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三遊亭圓楽 (5代目)

5代目三遊亭 圓楽(さんゆうてい えんらく、1932年12月29日 (戸籍上は1933年1月3日) - 2009年10月29日)は、東京府東京市浅草区(現:東京都台東区)出身の落語家。本名、吉河 寛海(よしかわ ひろうみ)。落語円楽党党首、『笑点』司会者(第4代)、円楽一門会総帥、円楽一門会最高顧問などを歴任した。実家は浄土宗の寺院・日照山不退寺易行院(通称:助六寺)。生家である易行院はかつて浅草の清川町にあったが、後に足立区伊興町狭間(現在の住所は東伊興、最寄駅は東武伊勢崎線竹ノ塚駅)に移転している。埼玉県立杉戸農業高等学校卒業。かつて演芸番組『笑点』(日本テレビ)の大喜利メンバー・司会者を長く務めていたことで知られる。現役時に所属した芸能事務所は星企画→若竹カンパニー。なお、若竹カンパニーは自身の長男が代表取締役を務める個人事務所であった。身長は177cmと長身である。若い頃は「星の王子さま」の愛称で親しまれた。端整な顔立ちと博識ぶりにより、1960年代演芸ブームの際には脚光を浴びる。7代目(自称5代目)立川談志、3代目古今亭志ん朝、5代目春風亭柳朝(柳朝休業後は8代目橘家圓蔵)と共に「落語若手四天王」と呼ばれた。出囃子は『元禄花見踊』。桂歌丸や林家こん平とともに前身番組の『金曜夜席』(日本テレビ)時代から出演しているメンバーである。『金曜夜席』ではかなりぎこちない司会ぶりであったため、早々と辞任。『笑点』では回答役に回った。1977年(昭和52年)3月27日、圓生から「おまえはこんな安っぽい芸人で終わるのか」と嗜められたことから、落語に専念するため番組を卒業したが、1982年(昭和57年)12月8日に当時の司会であった三波伸介の急死に伴い、1983年(昭和58年)1月9日から司会者として番組に復帰した。しかし当人は、2回限りの臨時司会のつもりで引き受けたという(そのためか司会就任後しばらくはさまざまな紋付を着ており、徐々に紺の色紋付に定着する)。同年9月9日放送分より、紺の色紋付に定着した。就任してからしばらくは、答えの合間にその博識を生かした都々逸をしばしば披露したり、40分時代の初期には落語に専念していた時代に学んだ知識を生かして「よろずガイダンス」というコーナーで落語にまつわる話を披露するなどしていた。しばしば台本は無視、林家こん平の回答に対して着物を脱がせたこともあり、「司会者が笑い過ぎ」といった理由で、当初は批判も少なくなかった。だがそれは従来と雰囲気を変えるために意図的に行ったことであり、徐々に出題、指名、座布団の差配など最小限の仕事に絞られていく。これは放送時間の短縮に加え、三波が司会をしていたころの司会者の強烈なキャラクターを柱とした番組から、スピーディーにやり取りする中でメンバーのキャラクターにクローズアップし、司会者だけでなくメンバー全員を主役とするという新しいスタイルに移行した結果である。司会就任後しばらくは視聴率面で苦戦を続けたものの、こうした番組作りの変化が功を奏し、次第にかつてのような人気番組の地位を取り戻していった。面長な容姿から「馬」呼ばわりされたり、若竹を潰した・小言が長いなどとネタにされたり、回答者の家族の悪口や(歌丸の妻・冨士子夫人など)下ネタを織り交ぜた回答をすると爆笑しつつも容赦なく座布団を没収していた。回答者(主にこん平及び弟子のたい平)による座布団運びの山田隆夫罵倒ネタの際には、山田の判断に一任したり、彼を擁護する発言をすることも多かった。5代目圓楽の司会時から、回答者だけでなく座布団運びも番組の流れに積極的に絡むようになった。山田はやり過ぎたり、自らを罵倒する回答をしたメンバーを座布団から突き飛ばしたり(時に蹴り飛ばしたり)することがあるが、これも5代目圓楽の助言がきっかけで始められた。大喜利メンバー全員で一つのファミリーを形成しているとの考えを持ち、番組の空気やリズムになじむのに時間がかかるということでメンバーの入れ替えはほとんど行わなかった。23年間司会を務めながら、その間に新加入した大喜利メンバーは三遊亭小遊三と林家たい平の2人だけ。1988年(昭和63年)に弟子の三遊亭好楽が復帰してからは、たい平が加入するまでの16年間を同じメンバーで通した。