西新井本町(にしあらいほんちょう)は、東京都足立区の町名。住居表示実施済み地区で、西新井本町一丁目から五丁目が置かれている。郵便番号は123-0845。足立区の中部、東京都道318号環状七号線(環七通り)の南側に位置する。北で西新井、東で西新井栄町および関原、南で興野、西で扇および江北と隣接する。江戸時代の西新井本町は武蔵国足立郡渕江領に属しており、幕府直轄領である天領と西新井大師こと総持寺の領地から成り立っていた。この地域の開発がいつ頃から始まったかは定かでないが、「西新井」の地名が登場する文献は1613年(慶長18年)の総持寺の「新義真言宗御前論議色衆座配図」に「西あら井」とあるのが最古の資料である。また江戸時代は「西新井村」という村名であった。江戸幕府が倒され明治新政府の時代が始まると、1868年(慶応4年)1月10日、西新井は他の天領と同じように政府直轄地とされ、同年5月19日に江戸鎮台府(民政裁判所)の管轄に移管された。同年24日には武蔵知県事の管轄に移管されるも、1869年(明治2年)には新たに小菅県が設置され、西新井村も同県に移管され、後の大区小区制が施行されると第四区となった。1871年(明治4年)7月の廃藩置県実施で小菅県が廃止されると、東京府に編入され、西新井村は第五大区十九小区に編入される。このようにして行政単位としての西新井村はめまぐるしく変遷していくが、住民たちの暮らしぶりは江戸時代以来あまり変化はなかったという。1878年(明治11年)に郡区町村編制法が実施されると西新井の地名も復活し、「東京府南足立郡西新井村」となった。1889年(明治22年)に市制・町村制が施行されると西新井村、興野村、本木村の3か村が合併し、新村名をめぐる対立を経て改めて「西新井村」となった。このとき問題となったのが合併される3か村の中で最大の人口・面積を有する「本木村」と、由緒ある「西新井大師」を有する「西新井村」のどちらの名称を採用するか、ということであったが、最終的に歴史的知名度の高い「西新井」を村名に、村役場や小学校などの中心機能を旧本木村に置くことで解決した。1923年(大正12年)の関東地震(関東大震災)の影響で大量の避難民が発生すると、そのうちの多数が西新井村へ避難してきた。多くはそのまま西新井村に住みつき、また荒川放水路の開削で本木地域の田畑の大半が失われると、それも合わせて西新井村の人口増加に拍車を掛けた。このような人口増加によって、西新井村は町制を施行することを決定し、1928年(昭和3年)11月、町制施行、西新井村は「西新井町」となった。増加する人口とそれをもとにした企業進出で財政が圧迫され始めた西新井町は、同じような状況に見舞われていた周辺町村らと合同で東京市に対して市郡合併を要請した。これを受けた東京市は、1932年(昭和7年)に東京府5郡80か町村を東京市に編入した。南足立郡西新井町は足立区に編入され、江戸時代以来の旧3か村の名称を継承して足立区西新井町・興野町・本木町となった。「西新井町」の名称は継続しているが、地方自治体としての「西新井町」から、足立区内の一地名となったのである。住居表示を実施するにあたり、この地区の住民は歴史的由緒があり広く知られている「西新井」の名称を町名に付けたいと考えた。しかし、1967年の住居表示実施により、環七通り北側地域にすでに「西新井」という町名が成立しており、やむなく「西新井本町」の名称を提案した。これに対し環七通り以北の「西新井」地区の住民が「西新井」と「西新井本町」とではいかにも「西新井本町」のほうが本家であるイメージがあり、西新井大師のある(環七以北の)西新井地区こそが「西新井本町」を名乗るべきだとした。しかしすでに実施された町名を変更することはできないとする区側の判断でこの主張は退けられ、環七以南の地区を「西新井本町」とする案が採用され、実施されるにいたった。
出典:wikipedia
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