鈴木 啓示(すずき けいし、1947年9月28日 - )は、兵庫県西脇市出身の元プロ野球選手(投手)・監督。通算317勝は日本プロ野球(NPB)歴代4位。元は右利き。4歳の時に右腕を骨折した際、プロ野球選手に育てたいという父親の意向から左利きに矯正された。育英高等学校では1964年、2年の時に夏の甲子園兵庫県予選決勝に進出するが、芝池博明投手を擁する滝川に0-1で敗退。しかし同年秋季近畿大会では決勝に進出。向陽高の野崎恒男と投げ合い、延長17回の熱戦を制しサヨナラ勝ち。翌1965年の春の選抜への出場を決める。選抜では2回戦(初戦)で徳島商の利光高明投手(日本生命)に抑えられ、1-3で敗れる。同年夏の県予選決勝では報徳学園と対決、エース谷村智博と投手戦の末、0-1xでサヨナラ負け、夏の甲子園出場はならなかった。高校同期に三塁手の藤村哲也がいる。育英高等学校から1965年のドラフト2位で近鉄バファローズに入団。当初は阪神タイガースの1位指名が有力とされていたが、阪神は鈴木を指名しなかった(石床幹雄を指名)。新人の年にオールスターゲームに出場し、同じ左腕で大先輩の金田正一(巨人)にカーブの投げ方を習おうとすると、「教えて欲しければ銭もってこい」と言われ、それまでの尊敬心から一転して敵愾心を燃やすようになる。金田がロッテの監督だった1973年から1978年までの6シーズンはロッテ戦通算26勝8敗の好成績を残し、ロッテキラーとなった。入団1年目に10勝、以後15年連続二桁以上勝利、翌年からは5年連続20勝以上をあげ、押しも押されもせぬ近鉄のエースとなった。1968年8月8日の対東映戦(日生球場)でノーヒットノーランを達成。1969年に24勝で最多勝。1971年9月9日対西鉄戦(日生球場)では2度目のノーヒットノーランを記録した。若い頃は江夏豊とともに「セの江夏、パの鈴木」と並び称された奪三振の多い投手であった。1967年から1972年にかけて6年連続で最多奪三振に輝くが(江夏も全く同じ期間に6年連続最多奪三振を記録)、1972年頃から奪三振数が半減し、投球内容の質も低下し始めた。鈴木本人によると「入団当初はノーコンでね。1年目の開幕直後には四球連発で二軍に落とされたこともある。制球力を付けられたのは日生球場のお陰やで。ホームランを警戒して低めをつく投球を、球場が教えてくれた。2度のノーヒット・ノーランは日生がくれた褒美やった。」と当時を振り返った。その後、1974年に監督に就任した西本幸雄の指導により、力任せの直球主体の投球を改め制球・配球を重視する頭脳的なピッチングを構築していく。当初は西本に反発し、1974年のオフに主砲の土井正博がトレードされた際には、「次は自分の番」と考えて、阪神監督の吉田義男にトレードを志願する電話をかけたこともあった。1975年3月の阪神とのオープン戦では4回4失点でKOされると西本から「少しは向こうのピッチャー(山本和行 - 4年目)を見習え!」とベンチで言われるなど叱責が続いたが、やがて西本が自分とチームのことを本気で考えていると気づき、その指導を受け入れていった。この年は4年ぶりに20勝以上を挙げ、防御率も2.26の好成績を残す。奪三振数は減少したが、無駄な四球と失点も減少した。この頃から有田修三とバッテリーを組むようになる。1977年には200勝を達成、20勝で最多勝を残した。翌1978年、25勝で2年連続最多勝、防御率2.02で最優秀防御率を獲得した。同年に当時の日本新記録となる10試合連続完投勝利を記録し、見事な投球で往年の剛球が蘇り、最多奪三振・最多完封も記録し、「五冠」のうち勝率を除く4つの部門でリーグトップの成績を残した。同年の鈴木を最後に、日本プロ野球で年間25勝以上を挙げた投手は現れていない。