みちのくプロレスは、東北地方を中心に活動するプロレス団体。1992年10月1日、ユニバーサル・プロレスリングを退団したザ・グレート・サスケが設立。地域密着型のプロレス団体を標榜して東北地方を中心に活動している。飛び技を主体にしたメキシカンスタイルを持ち味とするため次の2点で他のプロレス団体と異なる。リング周囲に衝撃吸収用のマットが敷かれていない。これはメキシコでもマットを敷かないためである。そのため場外で投げ技を食らうとダメージが大きくなる。ローカルルールとしてタッグマッチにおいて自分のパートナーが場外に出た場合に控えの選手はタッチしなくても試合権利を得てリングに入り試合に加わることができる。スタイルの都合上、試合権利を持つ選手が飛び技を使って場外に出てしまうことが多いため試合が膠着状態になることを防ぐと共に試合展開をスピーディーにするためのルールである。また、そのルールに即した形で控え選手は待機中、タッチロープを持っていない。1992年10月1日、ユニバーサル・プロレスリングに在籍中から東北地方でのプロレス振興を構想していたザ・グレート・サスケが岩手県盛岡市に設立。11月27日、岩手県岩手郡滝沢村(現:滝沢市)の岩手産業文化センターでプレ旗揚げ戦を開催。旗揚げ当初はユニバーサルの地方プロモーターの色合いが強かったが、この頃から代表の新間寿恒らユニバーサル経営陣と所属選手との間に紛争が発生(試合中の負傷に対する補償問題が端緒とされる)。1993年1月、グラン浜田を除くユニバーサル所属選手は退団して、みちのくプロレスに入団。3月16日、岩手県紫波郡矢巾町の矢巾町民総合体育館で旗揚げ戦を開催。来日予定のルチャドールらのビザが下りず急遽、東京都足立区に住んでいたウェリントン・ウィルキンス・ジュニアを代わりに参戦させることになる。初めはニュースステーションを、はじめ各種メディアで取り上げられて話題となるが、その多くが東北地方の片田舎で細々と活動するユニークな弱小プロレス団体といった内容で初の後楽園ホール大会での売上金持ち逃げ事件(1994年2月4日、全試合終了後に大会主催者が売上金を持ち逃げして行方をくらます)、暴力団との関係騒動により警察の圧力で興行が中止になったりと「長続きはしないだろう」という見方が大勢を占めていた。1994年、サスケが新日本プロレス主催で開催したスーパーJカップで日本ジュニア界の第一人者の獣神サンダー・ライガーを破って準優勝。同年、新日本プロレスのベスト・オブ・ザ・スーパージュニアにおいても所属選手のスペル・デルフィンが準優勝。みちのくプロレスも新日本プロレスで対抗戦を行うなどの活躍でマイナー団体である、みちのくプロレスは一気に全国区の人気になる。新日本プロレスの一部からは反感を買ったが上層部からの評価は良くワールドプロレスリングの解説を務めていたマサ斎藤は「みちのくプロレスのルーチャですか?こんな素晴らしくて楽しいものとは思わなかったですね。みちのくの選手の若いエネルギーを感じた」とコメント。また現場監督を務めていた長州力はTAKAみちのくの試合を見た際にトップロープに乗ってからのプランチャを見て「お前は宇宙人か」と評していた。新日本プロレスでの活躍により所属選手は他団体からひっぱりだこの状態になり正規軍とルード軍「海援隊★DX」の抗争などで試合会場はどこも常に超満員になる。1997年、獅龍(現:カズ・ハヤシ)が退団。後にTAKAはWWF(現:WWE)に移籍。1998年、ディック東郷、MEN'Sテイオー、船木勝一(現:FUNAKI)がWWFに移籍。同年、サスケの膝手術による長期離脱で興行を休止するが、この期間、選手組合により存続を発表。同年、名タッグとよばれたサスケとデルフィンに亀裂。サスケは路頭に迷ったあげく青いマスクマン「SASUKE」としてルードへ転向。ルード軍「SASUKE組」を結成して正規軍と対決する。1999年1月17日、デルフィン、愚乱・浪花、星川尚浩、薬師寺正人、瀬野優(現:大王QUALLT)、練習生の木川勇人(現:HUB)、レフェリーの松井幸則が記者会見を行い方向性に亀裂が生じて退団することを発表。