こん平が長期の休演を余儀なくされた際も、5代目圓楽は「代わりに変な芸人は入れるな。入れるなら、山田くんを大喜利に入れればいい」と語ったという。歴代司会者としては最も長く務めていたが、2001年(平成13年)2月11日の放送では、本来3問行われる大喜利を2問で終わらせようとしてしまった(ちなみにこの7年後に後任司会者の歌丸も同様の失敗を2回やってしまい、2008年(平成20年)2月10日放送の時は三遊亭楽太郎(現:6代目三遊亭圓楽)に「あれをね、うちの師匠がやった後ああなったんですよ」とネタにされた。またさらに同年11月16日の放送でも同様の失敗をしている)。圓楽本人によると、このミスは脳梗塞の兆候の現れで、このことが切っ掛けで降板を考えるようになったとのこと。なお、この「大喜利2問で終了」はこの時が最初と思われがちだが(エピソードが語られる際に用いられる映像がもっぱら2001年放送のものであることが多いため)、それ以前にも1999年(平成11年)11月7日の放送で行ってしまっている。また、この他にも2005年(平成17年)6月12日の放送でたい平の名前を思い出せず、たい平が挙手をした際に「誰だっけ?」と発言してしまったり、他のメンバーに対しても指名してから名前が出るまでに間が空くことがあった。その後2005年(平成17年)10月13日に脳梗塞の症状が現われ入院し、10月16日分の放送を最後に番組を休養することとなった。2006年(平成18年)1月1日放送の新春14時間特番『大笑点』の終盤で久々のテレビ出演こそ果たしたものの、万全の体調ではなく、無理を押しての出演であった。同年3月26日から笑点の収録に復帰したもののやはり体調が万全でなく、冒頭の案内部分のみで大喜利司会には復帰できなかった。5月14日放送分(4月22日収録)の放送開始40周年特番を最後に勇退し、歌丸に司会の座を正式に譲った。司会当時のエンディングでの締め文句は専ら「といったところで笑点お開き!また来週のお楽しみ、ありがとうございました。」で定着していた(ただし、地方収録など回によっては若干異なる場合もあった)。2007年(平成19年)1月1日に放送の『大笑点』では、降板後では初めてゲスト出演。翌2008年(平成20年)3月9日には高座・テレビ引退後久々に弟子の真打昇進披露口上のため『笑点』出演となったが、体調を考慮して三本締めの音頭は惣領弟子三遊亭鳳楽が行った。笑点の大喜利には、「実は台本があり、誰がどのような答えを言うかはあらかじめ決まっている」という都市伝説があったが、逝去直前、笑点の司会者時代の回想で、大喜利の際には「あの答えは誰に答えさせようか、視聴率を気にしながらよく悩んだ」と、それを否定する趣旨の発言をしている。歌丸には「圓楽さんに逆らえる人間は落語界にはいない」とまで言われ、好楽・楽太郎ら弟子からはもちろん、他の落語家からも尊敬されていたが、「司会がうまい(落語は大したことない、という意趣返し)」などと揶揄(やゆ)されることもあった。追悼特別企画ではその「緻密な司会ぶり」(ミスの多さ)がネタにされた。また歌丸は著書の中で「圓楽さんは三波さんに比べるといい加減な人でしょう。でもそのおかげで我々回答者が『ちゃんとしてください!』と突っ込み返すことができる余地が生まれた。そこがまた良かったんです」と評している。追悼特番では笑点だけでなく落語の寄席での失敗、弟子一同を集めて小言を垂れる際に羊羹をバナナのごとく丸ごと一本頬張りながら(おかげでまともに小言を聞いていた弟子は一人もいなかった)というほどの甘い物好きぶりや寒がりで厚着をしたことなどが語られ、湿っぽさを感じさせない和やかで明るい雰囲気で進められた。そして司会引退および逝去以降も、座布団10枚の賞品のネタにされたり、主に楽太郎(六代目円楽)から歌丸罵倒ネタの際に(物真似されるなどして)引き合いに出されていたりしており、今なお「笑点といえば、五代目圓楽」のイメージは生き続けている。『笑点』降板後に出演した『徹子の部屋』(テレビ朝日、2006年6月5日放送)では落語家として引退はせず、後輩の指導にあたると発言した。また同年7月20日放送の『クイズ$ミリオネア』(フジテレビ)では、林家木久蔵(現:林家木久扇)の応援としてVTR出演している。2007年(平成19年)2月25日に落語会「国立名人会」で高座に復帰することとなり、自分の進退をかけ本番の半年前から稽古をして臨んだ。