この年は「勝てば後期優勝」のかかった9月23日の阪急との最終戦(「藤井寺決戦」とも呼ばれる)で、山田久志との投げ合いに敗れ、その後阪急が逆転優勝を遂げて3年ぶりの半期優勝を逃した。試合後、辞意を仄めかした西本監督に対して「監督をやめないでくれ! オレたちを見捨てないで下さい」と鈴木は絶叫。他の選手もそれに賛同したことで西本は留任し、翌年悲願の初優勝を達成、翌々年も優勝を果たした。上記の他、日本一がかかった1980年の日本シリーズ第7戦でも近鉄リードの場面から救援登板して敗戦投手になり、「残り4試合中2勝で優勝」だった1969年終盤の対阪急4連戦の初戦では先制を許して5回でマウンドを下りている(近鉄は敗れたが鈴木に敗戦は付かず)。一方、1975年の後期優勝がかかった阪急戦では3点リードの8回から救援登板して胴上げ投手になり、「引き分けでも相手が優勝」だった1980年後期の対日本ハム最終戦(大阪近鉄バファローズ#10.7決戦も参照)では、打たれながらも味方打線が木田勇を打ち崩して勝ち星を挙げ、後期優勝を導いている。また、近鉄が連続優勝した1979・1980年のプレーオフや日本シリーズでは、いずれも第2戦に先発して勝利投手となっている。特に日本シリーズでは第2戦で完封勝利、第2戦でも完投勝利と好成績を残している。これは、初戦より第2戦に回した方が鈴木が発奮してよい結果が出るという西本監督の判断だった。なお、1975年のプレーオフでは初戦に先発している(この試合は近鉄が勝ったが、鈴木は勝敗に関係ない)。西本の最終戦となった1981年10月4日の対阪急戦(日生球場)では、退任する西本に花束を渡している。1983年、鈴木康二朗がヤクルトから近鉄に移籍してきたことで鈴木姓の投手が2名となる。そこでスコアボード、新聞などに"鈴木啓"と表記されるのを嫌った啓示が「オレは今までどおり"鈴木"でいい。あっちを"鈴木康"にすればすむことだろ。」と発言したが、球団は認めず"鈴木啓"表記を使用。しかし後年、"鈴木啓"と表記されたのと共に実況放送やスポーツニュースなどでフルネームで呼ばれる機会が増えたため「名前を正しく覚えてもらえた」と新聞の取材で語っている。1984年に通算300勝を達成。この時、球団主導で「鈴木投手の300勝は何月何日?」とファンに予想してもらう企画があったという(なお1983年シーズン終了時点であと4勝に迫っていたため、1984年中の達成は確実と見られていた)。鈴木の300勝および3000奪三振達成を記念して、同年12月9日、親会社の近鉄では上本町 - 鳥羽間に300勝・3000奪三振記念パーティーの招待客を乗せる特急「草魂号」が運行された。同列車は担当する列車乗務員の苗字を全員「鈴木」で揃えたり、鈴木啓示自ら改札に回ってファンと触れ合うというエピソードが残っている。この年、公共広告機構(現:ACジャパン)のコマーシャルに起用され、「投げたらアカン」という言葉が流行語大賞を受賞した。翌1985年7月9日対日本ハム戦(後楽園球場)において3回でKOされ、翌日の7月10日に現役引退を表明。監督の岡本伊三美は、引退申出の原因はアキレス腱を痛めて走れなくなってバント処理もままならない状態になったこと、次の先発登板も決まっていたなどと自著で書いている。鈴木から引退申出があった時は、引退を西本幸雄に報告しに行くと、西本から「もう目が死んどんなぁ。ご苦労さん」と言われた。鈴木引退の報を聞いた阪急の監督上田利治は、引退の花道にとオールスターゲーム(上田が同年の全パ監督で、近鉄の本拠地である藤井寺球場での初開催も予定されていた)への出場を鈴木に持ちかけるも辞退した。鈴木によると、上田に「パ・リーグの選手皆で胴上げしたるから出てくれ」と言われたが「有り難い話やったけど、歴史のあるオールスターを俺一人の舞台にしたらアカンと思って断った」という。1986年3月16日、阪神とのオープン戦で引退セレモニーを行なった。