大岡川(おおおかがわ)は、神奈川県横浜市を流れ横浜港に注ぐ二級河川。上流の日野川と笹下川の合流地点より下流を本来は大岡川と呼ぶ。横浜市磯子区氷取沢町(氷取沢市民の森)に源を発し、上流域の名称を笹下川として北へ流れる。港南区港南中央通付近で同区南部を流れる日野川を合わせ、名称を笹下川から大岡川へと変える。そして南区を北東に流れ、中区の桜木町と本町の境界から横浜港に注ぐ。流路延長:約12kmのうち、河川法に基づく二級河川指定部分は約8.5kmである。江戸時代に今の南区~中区域に及ぶ吉田新田の干拓事業による埋め立てが行われるまでは、下流域の大半が大岡湾或いは蒔田湾と呼ばれる入り江だった。大岡湾(蒔田湾)部分を除いた上流部では本来の大岡川の名称では呼ばれず、旧久良岐郡松本村の小字で関之下と呼ばれた地域の日野川と笹下川の合流地点より下流の名称として大岡川と呼ばれる。室町時代には既に笹下郷が杉田郷から分離成立しており、その旧村域を流れる笹下川(ささげがわ)の河川名は400年超の歴史を有する。近年、行政では歴史を踏まえず大岡川の河川名で笹下川も管理している。吉田新田造成で埋め立てられる以前、今の横浜市南区堀之内の寶生寺辺りまで入り江だった。戦国時代、現在の関の下バス停付近より上流の笹下川は現在の港南区笹下4丁目磯子区洋光台1丁目に主要部分が在った笹下城の水堀の役割を果たし、笹下城外郭出城の松本城の外堀の役目を笹下川~日野川が果たしていた。周辺には桜並木が並び、毎年「大岡川さくら祭り」が開かれる。嘗ては桜並木ではなく、広大な梅林が流域に複数存在した。毎年8月には戦没者を悼む灯籠流しが行われている。横浜名産のスカーフは、かつてこの川で染められていた。近年まで横浜市港南区笹下地域には、嘗て笹下川流域に多数存在した捺染工場の最後の1軒が存在していた。近年では2007年3月に初黄町・日ノ出町の地域住民が中心に「大岡川川の駅運営委員会」が設立され、環境浄化と地域活性化を目的に神奈川県横浜川崎治水事務所と共同で「川の駅 大岡川 桜桟橋」の親水施設を設置しEボートやプレジャーボートにより大岡川の河川利用の活動を行い始めた。2015年5月には約200m下流域長者橋のわきに、動力船専用の浮桟橋「横浜 日ノ出桟橋」が完成し同年8月に「一般社団法人 大岡川川の駅運営委員会」として神奈川県横浜川崎治水事務所及び横浜市との連携を取り、各桟橋利用調整を中心に親水活動・防災活動・環境清掃等の活動協力を行ってます。その活動に賛同し2012年9月に結成された水辺荘が、大岡川の水辺を生かしたイベントの開催や賑わいの創出など様々な活動を行っている。また水辺荘や横浜SUP俱楽部が中心となって、ハワイ発祥のウォータースポーツ「スタンドアップパドル・サーフィン」(SUP)を実施している。嘗ては大岡川本流と中村川の分岐点付近から下流側は、現桜木町駅付近を出口とする釣鐘形の入り江で戦国時代は蒔田湾と呼ばれ、現在の英和女学院の所在地一帯に在った蒔田城を拠点として支配した蒔田吉良家の吉良成高や吉良頼康の時代は港湾の役割を果たした。現在は考古学上、嘗ての入り江は大岡湾と呼ばれる。大岡湾(蒔田湾)部分を除いた上流部では室町時代には既に笹下郷が杉田郷から分離成立しており、その旧村域を流れる笹下川(ささげがわ)の河川名は400年超の歴史を有する。本来の大岡川は旧久良岐郡松本村の小字で関之下と呼ばれた地域の日野川と笹下川の合流地点より下流の名称が大岡川で、それより上流は笹下川と日野川。笹下川にもさらに左右手川等の暗渠化された複数の源流が有る。大岡川~日野川水系の西側丘陵の分水嶺が旧相模国と武蔵国の国境であり同時に旧鎌倉郡と久良岐郡の郡境だった。