日本統治時代の朝鮮(にほんとうちじだいのちょうせん)は、1910年8月29日の大日本帝国による韓国併合から、1945年9月9日の朝鮮総督府の降伏まで、35年間続いた。日本では主に日韓併合、または韓国併合や日本統治時代などと呼んでいる。一方、現在の韓国においては、日帝時代、日帝暗黒期、日帝植民統治時代、日本植民地時代、日本統治時代、日政時代、倭政時代、対日本戦争期、対日抗争期、国権被奪期など様々な呼称があるが、国立国語院が管理する大韓民国標準語では「強制的に占領されていた時代」という意味で「日帝強占期」とされている。1910年、大日本帝国は「韓国併合ニ関スル条約」(日韓併合条約)によって大韓帝国を併合し(韓国併合)朝鮮総督府の統治下に置いた。日本による統治期間は1919年の三・一独立運動までの武断統治期、それ以降日中戦争に至るまでの文化統治期、および日中戦争、太平洋戦争(大東亜戦争)から終戦に至るまでの戦時体制期に大きく分けられる。併合当初は憲兵警察制度(併合年で7,712名。その内、朝鮮人は4,440名)や言論・結社の自由の厳しい制限などに代表される武断統治により、朝鮮王朝末期から続いていた抗日運動を抑えようとした。1919年には三・一独立運動が起こったが、日本の憲兵警察により鎮圧された。1920年の尼港事件では朝鮮人パルチザン400~1,000人程が加わった赤軍は日本軍守備隊を襲撃し全滅させている。三・一独立運動以後、日中戦争に至るまでの期間は三・一運動や大正デモクラシーの影響などにより朝鮮総督府は従来の統治政策を修正し、言論や結社の自由が与えられたため、比較的自由な雰囲気の中で、朝鮮人による様々な民族運動が繰り広げられた。朝鮮は日本統治以前は厳しい身分制度に支えられた専制政治が行われており、李氏朝鮮時代は独立協会などの団体が民主主義運動を行っていた。1933年に日本政府によって民主的選挙が導入されると、道議会議員の8割以上が朝鮮人となり、忠清南道知事は初代以下ほとんどが朝鮮人によって占められており、その他の道知事も同様であった。朝鮮文学の発展が見られ、大都市を中心に大衆文化の発展も見られた。満州国と接する北部国境地帯ではソビエト連邦の支援を受けた朝鮮独立を掲げる共産ゲリラと朝鮮総督府との散発的な戦闘も発生している。日本は統治下に置いた朝鮮半島の開発に力を入れ、開発工事や運営の主な労働力を朝鮮人に求めることで雇用を創出した。これにより朝鮮人の海外への流失を抑制し日本本土への流入も抑え本土の失業率上昇や治安悪化をも防止しようとした。1929年、カーネギー財団から朝鮮半島に派遣されたアメリカ人記者らは、「日本は併合以来19年間にして、数百年間停頓状態にあった朝鮮と、近代文明国との間に渡り橋を架けてやった。・・・また朝鮮人の苦しみもあるかも知れぬが、日本は莫大な利益をもたらしていることは明らかである」などと、李氏朝鮮時代よりも日本統治によって朝鮮人民は救われているとの評価をしている。1931年7月2日に中国吉林省長春市郊外で、朝鮮移住民と中国農民の衝突事件(万宝山事件)が起こり、その報復として、朝鮮人による華僑虐殺事件(朝鮮排華事件)が朝鮮および日本本土で起き日中間の外交問題となった。1931年9月、満州事変が勃発すると、満州に居た多数の朝鮮人小作人は親日へと転化した。朝鮮半島でも「内鮮一体」が主張され、皇民化推進団体が結成された。三・一独立運動の首謀者の一人である崔麟も大東亜戦争開戦のときには親日家となっており、大東亜戦争を「聖戦」と讃え、日本の支援を積極的に行った。また、は朝鮮語を禁じるべきだと主張し、は朝鮮人にも日本人と同様に兵役の義務を与えるべきだと主張し、朝鮮神宮では「国威宣揚武運長久祈願祭」が挙行されるようになった。は「私共は大日本帝国の臣民であります」「私共は互いに心を合わせて、天皇陛下に忠誠を尽くします」「私共は忍苦鍛錬して、立派な強い国民となります」と書かれた皇国臣民ノ誓詞を書いた。1936年に朝鮮に行った神戸正雄は「事変前には日本反抗の気分もあったが、第一に満州事変、次に支那事変によりて日本と合体することの朝鮮人にとりて有利ということが明らかになって、今では全く日本内地と協調しつつある」と述べている。韓国併合後、朝鮮語は公教育で必須科目として教授されていた。第二次世界大戦中は、戦時下における国策として皇民化教育や創氏改名などが推進された。戦争激化に伴い物資・情報統制が強まった為、多くの刊行物が廃刊され、1940年には朝鮮語媒体の『朝鮮日報』『東亜日報』も廃刊させられたが、『毎日新報』と官報は存続した。日本政府は李氏朝鮮時代から朝鮮人にも日本軍の幹部を養成する陸軍幼年学校や陸軍士官学校への入学を許可したので、李王垠や洪思翊など日本軍の将官に栄達した者も多かった。1937年に日中戦争が勃発すると、朝鮮人から志願兵の申し出が行われるようになり、朝鮮人の朴春琴衆議院議員から「朝鮮人志願兵制度」の請願が出され、1938年からは朝鮮人にも兵卒の志願を許可する陸軍特別志願兵令が公布され、軍人・軍属として戦地に赴いた者も存在した。当時は陸軍を中心に、日本内地人の徴兵適齢者は枯渇しつつあり、朝鮮人を始めとする外地人も兵力の給源とせざるを得ないとする意見が広まっており、朝鮮における徴兵制をその帰結とする意見もある。しかし朝鮮人に徴兵制が施行されたのは1944年4月から、台湾人に対しても同年9月からであり、他の植民地保有国と比較して、植民地人の軍事利用には消極的であった。1944年9月からは朝鮮人にも徴兵が適用されたが、入営は1945年1月から7月の間に限られた上に、朝鮮半島か日本内地における訓練中に終戦を迎え戦場に派遣されなかった。労働力としての徴用については、適用が控えられていた朝鮮においても1944年9月から1945年8月にかけて国民徴用令が実施された。日本本土への朝鮮人徴用労務者の派遣は1945年3月の下関-釜山間の連絡線の運航が止まるまでの7か月間であった。1959年の外務省の調べによると、戦後、日本に残留した在日朝鮮人のうち、徴用で日本に来た者は245人であった。内地(日本)に渡航して来た朝鮮人の大半は職を求めての個別渡航や、工鉱業、土木事業等の募集に応じてきた者であった。