しかし、その出来に納得がいかずに引退を決意。口演後の記者会見で現役引退を表明した。弟弟子の6代目三遊亭圓窓が「まだやれるじゃないの。高座に上がらない圓楽兄さんなんて考えられない」などと説得をしたものの決意は固かった。引退記念の高座が予定されていなかったことから、この日演じた『芝浜』が最後の高座となった。また同年4月1日放送『いつみても波瀾万丈』(日本テレビ)の出演をもって、テレビ出演の引退も表明した(2008年3月9日放送『笑点』には弟子の真打昇進披露口上のため出演した)。なお、日本香堂のCMは1967年(昭和42年)から2009年(平成21年)まで出演を継続していた。生前の圓楽の言によれば「ギャラもらってるからね」という理由でCMのみの出演を続けていたとのことであった。同年11月に胃癌の手術を受け、翌2008年(平成20年)3月には肺癌の手術を受けた。同年8月、愛弟子の楽太郎に自らの名跡である圓楽を6代目として襲名させることが明らかとなった(林家木久扇による、子息の2代目木久蔵襲名以来となる生前贈与となる予定であった)。このことは弟子の好楽や後任司会者の歌丸により『笑点』でもネタにされている。5代目圓楽は「私はもう落語家を引退した身ですから」として楽太郎の6代目圓楽襲名後は落語界から完全に引退し、隠居することを表明していた。名前については、木久扇の師匠である林家彦六(8代目林家正蔵、彦六は三遊亭圓楽を3代目として名乗っていたこともあった)のように隠居名を名乗らず、本名の「吉河寛海」に戻すことを明らかにしたが、「師匠が落語家でなくなってしまうのは嫌だ」という楽太郎の反対により「5代目圓楽」「6代目圓楽」とを並立させる(楽太郎は〈圓〉ではなく〈円〉を通すと表明)予定であった。2009年(平成21年)5月、肺癌が再発。同時期に脳梗塞も再発し、半身不随となった。9月に慶應義塾大学病院に入院し、本人の意向により10月23日に退院。自宅(および近所に住む長男宅での)療養に入った。10月29日、転移性肺癌のため長男宅で死去。。訃報は翌日の10月30日に公表された。圓楽の逝去を受け、愛弟子の楽太郎を始め、桂歌丸、立川談志、林家こん平、8代目橘家圓蔵、鈴々舎馬風など多くの落語家が哀悼のコメントを発表した。またかつては『笑点』の裏番組(『ヤングおー!おー!』)の司会を長年担当し、東西の噺家タレントとしてライバルであり戦友でもあった桂三枝(現:6代桂文枝))は自らのブログで圓楽へ向けた哀悼のメッセージを綴った。5代目圓楽は2010年(平成22年)2月に行われることになっていた楽太郎の6代目圓楽襲名を楽しみにしており、襲名に際し2代の圓楽揃い踏みが行われるはずであったが、目前にして叶わぬ夢となってしまった。死去の一報を受けた日本香堂は自社のホームページにて哀悼の意を表した。その後、日本香堂・毎日香のCFナレーションは、2010年(平成22年)2月28日より、同日の『笑点』をもって名跡を襲名した直弟子・6代目圓楽が継承している。また、死去翌日の『NNN Newsリアルタイム』(日本テレビ)ではその死がトップニュースで報じられた。戒名は、「光岳院情誉圓楽寛海居士」(こうがくいんじょうよえんらくかんかいこじ)。遺影も圓楽が生前に選んでおり、国立演芸場での高座で『芝浜』を演じている際の写真が使われた。死去直後の週の11月1日の笑点は歌丸が喪服で追悼する特番が大喜利の前に組まれ、生前の若いころの落語を演芸コーナーで放送し、死去前に収録した大喜利が放送された。死の翌週、2009年(平成21年)11月8日の『笑点』では追悼特別企画として生前を振り返り、後半では「ありがとう円楽さん、追悼大喜利」を放送し、5代目を偲んだ。副音声での解説放送は休止された。一門・親族による、通夜・密葬は2009年(平成21年)11月4日・5日の両日に代々幡斎場で非公表にて執り行われ、同年11月21日に一門主催による「お別れの会」が東京會舘にて行われた。この「お別れの会」の席の中で、これまでの「円楽一門会」をそのまま「五代目圓楽一門会」(会長:三遊亭鳳楽)へ改称・改組する方向であることが明らかになった。(香盤順)

出典:wikipedia

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