福本 豊(ふくもと ゆたか、1947年11月7日 - )は、大阪府大阪市生野区出身で東大阪市育ちの元プロ野球選手(外野手)。通算盗塁数の日本記録保持者(達成当時はMLB記録も超えた)で、「世界の福本」の異名を持つ。引退後はコーチを経て主に野球解説者、野球評論家として活動している。現役通算2543安打、通算208本塁打を記録した確実性とパンチ力を兼ね備えた打撃、歴代1位の通算1065盗塁と通算115三塁打を記録した俊足、主に中堅手として足を生かした広い守備範囲を誇る外野守備で、長池徳二・山田久志・加藤秀司らと共に阪急黄金時代の主力として活躍した。血液型はB型。大鉄高等学校時代は、野球部員のあまりの多さからレギュラーを諦めて球拾いに専念していた。しかし、練習中に右翼手の守備に就き内野手を務めていた選手の一塁手への送球が逸れた際に、いつもの球拾いの感覚でボールを追いかけたところ、監督に「福本はきちんとファーストのカバーに入るから偉い」と評価され、それ以降右翼手のレギュラーに指名された。の高校3年生夏に、第47回全国高等学校野球選手権大会出場を果たす。同校は夏の甲子園初出場であった。1回戦では、この大会で4強入りした秋田高校と対戦するが、延長13回裏、福本と二塁手が打球をお見合いしてしまい、サヨナラ負けを喫した。1年下のチームメートには、高橋二三男(元西鉄・ロッテ、外野手)がいた。卒業後は社会人野球の松下電器(現・パナソニック)に進む。俊足が武器であったため、監督に「広瀬叔功になれ」と言われ、当時の広瀬の背番号である12を背中に付けて広瀬をよく観戦しにいったという。福本は後年に「広瀬さんは神様やもん。プロに入ってからもそれは一緒よ。相変わらず雲の上の存在やった」と語っている。1年目のから外野手のレギュラーを獲得。同年の都市対抗に二番打者として出場し、三塁打を放つなど活躍。社会人3年目のには、松下電器同僚の加藤秀司(後の英司)・岡田光雄(元近鉄)と共に富士製鐵広畑の補強選手として都市対抗に出場。決勝で電電関東を降しチームを優勝に導く。同年の社会人ベストナインのタイトルを獲得したが、福本は「アマチュア時代は注目の選手ではない」と語っている。同年秋のドラフト会議で、阪急ブレーブスに7位指名を受けた。入団当時の背番号は「40」。なお、阪急ブレーブス以外に、南海ホークスも、早くから福本の俊足に注目していた。しかし168cmの小柄な身長がネックとなり、監督の鶴岡一人に獲得を却下されていた。プロ入りのきっかけは、松下電器時代既にアマチュア野球のスター選手だった後輩の加藤を目当てに来たスカウトの目に留まったことだった。試合でスカウトが来ている時に本塁打を打ったり、都市対抗野球でホームへ好返球をしたりする(ドラフト同期の山田が福本の名を知ったのはこのプレーだという)等のプレーが認められたものだった。これについて、福本は「たまたまあのときだけ、一番いいプレーが出たんや」と語っている。さらにスカウトに「君はもう少し背があればねえ」と言われたことに対し、相手がスカウトと知らずに一喝したことが「プロ向きのいい根性を持っている」と勘違いされ、これも指名される要因になったのではないかと述べている。本人はスカウトが自分に興味がないと思っていたことからドラフトに指名されたことを全く知らず、翌朝会社の先輩がスポーツ新聞を読んでいるのを見て「なんかおもろいこと載ってまっか?」と尋ねたところ、「おもろいことってお前、指名されとるがな」と言われ、そこで初めて自分が指名されたことを知ったという。しかし、ドラフト指名後も阪急から連絡がないまま数日が過ぎたため、同僚も本人も何かの間違いではないかと疑う始末だった。その後ようやく獲得の挨拶に来た阪急の球団職員から肉料理をご馳走され、「プロなったらこんなにおいしい肉が食えるのか!」