その一方で、2009年1月30日に韓国国務総理室の日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会は、およそ12万人の朝鮮人が徴用されたと発表し、それを強制動員の被害者としている。日本兵を相手に慰安婦として働く朝鮮婦人も存在した。韓国では、慰安婦について政府とマスコミは「日本軍の行った人権侵害である」という見解を取り、「従軍慰安婦問題」として日本に補償を求める動きがある。これに対し一部の韓国の学識者と日本の右派・保守派は、慰安婦について「自主的に応募してきた売春婦である」という見解をとり、慰安婦を勤労奉仕の女子挺身隊と混同しているとする見解もある。また、日本における「日本軍〈慰安婦〉問題は国内外の反日勢力の陰謀」といった主張については、日本版の歴史修正主義とする指摘がある。1945年8月15日、第二次世界大戦の終結により日本の朝鮮半島統治は終焉を迎えた(8月15日は現在、韓国では「光復節」として祝日となっている)。日本のポツダム宣言受諾により、朝鮮半島の統治権は連合国側に移った。1945年9月2日、アメリカ戦艦ミズーリの甲板上で日本政府が公式にイギリスやアメリカ、中華民国やソ連をはじめとする連合国との間で降伏文書に調印した。1945年9月9日、降伏文書調印に伴い朝鮮総督府は解体され、京城の朝鮮総督府庁舎には日章旗に代わり星条旗が掲揚された。まもなく、アメリカ軍は降伏条件には定められていなかったが日本政府および日本人の資産を没収した。終戦後、朝鮮半島や日本に在住する朝鮮人は日本人と同じ敗戦国民にもかかわらず「自分達は戦勝国民だ」と主張し、日本人引揚者たちは検問でソ連兵や朝鮮人への女性や金品の供出を強要され、日本上陸後に15歳以上の女性は妊娠・性病検査や堕胎手術を受けた。終戦直後、朝鮮総督阿部信行と朝鮮軍司令官上月良夫により朝鮮へは自治権が与えられ、朝鮮人によって朝鮮人民共和国が建国されたが、アメリカはこれを認めず、進駐の翌日9月9日に軍政を布告。ソ連と共に朝鮮半島を北緯38度線を境に南をアメリカが、北をソ連が占領(分割占領)した。その後、連合軍軍政期を経て北緯38度線より南側が大韓民国(韓国)、北側が朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)としてそれぞれ独立を宣言する。アメリカが韓国を、ソ連が北朝鮮を支援し、1950年に朝鮮戦争が勃発した。韓国政府は、1951年にサンフランシスコで行われた連合国と日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)の締結の際に、自国を「第二次世界大戦における戦勝国(=連合国の1国)」として参加させるように求めた。同年にアメリカのジョン・フォスター・ダレス国務長官補は、韓国は日本と交戦状態にあったわけではなく、また連合国共同宣言に署名しておらず、講和条約の署名国とはなれないことを通知した。産業資源の多くが北部に集中していたため、北朝鮮は朝鮮戦争からしばらくの期間、工業生産力・軍事力などの点で韓国を圧倒していたが、韓国は「漢江の奇跡」と呼ばれる経済発展を達成した。その理由として、輸出を重視した工業政策、ベトナム戦争への派兵にともなう特需、戦後賠償を含むアメリカや日本の経済・技術援助などが挙げられている。李王家は王公族として日本の皇族に準じた華族より上位の身分とされ、貴族院に議席を持つとともに帝国陸軍軍人として奉職した。李王家の李王垠には皇族梨本宮家から方子女王が嫁入りしている。東京赤坂には李王家の邸宅が設けられた。李鍝は日本陸軍中佐として太平洋戦争で戦死(軍務中に広島にて被爆死)している。一方、朝鮮人の過激派からは、純宗が李完用へ全権委任状を出すなどした経緯から、日韓併合の主犯とも見做され、暗殺の対象とされた。李王世子暗殺未遂事件などが起きている。日本の敗戦後には連合国によって華族が廃止されたために爵位を失った。連合国の承認を得て建国された大韓民国は、軍事独裁政権の障害になることを懸念して長年にわたり李王家の帰還を許さなかったため、李王垠や方子は在日朝鮮人となり、韓国への帰還を許されたのは晩年のことであった。朝鮮総督府により教育()や戸籍制度などの整備がおこなわれた。1937年には、李氏朝鮮時代から続く白白教を白白教事件で取り締まった。一方で公立学校を中心とした同化政策や、独立運動に対する警戒・取締は植民地化の経緯とあいまって朝鮮民族の日本(本国)への反感を強める人々もいた。また、統治者としての在朝日本人の間では朝鮮人への侮蔑意識が本国の日本人以上に広まったとされ、そのことも反感を招いたともされる。朝鮮総督府側も、朝鮮人に対する侮蔑意識が統治への反感を無意味に掻き立て、円滑な統治を妨害しかねないと懸念を表明することがあった。統監府は1909年に戸籍制度を朝鮮に導入し、李氏朝鮮時代を通じて人間とは見なされず、姓を持つことを許されていなかった白丁などの賤民にも姓を名乗らせて戸籍には身分を記載することなく登録させた。これにより、身分開放された白丁の子弟も学校に通えるようになった。身分解放に反発する両班は激しい抗議デモを繰り広げたが、身分にかかわらず教育機会を与えるべきと考える日本政府によって即座に鎮圧された。朝鮮では1895年の甲午改革により近代教育制度が始まったが、1906年の時点でも小学校が全国で40校未満であり、両班の子弟は書堂と呼ばれる私塾で漢籍の教育を受けていた。初代統監に就任した伊藤博文はこの状況について、大韓帝国の官僚に対し「あなた方は一体何をしてきたのか」と叱責し、学校建設を改革の最優先事項とした。伊藤が推進した学校建設事業は併合後も朝鮮総督府によって継続され、朝鮮における各種学校は1940年代には1000校を超えていた。朝鮮総督府は朝鮮人による自主的な教育については警戒、統制を行いつつ、教育内容の整備を進め、日本語、朝鮮語をはじめ算数、日本史、朝鮮史(朝鮮史は「朝鮮事歴」という名前で教育されていた)、修身などの教育を公立学校を中心に展開した。併合当初、朝鮮における初等中等教育制度は日本内地人に対する学校と朝鮮人に対する学校が別個に存在していた。基本的に内地人対象の小学校、中学校と、朝鮮人対象の普通学校、高等普通学校であった。しかし例外もあった。1938年の朝鮮教育令改正により普通学校、高等普通学校は廃止され 、共学制が採用された。