九段会館(くだんかいかん)は、東京都千代田区九段南に所在する施設。旧称は軍人会館(ぐんじんかいかん)。ホール(講堂)やレストラン、宿泊施設などを備え、結婚式やイヴェント各種などに使用されていたが、東日本大震災の影響で2011年(平成23年)4月に廃業し、施設は閉鎖されている。1928年(昭和3年)11月10日に挙行された昭和天皇の即位の礼を記念する「昭和御大礼記念事業」の一環として、「軍人会館」の名称にて当施設の建造が計画されたのが始まり。在郷軍人会が計画を主導し、同会主催のコンペで選定された設計案を基にした実施設計を経て1932年(昭和7年)に起工、2年余りの歳月を費やして完成させた。完成後は計画の主導役を務めた在郷軍人会が自らの本部を当施設内に設置したほか、戦前・戦中期を通じては主に軍の予備役・後備役の訓練、宿泊に供された。終戦後、それまで当施設を運営していた「財団法人軍人会館」の解散により土地も含めて国に没収され国有資産とされたが、連合国軍進駐に伴いGHQに接収され、「アーミーホール」の名称の下、進駐軍宿舎として使用された。進駐軍撤退に伴い接収解除となった後、国は当施設の払い下げを公示、最終的に日本遺族会に対し無償払い下げを行うことになったものの、不動産取得税の納付にも事欠くほどだったという同会の財務状況を鑑みた国は「財団法人日本遺族会に対する国有財産の無償貸付に関する法律」(昭和28年法律第200号)(現在の「一般財団法人日本遺族会に対する国有財産の無償貸付に関する法律(昭和28年法律第200号)」)を別途公布かつ施行、これに基づき同会に対し当施設を無償貸与するに至った。名称も現在の「九段会館」に改められた上で1957年(昭和32年)に再開業、無償貸与を受けた日本遺族会が宿泊・結婚式場・貸しホール等の各事業を運営してきたが、東日本大震災の発災時に、ホールの天井版崩落で死傷者が出たことから、土地・建物共々日本国政府に返還、廃業に追い込まれた。屋上には靖国神社の分神が祀られているほか、陸軍大将・乃木希典の歌碑も建てられている。このうち靖国神社の分神に関しては、戦時中に靖国神社が戦災に見舞われた場合に備えたものであったとされている。前記の通り、戦後当施設は、日本遺族会による運営の下、貸しホールや宿泊、結婚式場などの各事業が展開されてきている。例年、桜開花シーズンには、当施設から皇居の桜を眺望出来るというロケーションから、花見を兼ねて食事が出来るプランが設定されていたほか、5月から9月にかけては屋上ガーデンスペースを利用してビアガーデンを開設。殊に夏季に開設されるその「屋上緑のビヤガーデン」では、古くからのファンを多く抱えていた。音楽興行領域に於いても主としてロックやフォークの系統で当施設(ホール)をコンサート会場として使用するケースは少なくなく、アーティストの中には当施設にてデビューコンサートを開くものも存在する。国内アーティストでは、サザンオールスターズ〔1978年(昭和53年)〕などが当施設にてデビューを飾っているほか、奥華子〔2006年(平成18年)9月22日〕やBIGMAMA〔2010年(平成22年)12月25日〕などは、自身デビュー以来となる初ホール公演の会場として当施設を選択している。海外アーティストでは、フライング・ブリトウ・ブラザース(1978年4月)やケヴィン・エアーズ〔1988年(昭和63年)〕などが当施設を初来日公演の会場として使用してきている。なお、当施設内ホールについて、過去十数回当施設に於いて公演を行ってきているフォークシンガー・細坪基佳(元・フォークデュオ「ふきのとう」ボーカル)は「ある程度のキャパシティがあるけれど、ステージから3階のお客さんの顔が見える。とても身近で、安心感のようなものをもたらしてくれる」と印象を語るとともに、音響については「音が自然にはね返ってくる。ナチュラルな音の返りがあるので、『リバーブ』を足したりすることをせずしても歌いやすい」と評価している。映画興行領域に於いても、当施設は少なからず使用されてきている。このうち、映画作品封切り前に於いて最初に実施される一般向け試写会である「プレミア試写会」の会場として当施設が使われた例として、2007年(平成19年)1月公開の『ユメ十夜』、同年6月公開の『キサラギ』、2009年(平成21年)3月日本公開の『パッセンジャーズ』〔2008年(平成20年)米国にて製作〕、2010年(平成22年)6月公開の『チョルラの詩(うた)』(日韓合作)などが存在する。