ちばレインボーバス株式会社は、1998年6月1日に京成電鉄より分社化して営業を開始した京成グループのバス会社である。京成電鉄バス部門の分社化としては、ちばフラワーバスに続く2社目であり、京成電鉄船橋営業所(後の京成バス船橋営業所、現・京成バス新都心営業所習志野出張所)の分車庫であった船尾車庫および、松戸営業所の分車庫であった白井車庫を継承している。営業エリアは主に印西市、白井市(千葉ニュータウン)およびその周辺地域である。神崎線、白井線、鎌ヶ谷線の三長距離路線がある。会社設立後、京成から引き継いだ路線の効率化を徹底的に進め、1998年から3年の間に7度にわたるダイヤ改正を行っている。ちばレインボーバスの営業開始年は1998年と比較的新しいが、同社の運行する神崎線、白井線(および木下線)、鎌ヶ谷線それぞれの歴史は、戦前(昭和初期)より始まる。神崎線(現、津田沼駅〜木下駅)の起源は、薬円台に事務所を置いていた個人事業者白井保四郎による1927年10月5日に船橋駅〜大和田(現在の市役所付近?)および新木戸〜睦村の平戸間の開通である。なお、白井によるバス事業の創業は同年3月11日の谷津〜津田沼駅〜大久保〜実籾線からである。その後、1933年に佐山(今の神崎橋付近か)、1935年頃に船尾を通り木下まで全通した。その後、白井はおそらく1935年7月15日(後述)に個人事業者から習志野自動車株式会社への法人化を行った。それからまもない1937年1月に京成電鉄が同社の路線を買収し、習志野営業所(現・船橋営業所)を津田沼駅近傍に設置した。ちなみに、習志野自動車株式会社はバス路線を手放した後、保険代理業に業種転換し、現在でも京成保険コンサルティングとして存続している。同社の設立年月日は1935年7月15日になっており、前述した個人事業者の法人化がこの日のようである。京成としての神崎線の開通の経緯は以上の通りである。なお、習志野営業所およびその後の船橋営業所については、京成バス船橋営業所の記事を参照されたい。鎌ヶ谷線(五香駅、鎌ヶ谷市役所、白井駅、白井車庫間の路線)の起源は、松戸に事務所を置いていた個人事業者大江六郎による1928年3月1日の松戸駅〜五香〜六実〜佐津間間の開通である。その2年後の1930年10月1日に藤ヶ谷まで延長している。なお、当時の地図によれば、佐津間、藤ヶ谷付近の道路の敷設状況は今と異なっており、停留所も別の場所にあったようである。その後、法人化を経て1935年11月に京成電鉄が買収を行い、松戸営業所を設置した。当時は新京成電鉄の設立前で、六実、佐津間、藤ヶ谷方面はおろか、八柱、五香方面でさえ、バスが唯一の大量輸送手段(注:車両は今より小型であるが。)であった。また、翌月には渡辺乗合自動車を買収し、松戸〜市川・流山・金町の3線も引き継いだ。現在の白井線(西船橋駅〜白井駅・白井車庫)および木下線(白井駅〜木下駅など)の起源は、森田祐吉経営の共立乗合自動車による中山〜木下線である。共立乗合自動車は、この他、中山〜大野間、木下〜岩戸間も路線を有していた。その後、1943年7月14日に京成電鉄が共立乗合自動車を買収し、市川営業所を開設した。同営業所は同時に、京成の既存の路線(市川船橋線、国分線等)と併せて担当する。当時の市川営業所は、現在の本八幡駅南側に位置する市川交通自動車の八幡車庫である。その後戦争が激しくなり、物質およびエネルギーの調達の都合から1944年前後に不要不急の路線は廃止または休止。ちばレインボーバスの本社は千葉県印西市船尾にあるが、営業所を兼ねており「本社営業所」と呼んでいる。なお、車庫の名前は船尾車庫であり、これは京成電鉄の頃の名称を引き継いでいる。この他、千葉県白井市神々廻(ししば)に白井車庫があり、白井線、鎌ヶ谷線、西白井線、法典線の4線はこの車庫の担当となっている。白井線は、西船橋駅から古作、木下街道を経由して白井車庫へ向かう路線である。西船橋駅 - 白井駅間の折り返し便もあり、あわせて1時間に1 - 3本程度の頻度で運行されている。戦前に個人事業者が開業した中山駅 - 木下駅間の路線(木下線)が戦後に前・白井車庫で分割され、これより南側が西船橋駅 - 白井車庫間の運行に改められ、白井線と呼ばれるようになった。近年では中山競馬場周辺の道路や木下街道の渋滞が目立ち遅延が目立っている。また競馬開催時には臨時便を運行したり、船尾車庫から大型車の応援を出している。船橋市法典(藤原)地区周辺は、周辺にある木下街道(千葉県道59号市川印西線)などの幹線道路の渋滞により、交通の便が損なわれていた。そのため、地元自治会では地元自治体や関係交通機関に改善等の申し入れを行ってきた。