日本統治下で初等教育が順次拡充され、初等教育への就学率は日本統治時代の最末期で男子が6割、女子が4割程度であった。初等学校(普通学校・小学校・国民学校)の教員は、朝鮮の師範学校で養成される教員と日本内地から派遣される教員が混在していた。高等教育については、官公私立の旧制専門学校が多数設立されたほか、1924年に京城帝国大学が、朝鮮唯一の旧制大学として、また日本で6番目の帝国大学として日本内地の大阪帝国大学や名古屋帝国大学よりも早く設立された。朝鮮人による民立大学設立運動については、民族精神の再生産を行い、植民地統治への妨害になりかねないとして抑圧する姿勢を採ったため、京城帝国大学は日本統治下の朝鮮で唯一の旧制大学となった。日本統治時代後期において、京城帝国大学における内地人学生の比率は6割程度、朝鮮人学生の比率は4割程度であった。李氏朝鮮は清国の従属下にあり漢字が重視される一方、ハングルは軽視され、公文書でも採用されることもなかったが、李朝末期(1886年)になって開化派と井上角五郎の協力により朝鮮で初のハングル使用の新聞・公文書(官報)である『漢城周報』(1886年創刊)が発行された。また、一般人(特に女子)のための教育機関は皆無で、大多数の朝鮮人は読み書きができない状況だった。日本統治下になると学校教育における科目の一つとしてハングルと漢字の混用による朝鮮語が導入されたため、朝鮮語の識字率は一定の上昇をみた。1911年に朝鮮総督府は、第一次教育令を公布し、朝鮮語は必修科目としてハングルが教えられることとなった。朝鮮語の時間以外の教授言語としては日本語が使用された。総督府は1912年に、近代において初めて作成された朝鮮語の正書法である普通学校用諺文綴字法を作成し、1930年には児童の学習能率の向上、朝鮮語の綴字法の整理・統一のための新正書法である諺文綴字法を作成し、それを用いた。日中戦争以降、総督府は日本軍の兵士として朝鮮人を動員することなども視野に入れ、朝鮮人の"皇民化"を進めた。、1938年の第三次教育令でも朝鮮語教育は廃止されていない。「第八十六回帝国議会説明資料」(1944年12月、朝鮮総督府)によれば、1938年には「国語を解する朝鮮人」の割合が前年度の8%弱から13%強にまで伸びて(1943年末で22%)いる。1945年の「解放」当時、南朝鮮の12歳以上の総人口の78%はハングル文盲とのであったとの米軍の簡易調査もある。普通初等学校への就学率は1910年で1.0%、1923年で2ケタ台にのり11.2%、1935年で21.7%、1943年で49.0%であった。1942年10月には朝鮮語学会の主要メンバーが治安維持法違反で逮捕されるという事件が起こった(朝鮮語学会事件)、これは上海の大韓民国臨時政府と連絡をとりあっていたメンバーが朝鮮語学会を仮装組織としていた事で逮捕されたものであり(16名に対して予審を申請(予審申請のうち2名は死亡)、14名を起訴猶予、3名を不起訴)、朝鮮語の研究や普及の活動について検挙されたものではない。統治末期には、学校の会話で朝鮮語の使用が罰せられたとの証言もあるが、朝鮮語が日常会話や新聞などから完全に排除されたわけではなく、朝鮮総督府においても、1921年から1945年の日本統治終了に至るまで、朝鮮語能力検定に合格した職員を昇進・給与において有利に処遇していた。1943年時点で、日本語を解する朝鮮人は1,000人当たり221,5人(「朝鮮事情」1940-1944年版)で、8割の朝鮮人は日本語を話すことが出来なかった。1934年に朝鮮総督府は李氏朝鮮の主な文化財の保護のための総督府令を出している。国宝に指定されたものには南大門などが含まれていた。日本人学者とその朝鮮人の弟子達によって歴史・語学・文学などの韓国学研究の基礎が作られた「日本の植民支配は不幸中の幸い」 韓国教授の論文が論議に 朝鮮日報 2005/03/04。日中戦争の長期化による物資欠乏への対策や情報統制の必要から日本内地では1938年4月に国家総動員法が制定され、8月からの新聞用紙制限令による用紙制限や新聞の整理統合を通じ、739紙あった新聞を最終的に54紙にまで削減するなど、新聞紙法や出版法を厳しく適用しながら新聞・出版・言論統制を強めた。朝鮮においても、1940年には「朝鮮日報」「東亜日報」が総督府命令により廃刊となり、朝鮮語新聞は総督府が発行する毎日新報と官報だけとなったが、硫黄島の戦いにおける日本軍の玉砕は朝鮮語でも報じられた。創氏は、朝鮮の宗族による管理システム(本貫と姓)に新たに家族名である「氏」を加え、日本及び欧米で一般的な家族単位の管理システム下に組み入れるものである。この過程で中国式の夫婦別姓を名乗っていた妻も夫と同じ一つの家族名の下で管理されることになった。改名とは姓名を届け出する際に名を日本風に変更することを可能にする制度である。それまでは日本内地に見られる姓名は許可しないこととして厳しく制限されていた。1940年に取られたこれらの措置を創氏改名と呼ぶ。前者は制度上必須であり、全ての朝鮮人に適用された。後者は任意であり、当初南次郎総督自身もそのように言明していた。水野直樹によれば、1940年2月11日の届出開始以降全戸数の中で姓名を届け出た人々の割合が4%程度と著しく低かったことから、朝鮮総督府は方針を転換し、下部機関を中心に朝鮮人に日本的な名字を名乗るよう推奨するキャンペーンを開始し、結果として80%以上の朝鮮人は日本的な氏の届出をしたとしている。一方、残りの2割(日本内地では約85%)は法定創氏により朝鮮式姓がそのまま氏として設定された。朴春琴や洪思翊など、朝鮮式の氏を設定創氏して使い続けた事例もあった。また、朝鮮に居住している朝鮮人では改名者の割合は9.6%だった。創氏改名の第一目標であった朝鮮人の名字を日本式に改めることに関しては、朝鮮に日本風の家制度を導入することが主眼とされていた。植民地支配時、朝鮮固有の地名を日本式に強制的に変更したとして中央日報が2009年10月の記事で指摘した事例。例として慶北青松郡盈徳郡(キョンブク・チョンソングン・ヨンドククン)の周王山(チュワンサン)の竜湫(ヨンチュ)滝、中竜湫、竜淵(ヨンヨン)滝(あるいは上竜湫)を3つの滝について、第一の滝を仙女湯に変更した。これは名前に竜が入っており、植民地民の気が強くなる懸念が高いという口実で改名したとする。