平松 政次(ひらまつ まさじ、1947年9月19日 - )は、岡山県高梁市出身のプロ野球選手(投手)、野球解説者。「カミソリシュート」の異名を取る、高速かつ凄まじい切れ味を誇るシュートを武器に、大洋ホエールズで18年間活躍した。愛称は「カミソリ平松」。風邪をよく引いたり故障が多かったことから「ガラスの平松(ガラスのエース)」とも。3歳で父親と死別。岡山県立岡山東商業高等学校時代の、湊山球場での秋季中国大会決勝で米子東に敗れたが、準優勝の成績を収め、翌春の第37回選抜高等学校野球大会に出場。39イニング連続無失点の大会新記録を樹立し、決勝で藤田平のいた市和歌山商を、延長13回サヨナラ勝ちで降し優勝した。同年夏は県予選準決勝で倉敷商の松岡弘、東中国大会決勝で関西高校の森安敏明に投げ勝ち甲子園出場を決める。この大会では春夏連覇が期待されたが、1回戦で降雨ノーゲームによる再試合の末、日大二高に敗れた。同年の第1回ドラフト会議で中日ドラゴンズに4位指名を受けるが入団拒否。社会人野球の日本石油に入社した。翌の第2回第2次ドラフト会議で大洋ホエールズから2位指名を受けるが入団保留。このドラフト会議では巨人から1位指名の確約を受けていたが、巨人は槌田誠を指名した。巨人は競合した槌田の抽選に外れた場合、平松を指名する予定であったといわれている。8月8日に行われた第38回都市対抗野球大会で優勝し橋戸賞を受賞。大会終了の2日後、大洋に入団。なお、入団説得のために高校の先輩でもあり、当時の大洋の主力選手であった秋山登と土井淳も平松の許に訪れた。1・2年目はチャンスがなく、一軍選手が雨天のため体育館で練習をした際に、打席に立った近藤和彦から冷やかしで投げさせられたのが、本人も初めて投げたシュートであった。初めて投げたシュートは胸元に食い込み、驚いた一軍選手がコーチに報告してチャンスが到来した。そして3年目のに14勝をあげて頭角を現す。翌年のは25勝をあげ、最多勝利投手のタイトルを獲得し、沢村賞を受賞。また、セ・リーグのベストナインにも選出された。も17勝で2年連続最多勝。12年連続2桁勝利をあげるなどエースとして低迷するチームを支えた。現役末期は怪我に泣き「ガラスのエース」と呼ばれたが、に200勝を達成。甲子園優勝投手で、投手として名球会入りしたのは現在のところ平松だけである(王貞治と柴田勲は打者として名球会入りしている)。限りで現役引退。リーグ優勝は経験できなかった(Aクラス経験はある)。同じ岡山県出身の星野仙一(中日)、松岡弘(ヤクルト)と共に、「打倒巨人」に燃え、巨人キラーとして活躍。彼の投げるシュートボールは「カミソリシュート」と呼ばれ、数多くの右打者のバットを根元からへし折った。全盛期には、ど真ん中のボールが、右打者の体に当たるくらいまで変化したとまで言われている。引退直後、近藤唯之が「あなたは巨人戦51勝、200勝も達成した。悔いはないでしょう。」と尋ねたところ、「自分は現役生活で1度も優勝できなかった。それに鈴木啓示はまだやっている(鈴木は同学年でライバルかつ親交があった)。2つも悔いがあるんですよ」と語っている。また、投手としては打撃にも優れ、投手では歴代4位の通算25本塁打を記録した。ちなみに、漫画「巨人の星」にて大リーグボール3号を初めてヒットにした打者である。引退後はフジテレビ(フジテレビONE「プロ野球ニュース」などで司会を担当することもある)、ニッポン放送(2005年まで)、テレビ神奈川の野球解説者を務め、現在に至る。大洋や後身の横浜、DeNAの監督・コーチなどに就任することはなかったが、に横浜が日本一になった時には我がことのように喜んでいた。また、2006年に発足したNPO法人・横浜ベイスターズ・スポーツコミュニティの初代理事長に就任した。この団体はベイスターズが新日本石油株式会社と提携して、スポーツを通じて地域貢献を目指す法人である。