と思ったものの、様々な理由から態度を保留していたが、そうしているうちに何度も食事に誘ってもらったため断りにくくなってしまったという。結局、4回目の食事の時に入団を決意した。入団時、福本の父親は他球団の系列の食堂で働いていたが、息子の入団に際して阪急への恩を感じたため、その職場を退職した。また福本夫人は野球に一切興味がなく、夫が野球選手であることも知らなかったが、福本も夫人に「松下から阪急に転職する」としか説明していなかったため、夫人は夫が阪急電鉄の駅員であると思っていた。ある時夫人が各駅を探し回っているうちに、駅員から「もしや、あなたの探しているのは盗塁王の福本では?」と尋ねられ、そこで初めて自分の夫がプロ野球選手であるという事実に気が付いたという。プロ入り当初は全く期待されておらず、阪急の先輩たちに「それ(小柄、非力)でよう来たな。誰やスカウト、こんなん獲ったら可哀相やろ」と散々な言われようだったという。しかし、1年目のから一軍に出場。初出場は1969年4月12日の開幕戦(対東映フライヤーズ)、代走で盗塁を試みるも失敗に終わったが、プロデビューは山田や加藤よりも早かった。からレギュラーに定着し、同年75盗塁で盗塁王を獲得。から背番号を7に変更し、同年には日本プロ野球史上唯一の3桁、達成当時はMLBの記録(モーリー・ウィルスの104盗塁)も破る世界記録のシーズン106盗塁 を記録してチームのリーグ優勝に貢献、史上初となるMVPと盗塁王のダブル受賞を果たした。7月6日の対南海戦でそれまで広瀬叔功が保持していた通算最多盗塁の日本記録を更新し、その後もまで13年連続で盗塁王を獲得する。6月3日の対西武ライオンズ戦(西武ライオンズ球場)で、当時ルー・ブロックが保持していたMLB記録を上回る通算939盗塁を記録。この試合では大差でリードされていたにもかかわらず何度もしつこい牽制球が来るため、それに反発して走ってやろうかという思いに駆られ、また、わざわざ記録達成を楽しみに見に来てくれたファンにも報いなければという気持ちもあったという。記録を達成した瞬間には、同球場で初めて西武以外の選手を祝福するための花火が打ち上げられた。盗塁のMLB記録を超えた後、当時首相の中曽根康弘から国民栄誉賞を打診されたが、「そんなんもろたら立ちションもでけへんようになる(全国紙面では「呑み屋に行けなくなる」と報道された)」と固辞した。ただし大阪府知事賞詞(現:感動大阪大賞)の受賞は受け、大阪府知事岸昌から賞詞を受け取っている。また、記録達成を記念して特例による名球会入会が認められたがこれも固辞し、同年9月1日の対ロッテオリオンズ戦で田村勲から中前打を放ち、史上17人目となる通算2000本安打を達成して正式に入会した。8月7日には1000盗塁に到達。その後は記録を1065まで伸ばした。引退から4年後の6月16日、リッキー・ヘンダーソンにより、同記録は破られた。ヘンダーソンが福本の記録に近づいた際、福本は記録を破る瞬間を見届けるべく渡米している。ヘンダーソンは、福本が始球式を務めたその試合で見事福本の記録を抜いた。福本はヘンダーソンを祝福し、金色のスパイクをプレゼントしたのに対して、ヘンダーソンは試合後、記録を達成した時の二塁ベースをプレゼントした。福本はヘンダーソンの身体能力、特に盗塁・帰塁の1歩目を「まるでベン・ジョンソンのスタートのようだった。自分の筋力ではできない」と絶賛し、ヘンダーソンも福本について「尊敬に値する人物」と述べた。1984年から1986年前半までレフトを守る機会が増え、40歳近くになると盗塁のサインがダグアウトから出るようになったり、晩年は「走るな!」のサインまで出されることもあったという。1987年4月18日のロッテ戦(川崎球場、先発・山田久志)で佐藤健一のライナーを無理に取ろうとして右肩の脱臼をした。(全治2週間)福本にとって最初で最後の大きな故障離脱で、これを境にスタメンから外れ、出場試合数も減るようになった。