慶尚北道慶山郡竜城面(キョンサンプクト・キョンサングン・ヨンソンミョン)にある争光里(ジェングァンリ)を「日光里」(イルグァンリ)に変更したが、「景色が良くて美しい日本の“日光”とまったく同じだ」として名前を変更したとする。大田(テジョン)の鶏足山(ケジョクサン)の地名はもと鳳凰山(ポンファンサン)だったが、鳳凰を鶏(ニワトリ)に「格下げ」し鶏足山にしたとする。李朝では崇儒抑仏政策により仏教が抑圧され、民衆は風水、巫覡、祭祀などの民間宗教や、儒教・仏教・道教の流れを汲む新興宗教に傾斜していた。その代表的な教義に「後天開闢」があり、天が直接光臨する時代が到来し、理想郷の地上天国が実現されるとする思想である。東学は後天思想に基づく新しい宗教の代表格であった。江華島事件から19世紀末頃の情勢はこのようなものであり、キリスト教はすでに朝鮮半島に渡来していたが李朝はあへんと同じようなものと警戒しており本格的な宣教が始まるのは1884年に長老派の医師Allenの朝鮮入国以降とされる。朝鮮におけるキリスト信者の成長率は世界のキリスト教宣教史上類まれなものであり、1895年に公称1590人の信徒が1910年には22万6791名に達した。神道は日本人居留民によりわずかに保持されているのみであり、明治初期に朝鮮宣教に乗り出したのは真宗大谷派などの仏教会である。朝鮮神社が設置されたのは併合から遅れること15年後の1925年であり、それ以前には朝鮮半島に社格をもつ神社はなかった。朝鮮総督府が神社・神祠制度を確立するために法令を整備したのは1938年8月であり、神社参拝を公然と求めはじめたのは1937年以降である。総督府による「宗教への介入」は直接的には合理的な利害を目的とした、朝鮮統治の警察権にもとづいた介入と懐柔融和策であった。宗教団体は抗日活動における特異な位置を占めた。キリスト教や仏教は朝鮮軍内の同調者により保護され、しばしば治外法権的地位を占め抗日活動家を保護した。キリスト教教会はアメリカなど海外の所有施設であるとみなされ東学党の乱や日清戦争のさいに民衆の保護所となった。日本軍の中にも篤実なキリスト教信者がおり教会員や財産の保護を約束した。仏教寺院は李朝の政策により抑圧されていた影響から人里離れた山奥に点在していたが、真宗大谷派など布教の成果もあって朝鮮の仏教寺院の多くは日本の仏教教団の末寺となっており保護を受けていた。これらの末寺は1907年の大韓帝国国軍の解体以降の義兵運動の根拠地として格好の隠れ家となった。朝鮮総督府は抗日活動を取り締まるためキリスト教や仏教などを統制する必要があり、一方で帝国憲法に規定された信教の自由の制約から介入と懐柔を繰り返さざるを得ない状況にあった。1911年に起きた105人事件を口実とした宗教弾圧においてはアメリカ人宣教師により世界に報道され国際世論が日本の司法制度を厳しく批判した。キリスト教教会は朝鮮人知識層を大量に受け入れ、民衆を動員した三・一独立運動のような大規模な抗日・独立運動を展開した。当時の朝鮮総督斎藤実は、当初は三・一独立運動を鎮めるべく騒擾中に宣教師たちと会合を持ち、彼らを懐柔しようとしていたが、1920年に入って方針を転換し、キリスト教会が三・一独立運動の主要な組織者であったとして、キリスト教会への苛烈な弾圧を加えるようになった。この弾圧によって、47の教会が破壊された。朝鮮京畿道水原(Keiki-do Suigen)の提岩里(Teiganri)教会では、閉じ込められた村人が教会ごと焼き殺された(提岩里教会事件)。当時、朝鮮のキリスト教従は人口比で1.3%であったが、三・一独立運動で検挙された者のうちキリスト教従は17.3%であった。総督府による苛烈な弾圧の模様は、中国に逃れた宣教師たちによって世界に報じられた。神道の朝鮮半島への普及は進まず、1925年にようやく朝鮮神宮が設置された。この時、朝鮮神宮にいかなる祭神を祭るかで論争(朝鮮神宮御祭神論争)が発生し、小笠原省三は「朝鮮神宮と内鮮融和」を取り上げて檀君の合祀を主唱した。しかし総督府としては非公認宗教団体の中には檀君信仰をもつ教団もあり、民族運動勢力と結び付いたものと理解していた檀君信仰を認めることは不可能であり、鎮座祭直前の9月28日に京城本町警察署長から「一部学生」が「不逞計画」を立てているとの風説ありとの報告を上げ、総督府は神社界の主張を抑えて祭神論争に終止符を打った。1937年盧溝橋事件を期に日中戦争は全面化し、朝鮮における皇民化教育の一環として皇国臣民ノ誓詞が発布され、日韓合邦の実を挙げ帝国臣民化を図る目的として国家神道が利用され、神道非宗教説をもとにキリスト教会や仏教会は神社参拝が強要された。1938年前後から朝鮮各地に官幣神社が増設されてゆき「皇国臣民化」「内鮮一体」の重要な役割を担うようになる。キリスト教は一神教であり、キリスト教従にとっては他の神のために祈ることは、今まで築いた神との信頼関係を失うことであり受け入れがたいことであった。1910年当時の朝鮮全体の山林面積は1585万ヘクタールで、全面積の71%に達していたが、木材資源を示す林木蓄積量は1ヘクタールあたり17立方メートルであり、2009年の韓国の16.5%水準に過ぎず、特に南部の海抜の低い低地帯では若い木と禿げ山が大部だった。朝鮮半島の造林事業は当初は河川保持などの砂防目的が主眼であり、地形調査の結果、朝鮮半島は花崗岩台地の山岳地帯で、緑が育ちにくいことが判明したことが始まりとされている。森林が無ければ、降雨で土砂が流れ込み、農林業に影響を及ぼす。1924年の京城日報によれば、造林事業は1911年には約4千町、1152万本だったが1922年までの累計は個人の造林事業などを含めると約36万町、10億本に至ったと報告されている。造林方法は植林・接木や普通播種などもおこなわれたが、国有林制の導入などによる自然復元によるところが多い。朝鮮半島北部では軍部が木材伐採事業を直接経営しており、ここでは当時の山林経営の常識として自然収奪(伐出)的側面のつよいものであった。一方で保安林の確保や林道整備など評価される点も多いが戦争末期には朝鮮半島の造林事業は放置される傾向が強くなった。「朝鮮は日本の脇腹に突きつけられた匕首だ」と云われ日本本土防衛の為の重要な要であり、また日本の中でも最も遅れている地域の一つであると政府は捉え、富国強兵政策に従い多額の国家予算を朝鮮半島に投じた。