更にその国境にそって古鎌倉街道のかまくら下道が通っていた。古代の行政や軍事、陸運にも影響を与えた重要な河川だった。室町時代、房総半島から小弓公方足利義明や里見氏の軍勢が旧三浦郡に侵攻し、鎌倉郡域まで乱入した時に勃発した鶴岡八幡宮の戦いによって鶴岡八幡宮が焼失する事件が起きた際、鶴岡八幡宮の再建事業では笹下川~蒔田湾の水運を利用し木材を運び、更に海運で杉田湊(現在の新杉田駅周辺)に輸送した。この時の鶴岡八幡宮再建で奉行を務めたのは、現在の横浜市南区に在った蒔田城城主で蒔田御所の別名で呼ばれた足利将軍家の一門の吉良頼康、横浜市港南区に在った笹下城主で相模十四騎筆頭に数えられ玉縄城主北条綱成の与力も務めた間宮康俊、横浜市港北区小机城城代で大曾根城城主だった笠原信為だった。蒔田湾に接続していた大岡川では、現在も嘗ての名残りで材木問屋が複数軒存在する。現在は桜並木が多い大岡川水系の遊歩道だが嘗ては小田原北条家の奨励した梅の植林が盛んで、流域周辺には岡村梅林や杉田梅林、笹下城址の梅林等、多く広大な梅林が広がっていた。特に江戸時代~明治時代には間宮家の分家で杉田間宮家の当主だった間宮信繁が造営した杉田梅林が有名で江戸からの観光客で賑わった。幻の梅のブランド杉田梅は、この梅林で収穫されていた。現在では杉田梅林を破壊し建設された梅林小学校と公園に、その地名が残る。杉田間宮家の菩提寺である牛頭山妙法寺の山門の脇に杉田梅林の顕彰碑が建てられている。旧笹下城主要部分だった笹下4丁目にも広大な杉田梅林が広がっており、江戸時代初期に京都から見学に来た西本願寺十三世良如と関白九条幸家が遊覧に参られた程だった。その際に滞在されたのが成就院で、現在の山号の梅花山は、滞在された御二人が現在の笹下4丁目の旧笹下城城域に広がっていた梅林の見事さに感嘆されて事で「梅花山」に改めた歴史が有る。明治時代に成ると皇族にもこの大岡川水系の梅林は有名になり、明治天皇の御幸も賜った。その際、旧笹下城の外堀を為した笹下川のほとり当時の久良岐郡の中心だった現在の港南区関に存在した料亭の石川楼に休息の拠点を置き、その梅林にて遊覧された程だった。しかし、その梅林と笹下城址の主要部分は石川島播磨重工によるIHI団地造成時に地形ごと破壊消滅させられた。蒔田湾(大岡湾)は17世紀半ばから埋め立てられ、吉田新田を始めとする新田の開発が行われた。その南端が中村川上流部に当たり、大岡川本流との間にも数本の河川が残された。横浜港開港後には堀川(中村川下流部)と堀割川が運河として造られた。大岡川本流と中村川の間の河川は明治から昭和戦後にかけて埋め立てられ、跡地は公園(大通り公園等)、首都高速道路等として利用されている。戦後には米国の進駐軍が接収した地域であり、アメリカ軍兵士の娯楽施設として川沿いは遊郭、つまり売春の街として栄えた。パンパンガールとも呼ばれた日本人女性のなかには当時は英語が得意な者も多く、口紅などをつけて日本のファッションリーダーのような存在であった。その後売春防止法に伴い摘発に及んだ。当時、上大岡の栄通りと大岡川を挟んだ西側の一帯には料亭や遊郭が存在し、岡村天満宮の社領を接収し米軍基地が建設された関係で風営法が施行されるまで存続していた。1981年には上流部から東京湾に直接放流する笹下川分水路が建設された。分水路付近には北見掃部家の発祥地の石碑も有る。(笹下川と日野川の合流地点)(中村川が東へ)(運河が東南東へ・みなとみらい線が地下を通る)
出典:wikipedia
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