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徳川家達

德川 家達(徳川 家達、とくがわ いえさと、1863年8月24日 - 1940年6月5日)は、徳川宗家の16代当主。もとは田安徳川家の7代当主で、静岡藩の初代藩主。幼名は亀之助といった。号は静岳。位階、勲等、爵位は従一位大勲位公爵。世間からは「十六代様」と呼ばれた。第4代から第8代までの貴族院議長、ワシントン軍縮会議全権大使、1940年東京オリンピックの組織委員会の委員長、第6代日本赤十字社社長、華族会館館長、学習院評議会議長、日米協会会長などを歴任した。大正期には組閣の大命も受けた(拝辞)。江戸城田安屋敷において、田安家の徳川慶頼の三男として誕生した。慶頼は14代将軍・徳川家茂の将軍後見職であり、幕府の要職にあった。母は高井武子。家達は家茂および13代将軍・徳川家定の従弟にあたる。元治2年(1865年)2月5日、実兄・寿千代の夭逝により田安徳川家を相続する。慶応2年(1866年)に将軍・家茂が後嗣なく死去した際、家茂の近臣および大奥の天璋院や御年寄・瀧山らは家茂の遺言通り、徳川宗家に血統の近い亀之助の宗家相続を望んだものの、わずか4歳の幼児では国事多難の折りの舵取りが問題という理由で、また静寛院宮、雄藩大名らが反対した結果、一橋家の徳川慶喜が15代将軍に就任した。大政奉還・王政復古・江戸開城を経て、慶応4年(1868年)閏4月29日、新政府から慶喜に代わって徳川宗家相続を許可され、一族の松平斉民らが後見した。5月24日、駿府藩主として70万石を与えられる。11月、東京城(皇居)において明治天皇に拝謁。11月18日、従四位下左近衛権少将に叙任、同日さらに従三位左近衛権中将に昇叙転任する。1869年(明治2年)6月、静岡藩知事に就任し、徳川家ゆかりの地である駿河府中へ移住することとなる。この時、府中は不忠に通じる、ということで、駿府を静岡と改名した。8月9日に江戸から出発した当時は6歳の家達に随行した御小姓頭取の伊丹鉄弥は以下のように記録している。また年寄女中の初井は、駕籠の中から五人囃子の人形のようなお河童頭がチョイチョイ出て「あれは何、これは何」と道中の眺めを珍しげに尋ねられ、これに対して、左からも右からもいろいろ腰をかがめてお答え申しあげたと伝えている。明治4年(1871年)7月、廃藩置県によって免職となり、東京へ移住、千駄ヶ谷に住むことになった。明治10年(1877年)、イギリスのイートン・カレッジに留学。同校では、寄宿舎での学生による模擬議会に大きな感銘を受けたと回顧している。オックスフォード大学かケンブリッジ大学への進学を目指していたが、婚儀を心待ちにしていた天璋院の意向もあって、明治15年(1882年)10月に帰国した。翌11月6日に近衛泰子と結婚、明治17年(1884年)に嫡男家正が誕生する。明治17年(1884年)の華族令公布によって公爵を授けられ、明治23年(1890年)の帝国議会開設と同時に貴族院議員になった(火曜会所属)。明治36年(1903年)12月4日から昭和8年(1933年)6月9日まで、延べ31年の長きにわたって貴族院議長を務めた。同じく貴族院副議長を長く務めた黒田長成とともに、「万年議長・万年副議長」と呼ばれた。大正3年(1914年)3月24日、シーメンス事件によって第1次山本内閣が総辞職。27日には後継首班の正式候補に挙げられたが、「未だ徳川が政権に表立って関わるのは遠慮すべき」として2日後に辞退。このことに関して当時の朝日新聞は「高貴でおおらかな家達氏は、政治の濁流にもまれるべきではない」と賛意を表明した。家達は政界でも注目される存在であり、要人の千駄ヶ谷訪問も多かった。1922年、海軍大臣の加藤友三郎や駐米大使の幣原喜重郎などとともにワシントン軍縮会議全権を務め、イギリス・アメリカ・日本の海軍主力艦保有比率を10:10:6にする条約を締結した。この決定は欧米列強の軍事的緊張を是正して国際関係を安定化させることが目的だったが、国内では海軍軍令部や右翼から「軟弱外交」との批判を受けた。大正2年(1913年)に恩賜財団済生会会長、大正4年(1915年)に明治神宮奉賛会会長に就任。大正10年(1921年)には大日本蹴球協会(現在の日本サッカー協会)の名誉会長として、その発足に立ち会っている。昭和4年(1929年)11月、第6代日本赤十字社社長に就任した。昭和8年(1933年)6月9日、貴族院議長を辞したが、その後も貴族院議員は務め続けた。同年8月、翌年東京で開催される予定の第15回赤十字・赤新月国際大会への協力を求めるため、欧米へ発った。昭和9年(1934年)4月5日、横浜港に帰るまで、10か月にも及ぶ長い旅だった。なお、この国際大会はアジア初の国際会議となった。さらに昭和11年(1936年)12月には、1940年の東京オリンピック招致成功を受けて、東京市や大日本体育会などを中心として設立された「第十二回オリンピック東京大会組織委員会」の委員長に就任した。昭和15年(1940年)6月5日、78歳で死去した。死後、大勲位菊花大綬章を受章した。保科順子「花葵 徳川邸おもいで話」(毎日新聞社、1998年)

出典:wikipedia

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