なお、鈴木が試合で使用したボールで所持しているのは、この最後の試合での交代時のボールだけである。通算300勝を達成した際にも、チームメイトから譲られたウイニングボールをスタンドに投げ入れていた。通算317勝は歴代4位。鈴木は20世紀最後の300勝投手となり、彼を最後に日本プロ野球には300勝投手は現れていない。現役時代の背番号1は1985年以降、パ・リーグ唯一の永久欠番となっていたが、2004年シーズン終了後の近鉄とオリックスの合併(オリックス・バファローズ誕生)により失効された(オリックスでは球団合併に際し、当時後藤光尊が付けていた背番号1の扱いについても検討され、オリックスでも背番号1を永久欠番とする考えがあり、鈴木に電話で伝えるも、鈴木本人が「自らの永久欠番はあくまで近鉄でのもの。背番号1をどうぞ使ってください」とし、合併後も後藤の背番号1継続着用を承諾した)。ゴルフに関心がなかった現役時代から、朝日放送関連のABCゴルフ倶楽部の会員になっていた。引退後は朝日放送で解説をする流れだったが、ある日、鶴岡一人から「啓ちゃん、オレと一緒に仕事をしよう」と声をかけられて、鶴岡と同じ放送局はNHK、新聞社はスポーツニッポンと契約することとなった。NHK野球解説者・スポーツニッポン評論家を経て、1993年から1995年途中まで近鉄の監督を務めた。近鉄の生え抜き選手の監督就任は小玉明利以来26年ぶりであった。引退の時点でオーナーの佐伯勇から「鈴木君、将来は監督で必ず帰ってくれ」と言われていたという。監督としての評価は芳しくなく、自己の考えを部下に押し付けるだけの監督というイメージを植え付けられた。監督に就任した1993年のキャンプにて、選手達に「スパイクを履いてランニングするように」と指示したところ、当時近鉄のコンディショニングコーチであった立花龍司に「この時期(冬場)にスパイクを履いてランニングすると足を痛める元になるからやめて欲しい」と指摘された。鈴木は自身の体験を踏まえ「野球選手がスパイクを履いてランニングするのは当たり前だ」と譲らず、結局鈴木と立花が調整方法を巡って対立することになり、同年シーズン終了後に立花は退団。同時に立花を信頼していたエース野茂英雄や吉井理人ら投手陣との対立を招くきっかけとなった。そして野茂・吉井を二軍落ちさせた結果、1995年初めに野茂がメジャーリーグのドジャースへ、吉井がヤクルトへとそれぞれ移籍した。特に野茂への批判は痛烈を極め「あいつのメジャー挑戦は人生最大のマスターベーション」とまで言い切った。ただし、野茂が移籍したのは、鈴木との対立だけではなく、球団やフロントへの不信感もある(詳しくは野茂英雄の項も参照)。吉井は「近鉄時代は鈴木啓示監督から球が高いという理由で干されたこともある。」と著書に記している。1995年、開幕から選手の不調や怪我が多発したことも重なりチームは低迷。シーズン途中で監督を辞任。また同年、メジャーへ移籍した野茂が大活躍したことを始め、吉井がヤクルトで日本一に貢献する活躍したことや、鈴木と対立した立花がロッテで陰ながら躍進を支えたことから、鈴木に対する風当たりは非常に強いものとなった。鈴木・野茂の双方とも親しい江夏豊は、複雑な心境を自著の中で述べている。野村克也は自著『野村ノート』の中で、当時、巨人に在籍していた上原浩治と重ね、エースと呼ぶのに相応しい投手だったとした上で、無理しない、意気に感じないという鈴木の思いが相手チームだけでなく、味方も感じていたと述べ、300勝という数字を残している投手であるにも関わらず、監督になって成功しなかったと指摘している。その上で、チームの中で生きていく以上、自己中心というのは致命的だと述べている。加えて、自著『俺の苦言を聞け!』の中で、楽天に在籍していた岩隈久志が、当時の岩隈の考えと、岩隈がプロに入って最初に在籍した球団が近鉄であったことを重ねた上で、以下のように述べている。