(福良淳一、ダラス・ウイリアムズなどが1番打者に)10月23日、阪急ブレーブスとしての阪急西宮球場最終戦、試合後の挨拶で監督の上田利治が「去る山田久志、そして残る福本」と言うつもりだったものを、間違えて「去る山田、そして福本」と言ってしまい、チームのみならずファン・マスコミを巻き込んだ大騒動に発展した。福本は殺到するマスコミを前に「上田監督が言ったなら辞めます」と言い、そのまま40歳で現役を引退した。早くから引退を示唆していた山田に対して、福本は皆に「冷たい奴や」と言われたと回顧している。後年、この時のことについて「引退を取り消すのが面倒くさかった」とも、「体力的にはあと3年はやれたけどね」とも語っている。また、ベースボールマガジンなど一部メディアでは、前日にコーチ要請を受け、阪急もなくなると言うことで引退を決めたと書かれている。週刊ベースボールでのインタビューによれば、当初は自由契約を希望したものの、受け入れられず任意引退の形を取られ(取らされ)、それならばと思いコーチ兼任を依頼したが拒否されたという。結果的に知人のアドバイスにより引退を決意した。他方で、その8日前で阪急身売りが公表される前の10月15日、毎日放送の野球中継中(南海対近鉄第25回戦)、門田博光の活躍に触れる際、同年代の選手として引き合いに出す形で福本がその年限りで辞めると述べていることが井上光央アナウンサーから言及されている。現役最末期の福本は盗塁数が極端に減っており、やくみつるに「走らざること山の如し」と揶揄されるほどだったが、これは出塁しても「待て」のサインが出るようになったためで、これにプライドを傷つけられていたことも引退の一因になっていると語っている。なお、最後に出場したオールスター戦では盗塁を試みており(結果は失敗)、これについて「知らないうちに足が動いていた」とコメントしている。またの引退試合(対読売ジャイアンツ戦・西宮球場)では山田共々阪急のユニフォームで打席に立った。その後、コーチとして携わるオリックス・ブレーブスのユニフォームに着替えてベースコーチを担当した。引退後はオリックスの一軍打撃コーチ(1989年)、二軍監督( - )を務めた。その後は阪神タイガースの一軍打撃コーチ()、一軍外野守備・走塁コーチ()歴任した。阪神のコーチ時代、1999年に監督就任した野村克也に現役時代の盗塁術を買われて三塁ベースコーチを任せられたが、「安打を打てなければレギュラーになれない。レギュラーになれなければ出塁できる確率も少ない。出塁ができなければ盗塁もできない」という持論から選手に打撃指導ばかりしていたため、同年限りで解任された。その後は( - 、 - )朝日放送・サンテレビジョンの野球解説者、スポーツ報知で野球評論家として活動している。に野球殿堂入り。現役時代からボランティア活動に熱心に取り組んでおり、日本身体障害者野球連盟の名誉理事長も務めている。また、1月からは、阪南大学野球部特別コーチに就任。2月には、阪急の後継球団・オリックス・バファローズの春季キャンプで、臨時コーチとして打撃や走塁を指導する。2007年、第5回グッドエイジャー賞を受賞。野球以外では、阪神甲子園球場そばにあるベースボールバー「G.LOVE」のオーナーを務めており、店内には本人の阪急時代のユニフォームや阪急西宮スタジアムの座席などが飾られている。(現在は本店舗含め計3店舗を展開している)1年目の4盗塁から2年目に75盗塁できたのは、1964年東京オリンピックの400メートル競走選手(早瀬公忠選手(八幡製鉄)の可能性が高い)が阪急の春季キャンプに臨時コーチでやってきて、腕が横振りであったのを矯正されたのと、腿上げを繰り返しさせられたのがきっかけと語っている。また、福本の足はチーム内でも特別俊足というわけではなく、走塁時に左右の歩幅が一定で横に広がらない陸上短距離選手が理想とするような走り方であると足跡を収めた映像を交えて検証されたこともある。