高野口駅(こうやぐちえき)は、和歌山県橋本市高野口町名倉にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)和歌山線の駅である。駅の建設された高野口町名倉は、高野山参詣道が通る要地で、和歌山線の大和二見 - 和歌山(後の紀和駅)間を建設した私鉄の紀和鉄道が設立された当初から駅を要望しており、開業後は貨物の集散も見込めることから、駅の建設が予定されていた。しかし駅の設置に関連しては紛糾があった。この地域を流れていた田原川、盲川、東谷川、宮谷川の4つの河川は勾配が不規則で、大雨のたびに洪水を起こす恐れがあり、地元では改修を企画していたが費用が巨額のため実現せずにいた。鉄道建設に際して、これら4つの川を線路に沿って西へ流して嵯峨谷川に合流させる改修を行うよう、鉄道会社に対して地元から要求が行われた。もともと天井川であったこれらの河川の堤防のために停車場に傾斜が生じるところであったが、川の付け替えを行えば傾斜を除去できる上に洪水対策上も有用であったことから、巨額の経費がかかるものの会社はこれに対しては応じることにした。一方駅西側の大野地区(高野口町大野)の住民は、線路の下を人馬が通れるトンネルを3か所に設けることを要求し、踏切で十分であるとする会社側との協議はまとまらなかった。結果的に1899年(明治32年)8月4日に和歌山県知事に対して工事設計協議会の設置を求め協議を行ったがやはりまとまらなかった。9月12日には審査会の設置を求め、11月24日の審査会の結論は会社側に不利なものとなった。そこで会社は内務大臣に対して不服を唱え、翌1900年(明治33年)3月31日の裁定により会社側の設計が妥当と認められることになった。このように長く地元が設計に納得せず、また県の裁定が会社の不利となるものであったのは、当時の政党間の対立関係が影響したのではないかとされている。建設に際しては停車場に必要な水平の土地を得るために、駅の東側の応其村(橋本市高野口町の南東部)において当初設計で土地を22フィート(約6.7 m)切り下げとしていたのを、さらに2フィート増やして24フィート(約7.3 m)の切り下げとすることになった。これに対して応其村の住民からは、地下水脈が断たれて線路南側の水田で稲作ができなくなるとの反発があり、切り下げ深さを元の22フィートに留めるか、稲作ができなくなることの補償を求め、そのどちらも不可能であれば駅を応其村に建設し、高野山の参詣道を新たにこちらに建設すべきであると主張した。しかし2フィート程度の深さの増加では地下水脈に影響するはずもなく補償の必要はないと会社は主張し、また駅の位置に関しては会社の信用にも関わるとして当初原案通りでの建設計画を進め、応其村住民を説得するのには1年余りを要したという。相対式2面2線のホームを持つ行違い可能な地上駅。駅本屋側ホームが1番(下り)ホーム、跨線橋を渡った反対側ホームが2番(上り)ホームである。JR西日本の子会社であるジェイアール西日本メンテックの契約社員が一人常駐しており、朝の一部時間帯(6時40分 - 9時00分)のみ営業の業務委託駅(管理は橋本駅)で、POS端末と新型押しボタン式券売機1台設置。キオスクや橋本市のギャラリーコーナーも併設されており、線内では比較的設備が整っている駅である。トイレは設置されている。自動体外式除細動器(AED)は設置されていない。1日の平均乗車人員は以下の通りである。
出典:wikipedia
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