鉄道、道路、上水道、下水道、電気インフラ、病院、学校、工場など、最新鋭のインフラの整備を行い、近代教育制度や近代医療制度の整備を進め、朝鮮半島を近代化していった。鉄道路線の路線は幹線ばかりでなく生活用の支線も多くが敷設され地方経済を活性化させた。三菱製鉄(兼二浦製鉄所)や日本製鐵(清津製鉄所)による製鉄所の建設、日本窒素肥料(現:チッソ)の進出による水力発電所建設などが行われ、朝鮮総督府からの補助金による1,527件の農業用ダムと410件の水路の建設、5億9千万本以上の植林や砂防ダム建設などの水利事業も行われた。これは、それまでの欧米諸国による収奪的植民地政策には見られないものであった。1920から30年代の朝鮮半島の経済成長率は年間約4%で、同じ期間の欧州(1%台)や日本・アメリカ(3%)に比べて、より高い成長をしており、朝鮮半島1人当りの生産成長率も約2.4%と高い成長率を記録していた結果が出ている。他方、これらの開発工事において、主な労働力は当然ながら朝鮮人の中に求められた。統治の前期においては賦役(無償労働)による工事なども行われており、過酷な負担であるとして3・1独立運動の原因の一つともなった。賦役の廃止後も、労働者の人権という概念の未発達と植民地人であるという要因などが重なり、朝鮮人労働者は多くの場合劣悪な環境に置かれた。李朝末期時点では大部分で道路の舗装などが行われていなかった京城は、区画整理が行われ路面電車(ソウル市電)が走る都市となった。衛生面では、生活面における衛生指導や集団予防接種が行われ、当時朝鮮半島で流行していたコレラ、天然痘、ペストなどの伝染病による乳児死亡率が減少し、平均寿命は24歳から56歳まで伸びた。また農地の開発や農業技術の指導により食糧生産量も激増したことで、人口は併合時(1910年)の調査では13,128,780人、1944年の調査では25,120,174人となり、平均寿命も併合時(1910年)24歳だったものが、1942年には45歳まで伸びた。総督府は土地所有者の調査を実施し、所有者のいない土地は接収して東洋拓殖に買い取らせ、日本人移住者や朝鮮人有力者に分配した。総督府が接収した農地は全耕作地の3.26%ほどである。李朝末期の朝鮮は道路、農地、山、河川、港湾などが荒廃しており、民衆は官吏・地主・両班に高利貸(トンノリ)による収奪を受けていた。そのため日本が朝鮮の農地にて、水防工事や水利工事をし、金融組合もつくったことで、農民は安い金利で融資を受けることができるようになり、朝鮮人農民に多大な利益をもたらすようになった。また、水利組合の設立により安心して農耕ができるようになった。大地主である朝鮮人は、生産性が上がり日本へ米を輸出できるようになったことで多額の利益を得ていた。その代表的な人物がサムスングループの創始者である李秉喆である。彼は慶尚南道の大地主の次男として生まれ、米の輸出で得た多額の資金を元手に1938年に大邱にて三星商事を設立し、これがのちのサムスングループに発展していった。このように農地が新たに開墾され、水利事業によって生産能率が向上したことにより、食糧生産は年々増加し、併合前の1909年には745万7916石であった収穫高は、1918年には1529万4109石と2倍以上になったが、米の多くが日本(内地)に輸出されたため朝鮮人1人当たりの米の消費量は1919年〜1921年の平均0.68石(米1石は約150kg)に対して、1932年から1936年にかけては0.40石まで減少した。この状況を指して、「飢餓輸出」と呼ぶ研究者もいるが。逆に全相仁らの研究によると日本時代の米の消費量は平均0.58石の水準を保ち、後半期にはむしろ消費量が若干増加している。また朝鮮経済全体で見た場合、米以外の雑穀が大量に輸入されており、高価な米を売った代金で安い雑穀をより多く購入することで増加する人口を養っていたと考えられる。ソウル大学の李栄薫教授は韓国の「日帝による土地収奪論」は神話であるとし「私たちが植民地時代について知っている韓国人の集団的記憶は多くの場合、作られたもので、教育されたものだ」としており「食糧を日本に搬出したのも市場を通じた商行為に基づくもの」と述べている。加えて、朝鮮人の身長が伸びていることから、少なくとも1920年代中頃までは「朝鮮人の生活水準が着実に向上していたのは明らか」である。一方で増え続ける人口を農村では吸収できず、京城などの大都市で労働者として生活の糧を求める人が出たが、都市でも産業が未発達で人口を十分に吸収することができず、火田民(山間部で焼畑農業を行なう)となるもの、職を求めて日本や満州に渡航した者が数多く出た。京城等における農村出身の労働者層の中には都市周辺部に粗末な小屋を建てたスラム街を形成し、「土幕民」と呼ばれるものも存在した。植民地近代化という性質上、この時期の朝鮮における経済発展の成果は多くが資本を出した在朝日本人や日本企業に分配され、朝鮮人(とりわけ農村部)への分配度は低く、日本人と現地人たる朝鮮人の間の所得格差も非常に大きなものがあったとされる。一方では、市場を通じた商行為であるという指摘もある。利益を得ていた朝鮮人も存在し、統治時代後期には多くの朝鮮人資本家が存在した。朝鮮では株式会社にほとんど馴染みがなく、朝鮮総督府は詐欺行為が多発するのを警戒して1910年に会社令を公布し株式会社を届出制でなく許可制とした。1910年従業員5人以上の工場は朝鮮人経営39に対して日本人経営は112であったが1939年には朝鮮人経営4,185に対して日本人経営2,768と工場数が増加する一方で比率は逆転していた。ただし、1939年においても規模が大きくなるほど日本人による経営が多かった。2004年、ソウル大学は、1911年から1937年にかけての朝鮮における産業構造の変化が、第1次産業で75%から45%、第2次産業で7%から22%、第3次産業で18%から33%にそれぞれ上昇し、資本経済化が急速に進んだこと、1912年から1937年にかけての年平均実質GDPが4.10%、実質GDEが4.24%の成長(同時代の日本本土やアメリカは3%台、欧州は1%台)をなしており、世界恐慌下においても飛躍的な成長を遂げていたとの調査結果を発表した。