なお、初の盗塁王については福本は「単に勢いで取れただけ」と語っている。打力が付きレギュラーに定着したが出塁すると牽制死、盗塁失敗を繰り返していた。こんな状況では自身のプロ生活は長くないと感じていたある日、自分が野球選手だったという証を残すため友人に8ミリカメラで試合を撮影するよう依頼する。すると自宅でその映像を見ていた時に投球と牽制で投手の体の動きが違う「癖」に気づき、これにより盗塁を仕掛けるタイミングをつかんだ。その後フィルム撮影は球団の手で行われることとなった。しかし、近鉄バファローズの神部年男、鈴木啓示の2人だけはなかなか癖を盗むことができず、何度もフィルムを再生しなおし、神部は軸足(2mmほど動いたら投球する)、鈴木は顔(打者に向いている時は牽制、走者を一度見たら投球)に癖をあることをついに発見、両投手の攻略に成功した。この研究が1972年の106盗塁と言う大記録につながっている。リーグでも牽制が上手い東尾修を盗塁における1番のカモにしており、顔を合わせるごとに「オレの弱点は何なのか教えてくれ」と東尾にしつこく聞かれ教えてしまい、それを基に東尾は次の対戦までに癖を直してきた。しかし、癖の修正によって生まれた新たな癖を発見したという。ただし、この件に関しては発見したのが互いの引退間近の頃だったため、再び隙をつく機会が得られず引退後もたびたび悔しがっていた。盗塁の3要素と言われる「3S」、つまりスタート、スピード、スライディングのうち、スタートは以上のような徹底した投手の癖の研究、スピードは天性の俊足と若い時のフォーム矯正によって研磨された。残るスライディングについてはつま先からやわらかくベースに触れるスライディングを誰にも教わることなく独自に編み出している。スピードを殺さず、足への負担も少ないスライディングだった。ヘッドスライディングは怪我しやすいと嫌い、ほとんどしなかった。ヘッドスライディングの危険性については引退後もたびたび解説の場などで口にしている。スパイクシューズも特注で、普段の靴のサイズ(25 cm)よりも小さい24.5cmを使用し、400グラム弱と非常に軽く作られていた。福本の盗塁には優れた2番打者の存在も大きかった。福本自身、「有能なサポーターがおらんと、盗塁なんてひとつも成功しない」と語っている。当初は阪本敏三、ついで大熊忠義がその任にあたった。大熊は福本が盗塁を企図し、スタートが悪ければカットし、微妙な場合は空振りするなど、巧みなアシストをし、二塁に達した後はバントや右打ち(福本が二塁に達したときには、カウントが悪くなっていることが多かった)で三塁へ進めていた。一度、盗塁を目論んで一塁から良いスタートを切れたにもかかわらず、大熊がその投球をファウルボールにしたことに対し、「1球見送ってくれたら、二塁は完全にセーフやったのに」と言った結果、大熊の機嫌を損じた。頭にきた大熊の申し出で、その翌日から2番打者がウイリアムスになった。ウイリアムスは1球目から打ちに行くため、福本は丸1週間全く盗塁出来なくなった。アシストが無いと走れないと謝罪し、大熊は元の2番に戻ってくれたという。1978年からは簑田浩二が台頭、簑田は自身も俊足を生かしてこの年から1983年まで25盗塁以上を記録した。このように、福本の盗塁術は徹底した研究と高度な技術によって完成されたものだったが、何よりも大切なのは思い切りだという。福本の盗塁成功率は106盗塁した1972年で.809、通算で.781と優秀ではあるが飛び抜けて高くはなく、通算盗塁刺299も日本記録である。これらのことから盗塁数の多さは同時に盗塁企図数の多さを示しており、思い切りの良さが現れている。