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ガーター勲章

ガーター勲章(ガーターくんしょう、)は、1348年にエドワード3世によって創始された、イングランドの最高勲章。正式なタイトルは"“Most Noble Order of the Garter”"(最も高貴なガーター勲章)。グレートブリテン及び北アイルランド連合王国の栄典においても騎士団勲章(order)の最高位であるが、全ての勲章・記章の中ではヴィクトリア十字章とジョージ・クロスが上位に位置付けられている。騎士団勲章は本来、その騎士団の一員になるという意味を持っており、一般に勲章と呼ばれる記章はその団員章である。ガーター騎士団員の称号は男性が"“Knight of the Garter”"、女性が"“Lady of the Garter”"で、騎士のポスト・ノミナル・レターズはそれぞれ"“KG”"および"“LG”"と表記される。モットーは"“Honi soit qui mal y pense”"(悪意を抱く者に災いあれ)で、勲章にもその文字が刻印されている。勲章の大綬の色がブルーであるため、「ブルーリボン」とも呼ばれている。一般にガーター勲章と呼ばれるものは、以下の物で構成されている。また特別な物として、エリザベス2世を含め歴代の国王や王妃が晩餐会等で佩用する大綬章の正章としてカメオにダイヤモンドを散りばめた物や、女王やチャールズ皇太子などが同じく晩餐会等で佩用するルビー星章も存在する。ガーターにはブルーの生地に金の刺繍が施され、その中央部にエドワード3世が述べたとされる“Honi soit qui mal y pense”(悪意を抱く者に災いあれ)の文字が記されている。着用する場合は男性の団員は左ひざに、女性の団員は左腕につける。黄金の頸飾にはランカスター家の赤バラとヨーク家の白バラを合わせたテューダー・ローズがテューダー朝成立後から使用されている。また、頸飾の先端の記章は白馬に乗って竜を退治する聖ジョージの姿がかたどられている。正章でアレッサー・ジョージは左肩から右の腰に斜めがけする大綬の結び目の下につり下げられ、ガーターを模した楕円の記章の中に、頸飾の記章と同じく聖ジョージの姿が透かし彫りされている。大綬章が17世紀に制定されたことでガーター勲章は現在の形態を確立した。また正装用にビロードのマント(ガーター・ローブ)と羽飾り帽子、真紅のフードがあり、これらを着用したうえでガーター、頸飾、星章を佩用するのが騎士団の正装である。大綬章は正装時には付けないのが慣習である。正装はガーター・セレモニーや戴冠式など限られた場面でのみ用いられている。燕尾服のような通常の正装時は、大綬章と星章とガーターを付けるのが一般的だが、状況や個人によって異なる。星章は他の勲章と同様に左肋に付けるが、大綬章は一般の勲章が右肩から左腰に掛けるのに対し、ガーター勲章は左肩から右腰に掛ける。チャールズ2世が大綬章を制定した直後にはガーター勲章も右肩から左腰に掛けていたが、当時9歳だったチャールズ2世の庶子、初代リッチモンド公チャールズ・レノックスが誤って左肩から右腰に掛けて公式の場に現われたのをきっかけにチャールズ2世がこれを正式な佩用方法に定めたという。その後、この習慣は他国にも広がり、スコットランドの最高勲章であるシッスル勲章やプロイセンの、日本の功一級金鵄勲章等その国の特別な勲章が他の勲章との差別化のために左肩から右腰に掛けられるようになった。勲章一式は受章者が死亡すると王室へ返還するしきたりであるが、王室の許可を得れば星章や大綬章などは複製を自費で作成して所有することができ、遺族がそれを相続することも出来る。従って、ガーター勲章の実物が市場に出回ることは有り得ない筈であるが、外国の君主等に対して授与された勲章の中には、革命やクーデターのような政変による混乱により流出し、回収できなかったものが存在するとも言われている。昭和51年、その真正品とされるものが日本の百貨店によって売り出されて問題になった。英国王室からの抗議で販売は中止され、当該勲章の真贋を含め、その様な事態になった経緯について調査が行なわれた。1948年以来、6月にウィンザー城で行われるのがガーターセレモニー("Garter Ceremony")である。その年に新たに叙任される勲爵士があれば、ガーターの玉座の間において叙任式が開かれる。新たに勲爵士となる者は、既に勲爵士となっている2名から紹介を受けるのが慣例となっている。例えば、1954年にアンソニー・イーデン外相(当時。翌年に首相)が叙された際にはウィンストン・チャーチル首相(当時。1953年叙勲)と初代モントゴメリー子爵バーナード・モントゴメリー(1946年叙勲)が、1992年に元首相のエドワード・ヒースが叙された際には第6代キャリントン男爵ピーター・キャリントン(1985年叙勲。