デルフィンらは会見中に乱入したSASUKEの声にも無視して退席。その場でSASUKEとレフェリーのテッド・タナベが抱き合い号泣。浪花は後日、デルフィンと別れて、みちのくプロレスにフリーとして復帰。改心したサスケは正規軍としてルード軍と抗争。離脱危機に駆けつけたKAIENTAI DOJOのTAKAも合流。主力選手が抜け苦しい経営を迫られることとなり以降はフリー選手を中心とした興行となる。後に正規軍へ合流したフリーの東郷だったが後にルード軍「F.E.C」を結成。サスケもルード軍「SASUKE組」を再集結させてルード対ルードと言う反則だらけの抗争が勃発。2003年、サスケが岩手県議会議員に当選して新崎人生が社長に就任。サスケは会長に退く。11月3日、旗揚げ10周年記念大会を有明コロシアムで開催。メインイベントではサスケ対デルフィン戦が実現しデルフィンが勝利するもサスケは無言で立ち去る。2004年7月、元闘龍門X所属選手を中心とした興行形態に切り替えて「新生みちのくプロレス」として始動。2005年7月、宮城県仙台市に、みちのくエンタテインメントを設立して本社機能を移す。同時にシンボルマークも変更。2006年、人生とデルフィンのシングルマッチをきっかけに大阪プロレスとの抗争が始まり約7年半振りにデルフィンが、みちのくプロレスに参戦。その際に反則行為やレフェリーのタナベの高速カウントから観客が激怒して各会場ではリングに物が投げ込まれた。6月、GAINAとレフェリーのタナベが大阪プロレスに移籍。9月、抗争に無関心のサスケはデルフィンの名指した呼びかけに激怒して10月8日、東北ジュニアヘビー級王座を賭けたタイトルマッチが行われて波乱がありながらもサスケは見事勝利を飾り確執のなかサスケとデルフィンは握手を交わした。2008年6月19日、旗揚げ15周年を記念して開催する巡業「15周年ノスタルジックツアー」を後楽園ホールで開催。2009年8月31日、取締役会でサスケが社長に復帰。前社長の人生はコミッショナーに就任して、みちのくエンタテインメントの社長は引き続き人生が務めることも合わせて発表。みちのくプロレスの運営会社が宮城県の、みちのくエンタテイメント有限会社から岩手県の株式会社みちのくプロレスに戻る。2011年3月11日、東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)により選手とスタッフなどが避難所での生活を余儀なくされる。毎年恒例だった九州巡業ツアー「思えば遠くへ来たもんだ「〜酒宴〜」は当初震災直後ということもあり中止も検討されたが東北地方支援を求めて例年通りの開催となった。バスとトラックは九州まで山形県越えのルートで行った(東北自動車道などが崩壊していたため)。2015年4月1日、拳王がプロレスリング・ノアに移籍。1995年から4年に1回開催している覆面レスラーによるシングルリーグ戦。第4回以降はシングルトーナメント戦になっている。2002年から開催しているシングルリーグ戦。優勝者は東北ジュニアヘビー級王座の挑戦権が与えられる。1993年から開催しているタッグトーナメント戦。優勝チームは東北タッグ王座の挑戦権が与えられる。東北タッグ王者が決勝進出した場合は防衛戦になる場合もある。2006年12月17日から繰り広げられるザ・グレート・サスケ対バラモン兄弟(バラモン・シュウとバラモン・ケイ)との抗争。「何でもあり」の特別ルールで行われる。野橋太郎のプロデュース興行で2007年から地域活性化を目的に岩手県岩手郡滝沢村(現:滝沢市)にある大釜幼稚園体育館で開催していた若手選手による興行。地域企業がスポンサーについてるため入場料は無料(特別興業は有料)。OOGAMANIA限定参戦覆面レスラー「オオガマックス」がデビュー。OOGAMANIA同様に大釜幼稚園体育館で学校の夏休みなどを利用して連日開催していた若手選手による興行。入場料は500円(特別ゲスト参戦の特別興行は1000円)。
出典:wikipedia
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