近鉄と阪急の熾烈な優勝争いをしている70年代のある年のシーズン終盤の直接対決で、9回だけでも鈴木に投げさせれば逃げ切れる展開で、なぜか鈴木を投入しなかったということがあった。野村は当時の近鉄監督だった西本幸雄にその理由を尋ねたという。野村の問いに対し西本は、鈴木本人がリリーフを拒否したとの返答があり、野村は驚いたという。野村自身も鈴木に対し、エースなのになぜ自分から行こうとしないのかと質したところ、「無理をして故障したら誰が面倒を見てくれるのか」と返され、「これはダメだ。こいつ(鈴木)はエースとは呼べないな」と思ったといい、鈴木本人をまさにワガママ、自己中心主義を絵に描いたようような人物で、チームが窮地に立っていても、自分のことしか考えていないと述べている。金村義明は自著『勝てる監督 負けるボス』において、鈴木を「最低の監督」と評している。同著は野茂の「僕は、別にどうしてもメジャーでやりたかったわけじゃない。ただ、あの監督(鈴木)の下ではやれないと思った、それだけなんです」という「本音」も紹介している。なお、金村も、1994年にFA権を行使し、中日に移籍している(金村の場合は鈴木との対立ではなく、中村紀洋の台頭により、三塁手の定位置を奪われたのが理由)。当時、ロッテのGMだった広岡達朗も「近鉄はいい選手が揃っているのに、監督と選手の間がうまくいっていないという話が絶えない。あれじゃダメ」と酷評している。大村直之は高校の後輩にあたり、大村が出場した1993年夏の甲子園のビデオを見て、牽制球を投げられては「こい。もっとこい」と投手を挑発するような根性が鈴木の目に留まり、鈴木は球団に大村をドラフトで指名するように進言した。大村はその後、近鉄のレギュラーを獲得し、他にも、中村紀洋・水口栄二をレギュラーに抜擢するなど、鈴木がこの時期にレギュラーに抜擢した野手は後に2001年の優勝に貢献することになる。即レギュラーには抜擢されなかったが、鈴木在籍時のドラフトでは93年に的山哲也、94年に川口憲史を指名し2001年優勝時のレギュラーメンバーとなっている。また鈴木退任のオフにトレードに出されたバイプレーヤーの大島公一も移籍先で主軸となるなど投手出身でありながら野手を見る目があった。鈴木は自身の監督時代について「力不足やったな。自分が投げとる気分でやってしまったから。選手をうまく使ってやらなイカンのに、選手を萎えさせとったこともあった。今思えば、反省ばかりやな。ナシ(梨田昌孝) にも(コーチで)助けてもうたけど、アカンかった」と語っている。2002年、野球殿堂入り。2008年7月、監督時代に確執があった野茂が引退した際には「よくぞここまで野球に、投手に情熱を見せてきた。頭が下がる思いだ。私の監督時代に近鉄を去ったが、メジャーでの活躍は素直に嬉しかった。波乱万丈、いろんな経験をした人間ほど魅力がある。日本からメジャーに行った選手の中で、あれほどタフで、粘り強い男はいないのではないか」とコメントした。2016年現在、NHK野球解説者、スポーツニッポンで野球評論家を務めている。2016年1月12日、日本野球機構(NPB)の新人研修会で、2015年秋読売ジャイアンツの複数の選手が野球賭博に関与し処罰を受けたことへの防止策として自身の体験を語り、1969年から1971年にかけてプロ野球界を大きく揺るがした黒い霧事件当時、球団OBに紹介された暴力団関係者から八百長行為の誘いを受けたが断っていたことを明らかにした。あだ名は「クサ」(草)、あるいは「スズ」(鈴)。座右の銘は「草魂(そうこん)」。自他共に認めるワガママ(本人がインタビューでよく語っている)な性格で、新人時代、合宿所にいると先輩の世話、遊びなどにつき合わされまともに練習出来ないと感じ、すぐに合宿所を出て一人暮らしを始めていた。他の大投手と同じく、下半身強化を重視していた。