元外相)とキャラハン男爵ジェームズ・キャラハン(1987年叙勲。元首相)がそれぞれ紹介役をつとめた。叙任式では新勲爵士が君主の前に歩み出て、君主から小姓に渡されたガーターを小姓が勲爵士の左膝(女性の場合は左腕)に着け、次いで君主自ら大綬章を掛け、星章を左胸に着ける。そして紹介者がガーターローブをかぶせ、最後に頸飾を掛け君主と握手をして正式にガーター勲爵士となる。叙任式が終わると、正装姿の騎士団員たちが、新しく叙された者を先頭にまで行進する。隊列は古株ほど後方となり、最後列になると王族、そして君主自身が殿となる。この行進は公開であり、観光客も見物することができる。城内のセント・ジョージ・チャペルにはガーター勲爵士のバナーが掲げられ、騎士の世界を象徴するように剣とクレスト(羽根飾り)を着けたヘルメット、プレートと呼ばれる勲爵士の紋章と名前が刻まれたものが飾られている。これらは勲爵士が死去すると翌年の聖ジョージの日(4月23日)に追悼式が行われてプレート以外は取り外される。死亡以外でも反逆した臣下や敵国となった国の君主は勲爵士の地位を剥奪され、バナーが撤去される。反逆した臣下の剥奪例は古くから存在し、エリザベス朝期には第8代ノーサンバーランド伯爵や第4代ノーフォーク公爵トマス・ハワードなどの騎士団員がその座を剥奪されている。20世紀に入り、敵国君主のバナー撤去が行われるようになった(後述)。ガーター勲章の母体であるガーター騎士団の設立時期については1344年1月にエドワード3世がウィンザーで円卓を使用した饗宴を催した際に「アーサー王と円卓の騎士」の故事に基づいてフランスとの百年戦争への団結を深めたという出来事を発端とする1344年説と、1348年8月にエドワード3世が、自身と長男のエドワード黒太子および24名の騎士によって騎士団を編成し、ウインザー城に召集した出来事を設立と見なす1348年説があるが、近年では1348年説が歴史学者の間で有力視されているという。この騎士団設立の経緯については次の逸話が知られている。エドワード3世が舞踏会でソールズベリー伯爵夫人ジョアン(後のエドワード黒太子妃)とダンスを踊っていたとき、伯爵夫人の靴下止め(ガーター)が外れて落ちたが、これは当時恥ずかしい不作法とされていたので、周囲から嘲笑された。しかしエドワード3世はそれを拾い上げ「悪意を抱く者に災いあれ(Honi soit qui mal y pense)」と言って自分の左足に付けたというものである。しかしこの逸話は伝説に過ぎないともいわれ、エドワード3世がフランス王を名乗ることを「悪」と主張する者に対してエドワード3世が「災いあれ」といったのが始まりとする逸話もある。また、聖ジョージ(聖ゲオルギウス)が竜から姫を助けたという伝説にちなみ、リチャード獅子心王が十字軍の時に戦場でガーターを付け、部下にもつけさせた故事からきたとする説もある。エドワード3世は聖ジョージを好み、イングランドの守護聖人とした人物なので、これらからガーター勲章を考案したとも考えられている。金羊毛騎士団の創設は1429年であり、ガーター騎士団の創設はそれに81年先立っている。ヨーロッパの現存騎士団の中で最古の歴史を誇っている創立時よりガーター騎士は王と皇太子を含めて26名であり、最初のメンバーは国王エドワード3世以下の13名とエドワード黒太子以下の13名の2組に分けられていた。その後、16世紀前期にヘンリー8世によってガーター騎士団の儀礼の定式化が進められ、騎士団員は国王と皇太子と24名の勲爵士に限定された。当初国王と皇太子以外の王族は24名の勲爵士と別枠ではなかったが、18世紀後半、ジョージ3世に王子がたくさんあったことから臣民への授与の圧迫を避けるために別枠となった。後述する外国君主への授与も別枠である。第一次大戦ではドイツ皇帝ヴィルヘルム2世以下ドイツ諸侯やオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世を対象にバナーの撤去が行われた。英国王室とドイツ帝室とは、ヴィクトリア王女を通じて親族関係にあったものの、戦争の長期化に伴う世論の反発を受けて、1915年5月、ジョージ5世はバナー撤去を決断した。しかし、将来的な和解への期待から、「プレートは歴史の記録である」と述べてヴィルヘルム2世らのプレートの撤去を禁じている。同様に、第二次世界大戦でも日本の昭和天皇とイタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世のバナーが撤去され、プレートのみが残された。これらのうち、ドイツ、オーストリア、イタリアの各国は、戦後、帝政または王制が廃止されたため、二度と復帰することは無かった。