1979年のオールスターゲームの時、やはり俊足を売りにしていた広島東洋カープの高橋慶彦が福本に盗塁術の教えを請うたところ、答えはたった一言「気合いや」だったので面食らったという(ちなみに、高橋は歴代5位の通算477盗塁を記録しているが、福本に次ぐ歴代2位の通算206盗塁刺を記録している)。なお、第1戦の3回裏、安打で出塁した福本はすぐに盗塁を成功させ、高橋も9回に三盗を成功させている。野村克也は、福本について「(こちらが)走ると思うと走らない。走らないと思うと走る。あいつに鍛えられた」と評している。また、堀内恒夫は「福本はクロスプレーも巧い。福本は、クロスプレーの際に相手の捕手がベースを覆い隠していた場合には、相手の脚の関節をスパイクの裏で蹴るらしい。そうすることにより、自然に相手の足が動いて隠れていたホームベースがあらわれる」と語っている。1972年に球団はPRのために、福本の足に1億円の保険をかけた。この保険は福本が引退するまで継続されたが、後述するように人一倍体調管理、怪我防止、強靭な体作りに神経を使い、なにより「これだけ金をかけてる以上は絶対に大事にしないといけない」という心構えから、福本は現役中一度も足を怪我しなかったため、保険金も支払われることなく終わっている。ちなみに、ホームスチールの成功率は低く7回試みて成功は1回のみである。福本の盗塁が脅威になると、他球団も対策に真剣に乗り出すようになった。盗塁だけでなく打撃においても優秀な選手であったのは、2500本安打を達成したことや、8000打数以上の選手中で歴代4位となる通算打率.291の数字を残していることなどからも証明されている。しかし、新人時代はプロのスピードに押されっぱなしで、福本は打撃練習の際に三塁側へ「当て逃げ」のような打撃を繰り返していた。「足が速いので三塁側に転がせば内野安打になります」と西本幸雄監督に話したこともある。しかし、西本監督には「そんな楽な練習しかしていなかったら力など絶対つかない」「いくら体が小さくてもしっかり振り切るバッティングをしなきゃいかん。オフの間にバットをしっかり振れる体を作ってこなければレギュラーには使えん」「ツボに来たらホームラン、ってものを持っていないとプロでは長生きできない」とひどく叱られたという。南海・野村克也の勧めで藤原満(元・南海)が先駆けて使用していた径の太い「つちのこバット」を、(藤原の近大の先輩である)大熊がせしめてきて福本に打たせてみたところ、「コーン」と良い音がして、強くて速い打球が打てたという。これをきっかけに福本はつちのこバットでしっかり振り切る練習を繰り返した。努力の甲斐あって、2年目はしっかり力のある打球を飛ばせるようになり、本塁打も8本記録した。2年目のキャンプ時、見違えるようなスイングに西本監督に「誰に教えてもろたんや?」と言われ、「いやだなぁ、監督ですよ。監督に言われたとおりに素振りしていたらこうなりました」と答えたという逸話がある。このときのトレーニングが功を奏し、小柄な体格のわりには長打力も身につき、シーズン2桁本塁打を20年間で11度記録(最多で21本塁打)し、に高橋由伸に更新されるまではシーズン初回先頭打者本塁打の日本タイ記録(1972年の8本)保持者でもあった。なお、通算43本は現在も日本記録である(日米通算ではイチローが更新)。この戦法は後の俊足打者にも強い影響を与え、若松勉(元ヤクルト)・大石大二郎(元・近鉄)らもつちのこバットを愛用していた。盗塁では投手の癖を盗むことに執心した福本だが、打撃は自然体で臨んだという。岡崎満義に「(癖を盗む研究を)打撃にも生かさなかったんですか」と質問された際、「打撃ではどうしてもうまくいきませんでした。癖を盗むことにより球種などを読めたことで、逆に気負ってフォームが崩れてしまうんですわ」と答えている。通算4回の最多安打は、にイチローに抜かれるまではパ・リーグ記録であった。2011年現在は榎本喜八、ブーマー・ウェルズと並ぶパ・リーグ歴代2位の記録である。