平遺跡があり、この時期から甲府盆地において安定した生産力が確保できる地域であったと考えられている。このため富士山西麓(のちの中道往還)を経て東海地方から古墳文化が流入し、米倉山東麓には県内最古の古墳で唯一の前方後方墳でもある小平沢古墳が築かれる。小平沢古墳は土着的な形態であるが、以後は在地勢力による古墳築造は見られず、東山地域において甲斐銚子塚古墳に先行する前方後円墳である大丸山古墳が出現する。前方後円墳は3世紀後半に西国において出現する形態で、4世紀後半には畿内において確立したヤマト王権の影響が東国に及び、銚子塚古墳のほか静岡県の松林山古墳、長野県千曲市の森将軍塚古墳など各地に出現する。甲斐銚子塚古墳においては畿内色の形態的特徴や、副葬品として服属の代償に分与される三角縁神獣鏡がみられることから、この時期に中道地域はヤマト王権に組み込まれ、新興勢力あるいは王権に服属した弥生時代以来の在地勢力による築造であると推定されている。銚子塚以後の中道地域では、丸山塚古墳や天神山古墳を経て古墳の規模は縮小している。同盟関係が指摘される岡銚子塚古墳を中心とした笛吹市八代地域でも同様に規模を縮小させており、ヤマト王権の東国中継地としての役割が低下し、丘陵地域の勢力は衰退していったと考えられている。また、東国においては主要な交通路に一定間隔で畿内型古墳が分布しており、古代甲斐国が同盟関係をもつ連合政権の一因としてヤマト王権の中継地点になっていた可能性も示唆されている。『古事記』『日本書紀』には景行天皇皇子のヤマトタケルノミコト(倭建命、日本武尊)が東征の帰路に酒折宮(甲府市酒折)へ立ち寄り「御火焼之老人」と問答歌を交わしたという伝承があるが、これを東征の論功行賞が反映されているとし、「御火焼之老人」に銚子塚古墳の被葬者が反映されていると比定する説もある。その後は後円部周辺の公有地化が進み、2001年(平成13年)には史跡整備に伴う第2次調査が行われ、後円部西端の墳端が確認される。公有地化の完了した2004年(平成16年)には、後円部北側において周溝から半円形に張り出した「突出部」や埋設された木柱跡が確認され、古墳におけるマツリの場であると考えられている。さらに、後円部西端の墳端の周溝からは組合せ式の木製品が出土した。円盤形木製品は直径50センチメートル、厚さ4センチメートルで、中央が厚いレンズ状になっている。周縁部に3つの孔があり、蕨手形木製品を刺し込み目釘で固定していたと見られている。中央の孔にはホゾ加工され、直径4メートルの棒状木製品を刺し込む構造になっている。木製品の多くは火を受けており、へら状木製品に火鑽(ひきり)板があることから、これらの木製品は古墳における葬送儀礼の道具と考えられている。風雨の影響で朽ち果てている笠形木製品に比べ、円盤・蕨手・棒状の各木製品は保存状態が良く、木製品は一定期間(数年)の間は葬送儀礼に用いられ、周溝へ投げ込まれて廃棄されたと考えられている。その後、木製品の分析が行われた。立柱は直径20メートル前後で上半分が折れており、芯部を含まないスギ材で年輪から3世紀前半の伐採と考えられており、4世紀前半の築造年代とは時間差が存在することが判明した。東日本の前期古墳において「突出部」の存在や木製品の出土は類例のないことから、第2次調査による発見で銚子塚古墳は再び注目され、2006年には山梨県立考古博物館で企画展『甲府盆地から見たヤマト』が開催され木製品などが展示された。また、翌2007年には『発掘された日本列島2007-新発見考古速報展-』においてもこれらの木製品が出展された。甲斐銚子塚古墳の前方部から80メートルほど東側にある円墳()。直径約72m、高さ11mを測り、墳丘は2段築成で埴輪を備え周堀を巡らせている。甲斐銚子塚古墳より早く、1904年に発掘された。墳頂部に長さ5.5mの割石小口積みの竪穴式石室があって、石室内から画文帯神獣鏡・鉄刀・鉄斧・鉄鏃・鎌などが出土した。さらに石室とは別に粘土床があり、石釧が出土したという。

出典:wikipedia

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