また、2007年9月29日に公開された映画『クローズド・ノート』に於いてはヒロインの堀井香恵(沢尻エリカ)が所属するマンドリンクラブのコンサートロケ地として、同年11月3日に公開された映画『ALWAYS 続・三丁目の夕日』に於いてはヒロインの星野六子(堀北真希)が観に行った映画館のロケ地として、何れも当施設が使用されている。前記の通り、東日本大震災に見舞われた2011年(平成23年)3月11日、当施設内ホールでは東京観光専門学校の卒業式を挙行していたが、震災でホール天井の一部が崩落、同卒業式に出席していた学生・保護者・教員合わせて593人のうち、同校非常勤講師の女性2人が死亡した。この事態を受け、当施設を運営する日本遺族会は2011年4月12日に緊急の理事会と評議員会を開いて事後の対応について協議した結果、同日付にて当施設の運営を廃止し、土地も含めて国に返還することを決定〔厚生労働省に通知済〕、更に同年6月30日付で従業員全員を解雇することも決めた。一方で、歴史的建造物であることに加え、全国の戦没者遺族にとって心の拠り所となっていることから、前記4月12日の緊急理事会・評議員会では建造物としての当施設の保存を国に対し要望していくことも決めている。更に2012年(平成24年)02月28日には、約10年にわたり日本遺族会会長を務めてきた政治家で自民党元幹事長の古賀誠が、前記天井崩落事故で死亡者を出した責任を取って、同会長を辞任している。2013年(平成25年)秋、閉鎖状態で放置されていた当施設について早急な解決を望む古賀の意を受けて、自民党衆議院議員でバリアフリー新法や観光立国推進基本法などの成立に関わる等の実績を有する盛山正仁が、厚生労働省や財務省などと協議を重ねながら、法改正も含めた対応策を練り上げていった。そして、民間企業に国有地を貸し付けて建設させるという、いわばPFI的手法を利用して高層建築物に建て替えた上で、その竣工した建築物の一部を国が取得して日本遺族会に改めて無償貸与するというスキームを纏め上げた。加えて、このスキームの実行に際し必要となる前記「財団法人日本遺族会に対する国有財産の無償貸付に関する法律」の改正案も作成、同改正案は2014年(平成26年)5月15日に開かれた自民党厚生労働部会で了承を取るなどした上で、第186通常国会の会期末が押し迫る同年6月17日に議員立法の形で衆議院に提出された。当該改正法案は衆議院本会議で可決したものの、参議院に送られた段階で会期末を迎え継続審議扱いとされた。その後、第2次安倍内閣が改造されてから最初に開会した第187臨時国会の、やはり会期末が押し迫る2014年11月18日に、継続審議扱いとされていた参議院に於いて先に審議が行われ翌11月19日に本会議に於いて可決、その日のうちに衆議院に差し戻され、2日後の11月21日に開かれた衆議院本会議にて可決・成立。11月28日に法律として公布され、即日施行された。2015年(平成27年)8月31日、関東財務局は当施設に係る建物調査等業務の一般競争入札を公示した。半月余り後の9月18日に入札並びに開札を行うことになっている。なお、前記2011年4月12日に開かれた日本遺族会の緊急理事会・評議員会に於いて当施設の運営廃止等と共に決定された、建造物としての当施設の保存を国に対し要望する件については、可決・成立した前記改正案に附帯決議を採択・添付する形で反映されている。東日本大震災により当施設内ホールの天井の一部が落下し、当時同ホール内に於いて卒業式を挙行していた東京観光専門学校の非常勤講師2人が死亡したことを巡り、死亡した2人の遺族などが当施設の総支配人および当施設を運営する日本遺族会の会長(当時)・古賀誠の2人を、崩落防止の義務を怠ったとして、震災から約2ヶ月経過した2011年(平成23年)5月12日、業務上過失致死傷罪の容疑にて警視庁麹町署に刑事告訴した。刑事告訴を受けて警視庁は捜査を進めてきたが、事故発生当時、吊り天井に関し明確な耐震基準が策定されておらず、その中で日本遺族会は国が定めていた範囲の定期検査は実施していたとして、死亡した2人についての予見可能性は問えないと判断、そして2013年(平成25年)11月8日、警視庁は遺族らが求めていた前記2名の業務上過失致死傷罪での立件を見送ることを決め、起訴を求めない旨の意見書を付けて東京地方検察庁に書類送付した。なお、刑事告訴した前記遺族らは、同時に民事訴訟を起こす考えも示している。
出典:wikipedia
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