平松がベイスターズ・日本石油野球部(現新日本石油ENEOS)双方のOBに当たる縁から就任要請を受けたものである。2006年6月2日、横浜スタジアムの右翼外野部分に名球会入りした選手を称えるプレートが設置された。2012年12月1日、ホエールズ ベイスターズOB会の会長に就任した。平松の代名詞であるシュートだが、社会人時代は投げ方を教わってはいたものの、実際に投げることはなかった。アマチュア時代はカーブですら平松本人に言わせると「(完全な『カーブ』ではなく)カー」程度にしか曲がらず、投げる球種の大半がストレートだったが、それでも打者を打ち取れていたためシュートを投げる必要がなかったのである。しかしプロ入り後、1969年春のキャンプで近藤和彦と近藤昭仁に大したことないというような内容を言われ、カッとなってそれまで投げたこともないシュートを全力で6球投げてみた。するとボールは平松自身も驚くほど鋭く打者に向かって変化、近藤和彦は腰を抜かしていたという。この時の6球でカミソリシュートが誕生したといい、間もなく一軍に昇格しその後の活躍に至った。シュートを投げる際の投球フォームはストレートと同じで、一瞬左肩を早く開いて右腕を遅らせる。晩年に球威が落ちると腕を内側にねじる投げ方に変えたが、平松は全盛期の右腕を遅らせる投法を理想として後輩に教えている。しかしその感覚を他者に伝達するのは難しいらしく、教えてもなかなかモノにできないと嘆いている。7月9日の対巨人戦では、平松の投じたシュートが河埜和正の左手に当たってバックネットに転がりデッドボールかと思われたが、球審の平光清は「ストライクのコースに入った球を河埜が打ちに行き、グリップエンドに当たった」としてファールボールを宣告。この判定に激高した巨人の川上哲治監督が平光に執拗に突っかかった為、平光は川上に退場を宣告。これが川上の監督生活最初で最後の退場となった。長年にわたって代名詞となったシュートボールであったが、後に平松は「できればシュートではなく、(アマチュア時代のように)ストレートとカーブで勝っていきたかった」と語っている。平松の巨人戦通算51勝は金田正一(65勝)に次ぐ歴代2位。ただし、金田は国鉄時代の通算353勝の1/5に満たない65勝なのに対し、平松は通算201勝の1/4以上を巨人から挙げている。また、金田は65勝72敗と負け越しているが平松は51勝47敗と勝ち越している。巨人戦30勝以上している投手で勝ち越しているのは平松と星野仙一、川口和久だけであるが、星野、川口が巨人より勝ち星の多い対戦相手(いずれも阪神)があったのに対し、平松は巨人戦の勝利数が飛び抜けて多い(巨人の次に勝利数が多かったのは後述する中日で42勝)。特に長嶋茂雄が最も苦手にしていた投手として知られている。長嶋と平松の通算対戦成績は181打数35安打8本塁打、打率.193、三振33、内野ゴロ65(内併殺打7)で、25打数無安打の時期もあった。長嶋は平松の200勝達成記念パーティで「あの頃は寝てもさめても平松のシュートが頭から離れなかった」とコメントしている。しかし長嶋と並ぶ巨人打線の中核であった左打者の王貞治に対しては苦手意識を持っており、最も多くのホームラン(25本)を打たれている。同時代に活躍したヤクルトの松岡や中日の星野も、同様に長嶋は抑えても王には(3割以上)打たれた。これは彼らの最盛期が長嶋の最晩年(72~74年、打率.266、.269、.244)に重なっているためである。他のチームでは中日戦の対戦成績も42勝32敗と強く、中日キラーとも言える。現役時は短気で気が強い性格として知られた。松岡弘とは学校やチームが一緒になることは無かったが、同じ岡山県出身で同学年で投手同士、すなわち岡山時代からプロ球界に至るまでの長年のライバルであり、友人でもある。公式サイト
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