韓国や北朝鮮では、現在も朝鮮の資本主義の萌芽を李氏朝鮮時代に求め、「芽生えた朝鮮の資本主義は成長する前に日韓併合による植民地化によって1945年まで大きく抑制されていた」という説が通説となっている。これに対し、ハーバード大学教授で朝鮮史が専門のカーター・J・エッカートは、研究の結果、李氏朝鮮時代の経済規模は同時代の日本や中国と比べて小さく、当時の商人と後の時代の資本家とのつながりがほとんど無いため、資本主義の萌芽が李氏朝鮮時代には存在せず、日韓併合による日本の政策によって生まれ、特に戦後の韓国の資本主義や工業化は、上記のような日本の朝鮮半島での近代化政策を模したものであると発表している。日韓併合以前から、日本の国立銀行である第一銀行韓国総支店が、朝鮮での通貨として1902年から第一銀行券を流通させていた。大韓帝国時代の1909年には第一銀行にかわって中央銀行の韓国銀行が設立され、のち1911年に朝鮮銀行となった。世界恐慌後の各国は、自国の経済を保護するためにブロック経済を進めており、朝鮮は日本円を中心とする日満支経済ブロックに含まれた。朝鮮には日本円を導入する案もあったが、経済的な混乱が日本に波及するとの理由で採用はされなかった。朝鮮銀行では、日本円と等価の朝鮮圓(円)が発行されていた。この通貨は内地(日本本土)では使用できなかったが、日本銀行の円、そして金、銀との等価交換が保証されていた。戦費を調達するために、朝鮮銀行は中華民国臨時政府の中国連合準備銀行と預け合い契約を交わした。この契約は相互に預金口座に記帳することで、戦費に用いる通貨の発行を目的としていた。預け合い契約によって日本本土へのインフレーションは避けられたが、同時に中国で通貨を濫発することになり、インフレーションによる経済混乱と日本統治下の通貨制度に対する信用低下を招いた。なお、北朝鮮側の銀行支店は現在朝鮮中央銀行となっている。1905年までは李氏朝鮮による調査。李氏朝鮮による調査は徴税を目的としているため申告式であり、身分と収穫率にしたがって軍役と無関係な一部の女子、賎・奴などの疎外層は申告から除外されたり漏らされたりしているので、。1905年第二次日韓協約によって大韓帝国は日本の保護国になる。これ以降は日本(韓国統監府および朝鮮総督府)による調査。1910年に韓国併合。朝鮮半島での鉄道は、李氏朝鮮から日本が「日韓暫定合同条款」に基き鉄道敷設権を1894年8月20日に得て、鷺梁津(漢江西岸)〜済物浦間の鉄道を1899年に開通させたことに始まる。これは後に京仁線となった。1905年には京釜線が全通、翌1906年には日露戦争の軍事輸送を目的として京義線を日本が全通させた。京釜線・京義線は日露戦争後に日本が得た南満州鉄道(満鉄)への接続を図り、大陸進出の足がかりとしての役目を担うようになっていき、1910年の韓国併合で日本が朝鮮の統治権を得ると、京元線や中央線・湖南線などを敷設した。路線数が少なかった1925年(大正14年)までは、朝鮮での鉄道経営を一体化する目的で南満州鉄道に委託したこともあったが、その後は朝鮮総督府の直轄の朝鮮総督府鉄道となって、地域経済の発展や住民の足を確保するために多くの路線が建設されていった。朝鮮総督府鉄道は朝鮮への観光客の誘致にも力を入れ、朝鮮ホテルなどの西洋風ホテルの建築も行った。また、朝鮮王朝末期には大部分で道路の舗装などが行われていなかった京城は区画整理が行われ、路面電車が敷設された。乗合自動車やタクシーが走っていた。日本内地と朝鮮の間には、関釜連絡船(釜山・下関間)を始めとする多くの航路が運航されていた。日本のフラッグ・キャリアの日本航空輸送(とそれを引き継いだ大日本航空)が日本内地から釜山、蔚山、京城などの間を結んだほか、満州国の満州航空が乗り入れていた。朝鮮独自の航空会社は存在しなかった。李氏朝鮮時代から貧しかった南朝鮮から多くの朝鮮人が日本に移入した。日本への渡航には渡航証明書が必要だったが、多くの朝鮮人が日本内地へ密航した。多くの密航業者が密航を斡旋し、巨万の富を築いた。2,000人を密航させた密航業者は一万数千円を荒稼ぎして妾を10人抱えるほどであった。密航は1930年代に入ると激増し、毎日のように摘発されるようになった。このため、1934年には岡田内閣は朝鮮人の密航の取り締まりを強化するために「朝鮮人移住対策ノ件」を閣議決定したがその後も密航は増加していった。余りの密航の多さに日本政府は渡航制限を緩和したが、渡航条件を満たさないものたちによる密航は止まらなかった。第二次世界大戦中にも密航が行われており、密航朝鮮人が検挙されている。朝日新聞の取材によって遠賀工業所で雇われていた朝鮮人鉱夫が高待遇で雇用されていたことが明らかにされている。一方で旅費負担や高賃金などを謳った甘言募集に乗せられ、低賃金の中で宿代や食費など様々な名目で天引きされ、実際に自由に使える金額はほとんど無かったとする主張もある。。1944年9月から1945年3月にかけては国民徴用令により徴用された朝鮮人が渡航した。1951年に講和条約が締結され連合軍による占領が終了すると日本に在留していた朝鮮人は朝鮮籍となり、1948年に建国された韓国の国籍を取得する者もいた。朝鮮から渡航した人々の多くが九州、中国、近畿地方に在留していたため、戦後に韓国から密航した朝鮮人もこれらの地方に住む場合が多かった。これらの朝鮮人は在日韓国・朝鮮人となった。在日1世2世の中には朝鮮総督府による土地調査事業や日本軍などによる食料の収奪(徴用・供出)などにより生活に困窮し、日本に来たのだと主張する者もいる。1910年の大韓帝国の併合により大韓帝国の統治権は日本国皇帝に譲与され、大韓帝国により編纂されていた戸籍は日本国政府が担任することとなった。朝鮮は併合の経緯から大韓帝国を日本国皇帝が譲与され統治することとなったため、「併合」(併合条約2条)とはしたものの、一つの帝国のもとに二つの国家が存在するかのような状態であり、なおかつ連邦的なものではなく保護国・被保護国を前提とした従属的国家結合にとどまり、選挙法など統治関連法は内地のものは直接適用されなかった。併合条約締結の直後である1910年8月29日には(明治43年勅令第318号)が発せられ即日施行されている。朝鮮人は「帝国臣民」に編入され、日本人の朝鮮移住も進んでおり1910年12月末時点で朝鮮在留日本人は50,992戸(171,543人)に上っていた。