昭和天皇のみ、後にバナーが復活している。ガーター勲章を剥奪された昭和天皇がガーター勲章を佩用できるのかどうかは、1961年(昭和36年)11月のアレクサンドラ王女訪日の際に最初に問題となったが、この時には昭和天皇はイギリス王室の許可を得たうえでガーター勲章を佩用している。これが昭和天皇のガーター勲爵士の地位の復活のきっかけとなった。その後も1962年(昭和37年)の秩父宮妃訪英、1969年(昭和44年)のマーガレット王女訪日などで日本皇室と英国王室の友好が深まる中、ついに昭和天皇の訪英に先立つ1971年(昭和46年)4月7日に至ってイギリス王室は「剥奪された天皇の名誉を全て回復させる」という宣言を発した。これにより昭和天皇は正式にガーター騎士団員の地位を取り戻し、1971年5月22日からセント・ジョージ・チャペルに再び菊花紋章のバナーが掲揚されることになった。一度剥奪されて名誉回復を果たした外国君主は騎士団600年余の歴史の中でも昭和天皇のみである。当初、女性も女性団員(Lady Companion)として勲爵士になることできたが、ヘンリー8世による定式化により女性君主以外の女性にはガーター勲章は与えられないこととなった。再び君主以外の女性にガーター勲章が授与されるようになるのは20世紀初頭のエドワード7世の時代になってのことである。ただし、女性団員は24名の勲爵士とは別枠で、バナーは掲げられるが、ヘルメットと剣の代わりに王冠が飾られる。また、プレートも飾られない。第二次世界大戦中の1944年9月、ジョージ6世は英国亡命から帰国するオランダ女王ウィルヘルミナを正式なガーター騎士団員に叙し、史上初めて外国人女性君主にガーター勲章が授与された。この際、女性団員の例にならい、バナーと王冠のみが飾られることとなった。以後、近代以降の女性君主も同様になっている。2014年6月現在の外国人保持者は、ルクセンブルクのジャン前大公、デンマークのマルグレーテ2世女王、スウェーデンのカール16世グスタフ国王、スペインのフアン・カルロス1世前国王、オランダのベアトリクス前女王、日本の今上天皇、及びノルウェーのハーラル5世国王の7名であり、今上天皇以外はヨーロッパの君主制国家の君主である。ガーター勲章の外国人への叙勲は、原則としてキリスト教徒であるヨーロッパの君主制国家の君主に限られており、ヨーロッパ以外の国の君主や非キリスト教徒の君主に対しては、その国がイギリスと特別な関係にあり、政策上特別な事情がある場合に限り例外的に贈られている。また、共和制国家の元首に対して贈られた例はない。かつては国王や女王と血縁関係にある外国貴族、或は皇太子や摂政にも授与されていたが、1952年にエリザベス2世が女王に即位して以降は君主という条件に関して例外はなく、ヨーロッパの君主制国家の君主でも在位期間が短いと授与されない。そして、これら資格を満たさないとされる外国君主および重要な共和制国家の元首にはが贈られ、外国皇太子にはロイヤル・ヴィクトリア勲章のナイト・グランド・クロス又はデーム・グランド・クロスが贈られる。更に、ロイヤル・ヴィクトリア頚飾の外国君主より格下とされる国の君主や共和制国家の元首には、バス勲章や聖マイケル・聖ジョージ勲章のナイト・グランドクロスがその格に応じて贈られる。非キリスト教徒への叙勲は1856年に訪英したオスマン帝国皇帝アブデュルメジト1世が最初であり、アジアでは1873年に訪英したペルシャ皇帝ナーセロッディーン・シャーが最初である。日本に対しては、日英同盟の関係から1906年(明治39年)に明治天皇が東アジアの国の元首として初めて贈られ、以後の歴代天皇も授与されている。大正天皇は1912年、昭和天皇が1929年にそれぞれ叙勲されたが、第二次世界大戦中は敵国となったため昭和天皇の名前が騎士団の名簿から抹消され、バナーも撤去された。しかし、1971年10月のイギリス訪問時に復帰し、今上天皇も1998年のイギリス訪問時に叙勲された。1902年にペルシャ皇帝モザッファロッディーン・シャーに対して贈られて以降、日本の天皇以外で非キリスト教徒の外国君主が叙された例はなく、1974年8月27日にキリスト教徒のエチオピア前皇帝ハイレ・セラシエ1世(同年3月に廃位されて幽閉中だった)が崩御した後には、ヨーロッパ人以外でガーター騎士団に叙されているのも日本の天皇のみである。臣民の勲爵士は24人までに限定されている。王族や外国君主への授与はこれとは別枠になっている。政治家による乱用防止のため、1946年以降ガーター勲章とシッスル勲章は、君主自らによって授与されるのが慣例となっている。

出典:wikipedia

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