この取り組みについてはNHKの番組「難問解決!ご近所の底力」にも紹介された(NHKで放映の内容)。この路線は同番組を契機に渋滞対策として地元自治会とちばレインボーバスによる協議によって開設された路線である。ちばレインボーバス側からは採算ラインと想定される人数以上乗らない場合撤退がありうるとの条件が提示されている。この路線を走行するバスには「フラワー号」という愛称がつけられている。なお、法典線・白井線ともに同名の「馬込沢駅」バス停があるが、前者は駅西口の前、後者は駅東口そばの木下街道沿いと所在場所が異なることに注意。2011年9月1日のダイヤ改正より、平日昼間のみ法典公園グラスポへの乗り入れを開始する。このダイヤ改正より、平日の昼間は馬込沢駅 - 桐畑間と馬込沢駅 - 法典公園グラスポ間のバスが1本ずつ交互で運行されている。船尾車庫の神崎線と白井車庫の白井線はそれぞれ習志野新京成バス(現船橋新京成バス習志野営業所)の津田沼線の津田沼駅 - 八千代緑が丘駅間(新京成側には「八幡神社」経由便は存在しない)と船橋新京成バス鎌ヶ谷営業所の鎌ヶ谷線の馬込沢 - 鎌ヶ谷大仏駅(新京成側では「鎌ヶ谷大仏」。また隣のバス停である「配給所前」はちばレインボーバスの路線は停車しない。)と重複しているが、いずれも定期券の共通利用等の制度は存在していない (京成バスグループ14社発行のダイヤモンドパス、期間限定のこどもんどころパスのみ共通利用可)。重複区間は新京成バスの運賃と同じになっている。 同じ場所でも一部バス停名が固有名詞は同じでも後に続く方角等が異なっている。木下線は、北総鉄道の白井駅から木下街道を経由して成田線の木下駅に至る便と、途中の神々廻坂下で分岐して谷田に至る便からなる路線であった。戦前に個人事業者が開業した路線であり、かつては中山駅〜若宮〜木下駅間を運行していた。谷田発着便は、1959年に白井村南部の木下街道から離れた集落への足として谷田線の名で開業したもので、同年には白井村北部の名内橋(現・白井工業団地停留所の真北約1km)に至る名内線も開業した。これらの2路線も木下線と同じように中山駅から木下街道を経由して運行され、支線のような位置づけとなっていたが、3線とも長距離路線であったので、1970年頃に前・白井車庫発着に短縮され、これより南側は白井線(西船橋駅〜前・白井車庫)を運行することにより路線が分割された。その後、白井側の発着点の変更、名内線の廃止、福祉センター経由便の新設・廃止などを経て、木下線は2009年3月31日の運行を最後に廃止された。廃止に向けて千葉県バス対策地域協議会に提示された案に対し、運行の継続を求める意見が寄せられたが、赤字額が年々増加していることやコミュニティバスによる代替が可能なことから、原案どおり廃止となった。ちばレインボーバスでは、日野自動車、三菱ふそうトラック・バス(旧・三菱自動車)の車両を使用している。メーカーが統一されていないのは、京成電鉄から選択車種の異なる2営業所(船橋:日野、松戸:三菱)下の車庫を引き継いだためである。分社化後も同じ2メーカーより引き続き導入しているが、新造配置車種の変更や転属により、両車庫におけるメーカーの比率が変化している。他の京成グループのバス事業者に比べて車両の使用年数が長い傾向にあり、2013年現在でも1990年代導入の車両が現役で活躍しており、中には15年以上にわたり使用している車両もある。ノンステップバスの導入は比較的最近であり、現在もワンステップバスの比率が高い。管内に千葉ニュータウンを抱える船尾車庫では、大型車を主力としており、少数であるが3扉車やワイドドア(4枚折り戸)車も使用されている。白井車庫では、分社化後、中型車や小型車の比率が高まっている。車番表記は数字のみの3桁で表記する。京成バスなどとは異なり、数字の前にアルファベット等の記号はつかない。なお初期には京成時代のまま車番を変更していなかった。開業当初は、京成電鉄の車両を塗装変更せず、社名表記のみを「ちばレインボーバス」に変えて使用していたが、次第に青空と虹をモチーフとしたオリジナルのカラーリングに塗り替えられていった。近年でも京成バス新都心営業所、京成バス習志野出張所からの移籍車にこのような車両が再登場している。なお、行先表示幕も一部路線を除き社名が併記された全面青色のものに変更され、京成との差別化が図られている。現在では車両代替により、行先表示のLED式を採用した車両の割合も高まっている。
出典:wikipedia
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