併合後の朝鮮統治は朝鮮総督府が直裁しており、朝鮮在住の「協力的朝鮮人」はむろん、在朝日本人さえ朝鮮半島における政治への参政権をもっていない状況にあった。1913年には日本人社会の居留民団が解体され、事実的な自治権は剥奪された。1920年代以降の協力的朝鮮人を含む植民地朝鮮での参政権問題は政治的課題となり、ひとつの方法として日本国内の縁故地で衆議院議員として選出をめざし「植民地政策決定過程」に介入する手段を目指した。朝鮮半島では1931年に制限選挙による地方議会が開設されたが、議会選挙などの政治参加は戦争体制のため事実上凍結された。朝鮮人も帝国臣民の地位が付与されたため、内地に居住していれば参政権・被参政権とも認められており(→1925年普通選挙法)衆議院選挙に参加することは可能であった。唯一朝鮮人として朴春琴が衆議院議員に選出されている。それまでは内地の選挙区からしか出馬できなかったが、1945年(昭和20年)4月1日に改正された衆議院議員選挙法によって台湾と朝鮮にも帝国議会の議席が与えられ、選挙によって外地からも衆議院に議員を送ることが出来るようになった。ただし有権者は1年以上直接国税15円以上の納税という制限が課されており普通選挙ではなかった。また議席数は、衆議院の定数466に対し台湾5名、朝鮮22名とされた。また1943年(昭和18年)に内地に編入された樺太でも同時に3名の議席が認められた。しかし敗戦のため実施されずに終わった。また貴族院でも台湾と朝鮮から勅撰議員を選出することが決められ台湾、朝鮮から合わせて10名の議員が選出された。そのほか地方議会の議員を務めたり、中央官庁や地方公共団体に勤務する者もいた。その外にも多数のロビイストが「朝鮮通」として朝鮮統治に関するあらゆる法案や議案について提言をおこなっていた。1933年5月11日の朝鮮朝日(朝日新聞の外地版)によれば、朝鮮の13の道(日本で言えば「都道府県」)の当選議員のうち、約80%が朝鮮人となっている。義兵闘争などに見られるように、併合以前から日本の朝鮮支配計画に反抗する朝鮮人の運動は存在していたが、第一次世界大戦終結後にはアメリカ系キリスト教会の宣教師によりアメリカ大統領ウィルソンの提唱する民族自決理念が伝わり、更に高宗の死によって朝鮮人の独立要求は高まった。1919年には三・一独立運動が起こって大規模な暴動にまで発展し、朝鮮中を巻き込んだ。この独立運動は約一年間続き、暴動と総督府側による取締りによって多くの死傷者がでた(運動家に殺害された者も多い)。事件直後に行われた調査結果を記した資料によれば、8,437人が逮捕された。逮捕者への刑罰は主犯でも最高で懲役3年以下という軽いものであった。死者数は553人(運動家に殺されたものも含む)、負傷数は1,409人である。当時上海に亡命中の朴殷植は『韓国独立運動之血史』に46,948人が逮捕され、7,509人が死亡し、15,961人が負傷したと記している。女学生・柳寛順(ユ・ガンスン)は三・一独立運動を扇動した罪で投獄・拷問され16才で殺されたとされ、しばしば日本の蛮行についての象徴的物語として扱われることがある。なお柳寛順の物語には誇張が多く史実の裏づけに乏しいとの批判がある。三・一独立運動時、暴徒と化した民衆によって警察署・村役場・小学校などが襲撃され、放火・投石・破壊・暴行・殺人が多数行われている。こうした暴動を鎮圧し治安を維持する為に武力を使うことはどこの国でも普通に行われることであるとする意見も存在する。こうした中、いくつかの悲劇が発生した。最も有名な堤岩里事件は4月15日に小学校焼き討ちと警察官2名の殺害の容疑で堤岩里の成人男性住民30余名を教会堂に集めたところ、取調べ中に容疑者1名が逃げようとし憲兵に斬殺され、それを見た他の容疑者が暴徒化した為に全員が射殺され、放火などにより15村落317戸が延焼し、39人が死亡した事件である。その違法性については日本側も認識していたらしく「検挙官憲ノ放火ノ為類焼セルモノモ尠カラザルコトヲ確メタリ。…之が処分ニ就テハ殺生ハ止ムヲ得ザルモノニシテ放火ハ公然之ヲ認ムルハ情勢上適当ナラザルヲ以テ火災ヲ表面上全部失火ト認定スルコトトセリ」(憲兵司令官より大臣宛電報4/21付け)と上部に報告している。三・一独立運動は大韓民国臨時政府樹立のきっかけとなり、また満州や沿海州を拠点とし、中朝国境では抗日ゲリラ組織の活性化にもつながり1920年の尼港事件のように日本軍を全滅させることもあった。一方総督府も、過酷な統治だけでは植民地体制を持続させることはできないとして、文治政治と呼ばれる一連の懐柔策を打ち出した。朝鮮における憲兵警察制度は廃止され、限定的ながら言論や結社の自由が与えられた。三・一独立運動後に活発となった満州や沿海州における朝鮮独立を掲げた抗日ゲリラは国境地帯で、良民や官公吏への襲撃・殺害といったゲリラ行為を繰り返すようになり、ついには1920年10月に満州の琿春で、馬賊の襲撃により、領事館警察署長を含む日本人13人が殺害される事件(間島事件)が発生した。これにより総督府は中国側と折衝して吉林省都督から作戦の許可を取り付け、ゲリラ掃討を開始した(青山里戦闘)。彼らが潜んでいるとされた村に対する焼き討ちや村民処刑なども含む態度で臨み、キリスト教の宣教師などからの抗議を受けたこともあるが、徹底的な討伐戦の結果、抗日ゲリラのほとんどはソ連領内へと逃げ込み中朝国境からは一時姿を消した。朝鮮人武装勢力は1921年6月28日にはスヴォボードヌイにいたが、ロシアの赤軍と衝突しほとんどが壊滅した(自由市惨変)。その後、1937年に普天堡が襲撃される事件も起きている。大韓民国臨時政府の主張では第二次世界大戦において、1941年12月9日に連合国側に立ちドイツと日本に対して宣戦布告を行い、軍事部門である朝鮮解放軍は東南アジアの一部や中国等で中国共産党や国民党の軍隊に加わり、日本軍との戦闘に参加したという。しかし具体的にどのようにして宣戦布告を行ったかも不明であり、宣戦布告も戦争相手国には伝わっておらず、大韓民国臨時政府が組織的に日本軍と戦闘した記録は見つかっていない。そのため戦後に韓国が「戦勝国」として国際的には認められることはなかった総督府は朝鮮半島の行政・司法・立法をすべて総覧し、朝鮮半島駐留の日本軍の統率・防備権限を付与されていた(朝鮮総督府官制3条)。