また、1977年にはプロ野球歴代4位タイ、パ・リーグ歴代3位の30試合連続安打を達成している。に三塁打、現役最後となった1988年に二塁打の通算記録を更新し、一時は盗塁と合わせて3つの日本記録を保持していた。このうち二塁打はに中日の立浪和義に破られたが、2011年現在もパ・リーグ記録である。立浪は記録更新に際して「福本さんの足があと少し遅ければ、この記録更新はなかった」とコメントしている。これは通常の選手なら三塁打が難しく二塁打になる当たりでも三塁打にできるという福本の走塁能力の高さを指している。通算二塁打と三塁打を合わせた数(564)は歴代1位である。俊足や判断力は守備にも生かされた。社会人時代から肘に故障を抱えていたため送球にやや難があったが、それを補って余りある守備範囲を誇り、通算守備機会5272、通算刺殺数5102は現在もプロ野球記録である。7月22日に阪急西宮球場で行われたオールスターゲーム第2戦では、阪神の田淵幸一が放った本塁打性の打球を、フェンスの上までよじ登りキャッチしてアウトにした。これを見た巨人の長嶋茂雄は「あれは人間業ではありません」とコメントした 。同試合ではファインプレーに加えて本塁打も1本放ち、MVPを受賞している。ダイヤモンドグラブ賞(現・ゴールデングラブ賞)を歴代最多の12回も受賞するなど「外野守備の名手」と言われる福本だが、新人時代のキャンプでは守備練習でバンザイを繰り返すなどプロの壁にぶつかった時期があった(松下電器時代までは、足の速さから自分勝手な判断で走り出しても捕球できたが、プロは違ったと語っている)。そのような福本を見た監督の西本は、外野守備と打撃を担当していた中田昌宏コーチに「福本を鍛えてくれ」と命じた。福本は途中から伸びてくる難しい打球のノックを毎日200本近く受けるうちに打球の落下点を想定するのが早くなり、落下点まで直線的に走れるようになったことで今まで捕れなかった打球が捕れるようになったという。また、中田は相手チームの打者の打球傾向を調べ上げ、「フリー打撃でも打者の打球傾向が出るはずだから、よく見とけ」と相手チームの打撃練習を観察するように義務づけた。さらに「中堅手の頭を越える打球なんてそうあるものじゃないんだから、なるべく前で守れ」と助言した。こうした中田の教えや練習と経験の積み重ねによって、福本は外野守備の名手へと成長していった。肩については、福本自身は「そこそこ自信があった」と述べているが、前述のように肘に故障を抱えており、実際には、送球や返球にはやや難があった。晩年(1984年以降)はレフトにまわっている。強肩・送球の優劣を示す目安としての補殺数をみると、通算109補殺(2293試合)を記録しているが、1補殺あたりの試合数を強肩中堅手としての評価が高い他中堅手と比較するとかなり見劣りがする(福本が21.0であるのに対し、例えば山本浩二は14.8である)。福本は、オリックスについては自分たちのあとも山森雅文、本西厚博、田口壮、イチローと優れた外野手が輩出され、守備練習の基礎も受け継がれているので、「選手たちはかわいい」と語っている。17年連続規定打席到達、シーズン全試合出場8度のパ・リーグタイ記録をそれぞれ持っている。また2008年現在、阪急・オリックスの生え抜き選手として唯一2000本安打と2000試合出場を記録している。阪急の厚い外野手選手層の中でレギュラーをつかんだ頃、ある試合で死球を受けた時、大熊忠義に「それで休んだらイスなくなるぞ」と言われ、少々の怪我では休まない強靭な体を作ることを意識するようになった。通算本塁打は208本であり、これは日本プロ野球界の通算安打数ベストテン(2014年シーズン終了時点で、張本勲、野村克也、王貞治、門田博光、衣笠祥雄、福本、金本知憲、立浪和義、長嶋茂雄、土井正博の10人。