遠征先が天然芝のグラウンドだった場合は先発登板した次の日もチームに帯同し、ランニングによる調整を行っていた。また、直球勝負にこだわり、1974年に監督就任した西本幸雄には「20勝もエエけど、同じするなら負けを1桁にせんとエースとは言えん」「ストレートを思い切り投げて、打たれたら本望、なんて言うのはマスターベーションや」と批判された。最初は反発して、阪神の吉田義男監督に「トレードで取ってくれ」と電話したほどだったが、西本監督が根気よく説得した結果、根負けする形で受け入れるようになった。すると成績も良くなって来たので、「このオッサンについていったら大丈夫やな」と思うようになった。当時の近鉄には「ありなしコンビ」といわれた有田修三と梨田昌孝という力の拮抗した二人の捕手がいたが、鈴木の登板試合時は相性が考慮され、大半の登板試合で有田が先発していた。リーグプレーオフ、日本シリーズ、300勝達成時とも鈴木の先発した試合はすべて有田が先発捕手である。野村克也によれば、鈴木は典型的な「技術職人」タイプの投手だという。野村は、投手には自分の持ち球に絶対の自信をもってそれを中心に打者を攻め、打者との駆け引きを考えない、金田正一に代表される「技術職人」タイプの投手と、打者の心理状態を読み込んで配球・駆け引きを組み立てていく稲尾和久に代表される「心理学者」タイプの投手に分かれるという。「技術職人」タイプの投手にはたとえば監督が無理なリリーフを頼んでも「自分の体を壊したくないから嫌です」といい受け入れないというような自己中心主義があり、鈴木はまったくその性格にあてはまっていると野村は指摘する。自分の投球技術を鍛えるための鈴木の練習はたしかに非常に厳しいものであったことを野村は高く評価しているが、しかしこの他人がみえない一方的な厳しさが鈴木が指導者になったとき、チームプレイの軽視や他の投手の教育の困難をもたらすものではないか、という指摘を野村は鈴木の現役時代にすでにおこなっていた。結果的に鈴木の監督時代の失敗によって野村の危惧は的中してしまうことになった。牽制球の技術に優れ、盗塁王の福本豊が神部年男と並んで最も苦手にしていた投手である。福本は8mmフィルムによる投手の研究に力を入れたが、そのきっかけは鈴木・神部対策だったという。通算317勝のうち288勝が先発勝利であり、歴代1位の記録である。当時のエース級の投手は救援に立つことも多いのが常であったが、先発完投を身上とした鈴木はリリーフを好まず、救援勝利は29に留まる。そのうち27勝が「交代完了」で、救援して更に他の投手の救援を得て勝利投手となったのは、通算2回。また、通算セーブはわずかに2である(同時期のエース級の投手では山田久志が通算43セーブ、村田兆治が通算33セーブ、東尾修が通算23セーブを記録している)。一方、被本塁打560本は2位(山田久志・490本)を大きく離す歴代1位であり、MLB記録(ジェイミー・モイヤー・511本・2011年現在)をも上回る世界記録である。鈴木自身はこの記録について、「男の勲章だと思っている。どんな強打者からも逃げずに勝負した結果。560本も打たれるまで使ってもらえる投手は他にいない。」と語っている。通算78無四球完投というプロ野球記録も持っているが、これも「コントロールももちろん磨いたが、それ以上に誰からも逃げなかった証」と語っている。レロン・リーは鈴木について、「自分が対戦した最高の左腕投手。メジャーリーグでもあれほどの投手はいなかった。どんなバッターにも堂々と勝負していた」と讃えている。打撃に関しても優秀で69〜72年の登板時には7番打者を務めることが多かった。824打数172安打(.209)13本 70打点
出典:wikipedia
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