総督府は鉄道や通信事業を経営し朝鮮銀行の監督権を有した(1924年まで)。また林野事業(営林廠)や専売事業(タバコ・塩・朝鮮人参)などを経営していた。朝鮮十三道には道長官(1919年から知事)が任命されそれぞれの支所で行政任務に従事した。総督府令により1年以下の懲役もしくは禁錮、拘留、200円以下の罰金または科料の罰を課すことが認められていた(4条)が、それ以上の罪過あるいは総督府令によらない法令については日本内地の制定法による必要があった。政務のすべては内閣総理大臣を経て天皇に直接上奏すれば良い(3条)とされたが、実際の実務は拓務省や内務省など内地行政機関の依命通牒に従うことが多かった。李氏朝鮮時代の朝鮮八道は高宗32年(1895年)に二十三府となり、続く高宗33年(1896年)に制定された十三道制を引き続き行政区画とした。また、これら13道の下には・郡が置かれ、郡の下に邑・面が置かれた。なお、13道は内地の都庁府県に、府・邑・面は内地の市町村にそれぞれ相当する。1905年(明治38年)11月、韓国統監府に警察を設置。1910年(明治43年)7月、大韓帝国より警察権の全面委託を受け、中央に警務総監部、地方に警務部を置いた。このときに憲兵警察制度も採用した。一般警察と憲兵が同一の地域に混在していたわけではなく、フランスのフランス国家憲兵隊(ジャンダルムリ)のように担当の地域が決まっていた。軍警の地域分担は、おおむね以下の通りであった。1910年(明治43年)8月韓国併合。この年、「憲兵警察」と「一般警察」を合わせた人数は、7712名(その内、朝鮮人は4440名)。うち「憲兵警察」は2019名(その内、憲兵補助員としての朝鮮人が1012名)であった。1915年(大正4年)3月、中央の警務総監部直轄だった京城府の警察事務を京畿道警務部に移譲。1919年(大正8年)3月、三・一運動が起こる。同年8月には警務総監部を廃止し、警務局を置く。地方の道に警察権を移譲し、道庁に警察部を置き、また、三・一運動後、朝鮮総督府の「武断統治」に批判が高まったこと、日本の警察制度としては異例の形態であったことから憲兵警察制度を廃止した。警察組織や道知事職は三・一運動後人気が高まり、例えば1922年の巡査職の競争率は約2.1倍水準だったが、文化統治が本格化した1920年代中盤以後は競争率が10倍を上回った。1945年(昭和20年)8月の終戦により、朝鮮総督府は解体され、朝鮮総督府警察は南北朝鮮の国家の警察に引き継がれた。日露戦争を機に大韓帝国に駐留した韓国駐剳軍(ちゅうさつぐん)を前身とし、明治43年(1910年)の韓国併合に伴い朝鮮駐剳軍に名称変更、大正7年(1918年)に朝鮮軍となった。司令部は当初漢城の城内に置かれたが、後に郊外の京城府龍山(現・ソウル特別市龍山区)に移転した。1937年に日中戦争が勃発すると、朝鮮人からも志願兵を募集、1942年に行われた朝鮮出身者に対しての募兵では募集4,077名に対し、254,273名の朝鮮人志願兵が集まり、倍率は62.4倍に達した。ほか軍属として戦地に赴いた者も存在した。1944年4月の法改正によって1944年9月からは朝鮮人にも徴兵が適用されたが、入営は1945年1月から7月の間に限られたため、訓練期間中に終戦を迎え、実戦に投入されることはなかった。昭和20年(1945年)2月、戦況逼迫に伴い第17方面軍が設けられ朝鮮軍は廃止されたため、管轄区域の朝鮮軍管区は第17方面軍司令部が兼ねた朝鮮軍管区司令部が管轄した。1915年には始政五年記念朝鮮物産共進会、1929年には朝鮮博覧会が総督府主催で開催された。朝鮮の白菜、山七面鳥(野雁)、金剛山の岩茸、光洲の林檎、大邱の梨が嘉物として評価されていた。また、白頭山特産のツルチュク(クロマメノキ)飲料水が高評価を得ていた。1920年にはタクチ本が多数出版され、読書が朝鮮半島で大衆化・近代化する決定的な契機になった。日本の影響で新派劇や新劇が興った。舞踊では崔承喜が世界的に活躍した。音楽では日本の演歌と酷似したトロットが流行した。高羲東()や金観鎬()が日本に留学して洋画を学び、朝鮮に洋画をもたらした。朝鮮総督府が朝鮮美術展覧会(鮮展)()を開催した。孫基禎が、ベルリンオリンピックのマラソンに日本代表として出場し、金メダルを獲得した。社団法人朝鮮放送協会が日本語と朝鮮語の両方でラジオ放送をしていた。旧来の命名習慣が廃れていき、京城においては日本内地のように女性に「何子」と名づけるようなことが一般的となった (、、、、、など)。大日本麦酒と地元資本の共同出資により朝鮮麦酒 (現ハイトビール)が設立された。また、麒麟麦酒子会社として昭和麦酒 (現OBビール)が設立された。朝鮮麦酒と昭和麦酒により、朝鮮でビールが普及した。北鮮の国境地帯では、豆満江(図們江)を挟んで、日ソのスパイ戦が行われていた。交通の発達によって、行楽地への関心が広まった。日本統治時代の朝鮮における日本の役割については、日本、韓国などで歴史認識論争となっている。元韓国国土開発研究院長金儀遠は、日本政府が朝鮮人を満洲に追放してソウルを日本の首都することが決められており、そのために朝鮮半島を開発したのであると、自身が発見したとする古文書を根拠に韓国中央日報で発表している。金によると、日本は1943年の国土計画中央計画素案で、京城府、日本の岡山、福岡の3カ所を大東亜圏の首都移転候補地に決めたとしている。日本の国土地理院はこの中央計画素案は地域格差の是正、国土防衛を兼ねて産業と人口の大都市集中をさける配慮がなされていたと評価している。中央計画素案は昭和18年の国土計画策定要綱で勧められたが、日米関係の悪化などの事情で計画はもっぱら緊急不可欠の課題にのみ対応され、昭和17年大東亜国土計画大綱素案、昭和20年戦時国土計画素案が立案されたが閣議決定はなされず、以降終戦まで国土計画は中止された。また当時の日本政府は、朝鮮人が日本内地に密航して治安を悪化させている状況を打開するために、朝鮮半島の開発に力を入れていたことが閣議決定文書で明らかにされている。
出典:wikipedia
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