なお、メジャーリーグベースボールでプレーした選手は含めないものとする)に入る選手の中では立浪(171本塁打)に次いで少ない。また、シーズン20本塁打に到達したのも1980年の1回のみである。しかし、プロ1年目から最終年まで本塁打のなかったシーズンは一度もない。現役時代の背番号「7」はオリックス・ブルーウェーブの準永久欠番待遇であったが、引退前後に親会社が阪急電鉄からオリックスに変わったことなどがあって、正式な永久欠番とはなっていなかった。ドラフト1位で入団した田口壮に背番号7が打診されたが、田口が固辞している(田口の背番号は6になった)。また、イチローもシーズン210安打を記録した1994年のオフに背番号7への変更を打診されたが固辞している。には本人公認の上で、同年に横浜ベイスターズから移籍してきたばかりのであった進藤達哉が背番号7を着けた。進藤が引退した後は日高剛が背番号7を着け、に球団が近鉄と合併してオリックス・バファローズになった事を受け、準永久欠番扱いも失効している。山田が「7と(山田の)17は永久欠番にしてほしかったなあ」と語ったのを受け、福本は「それと(加藤英司の)10。この3つは今からでも返してほしいね」と語っている。2016年現在、公式記録上の後継球団であるオリックス・バファローズにおいて、上記の背番号を付けている選手は、糸井嘉男(#7・外野手)、大城滉二(#10・内野手)、山崎福也(#17・投手)である。ヘッドスライディングを行った選手に対して「到達時間が変わらないのに怪我をする確率が高くなる」、牽制球に対して手からの帰塁に関して「手から行かず、足から帰る。怪我をするだけ」と、この2つに関しては度々語っている。ユニフォームの着用について、ストッキングを見せるクラシックスタイルを「正しいユニフォームの着方」「あんなに格好いいものはない」と強く推奨している。理由として「膝下まで引き上げたストッキングがストライクゾーンの目安となる」「足が速そうに見える」などを挙げている。技術的な説明を求められると「ゴーン」「カーン」「ビャッと」などの擬音で表現することが多い。赤星憲広に対しては厳しい評言をたびたびおこなっていた。もちろん好き嫌いで評価しているのではなく、走攻守の全てで高いレベルのプレーを要求していたことの現れであり、特に盗塁及び外野守備については熱く語る傾向にあった(福本は赤星のヘッドスライディングやダイビングキャッチを好まず「駆け抜けたほうが速い」「怪我の危険性も高くなる」「上手い外野手は飛び込まずに落下地点できっちり捕る」などとしばしば発言していた。(奇しくも赤星は福本が抱いていた懸念通り、ダイビングキャッチによる首の負傷が原因で引退を余儀なくされる事となった)。大の宝塚歌劇団好き(いわゆる「ヅカファン」)。元々宝塚歌劇団と阪急ブレーブスは同じ阪急系列ということで身近な存在ではあったが、以前は「女性が見るもの」という意識から敬遠していたという。しかし2006年に初めて観劇したところ「目からウロコが落ちた」といい、以後は「最低でも週1回は通い、多い時には1作品を10回ぐらい見る」とのこと。自ら「自分に会いたければ月曜日に宝塚に来ればいい」と語るほど。劇団創立100周年に当たる2014年に行われた「宝塚大運動会」では、大トリ競技の「組対抗リレー」でスターターを任された。また落語好きでもあり、自らの店でも親交のある落語家(笑福亭銀瓶など)を招いて定期的に落語会を開いている。中でも笑福亭仁智は福本を題材とした創作落語を複数発表している。金村義明(元近鉄ほか)とは現役時代から仲が良く、普段は名字で呼ばれることの多い金村を「義明」と下の名前で呼んでいる。。釣りを趣味としており、。以下はプロ野球のオフシーズン限定番組以下はABCテレビの番組
出典:wikipedia
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