宮本 賢治(みやもと けんじ、1959年9月9日 - )は、兵庫県神崎郡市川町出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ・監督。東洋大姫路時代、2年生の春に投手転向。主戦・松本正志の控えとして出番は巡って来なかったが、1977年の第59回全国高等学校野球選手権大会で優勝を経験する。この大会では3回戦の浜田高校戦で、松本の後を受けてリリーフ登板するものの、直後に打球を右手に受け降板している。その後、東洋大学のライバル校である亜細亜大学へ進学。大学時代は1980年秋季、1981年春季に2季連続で最高殊勲選手、最優秀投手、ベストナインを獲得した。東都大学野球リーグ通算80試合登板し、35勝18敗、防御率2.17、197奪三振の成績を残す。35勝はリーグ歴代4位タイ、亜細亜大歴代1位である。4年間、東洋大戦に登板すると当然のように「裏切り者」の罵声を浴び続けた。1981年、ドラフト1位でヤクルトに入団。ストレートの球速こそ速くはなかったもののキレの良い変化球を武器に先発・中継ぎ両方をこなすアンダースロー投手として活躍。1年目の1982年にさっそく勝利投手を記録した。これはヤクルトのドラフト1位の新人としては杉山重雄以来10年ぶりの出来事だった。特に横浜大洋ホエールズに滅法強く、「大洋キラー」と呼ばれた。1992年、チームはリーグ優勝したが、故障の為この年1軍での登板は無かった。1993年、シーズン終盤に復帰。チームの台所事情が苦しい中、そのまま4勝を挙げ2連覇に貢献。その年の日本シリーズにも先発登板した。翌年以降も谷間の先発・リリーフを務めたが、1996年現役引退。その後、1997年から1998年まで、サンケイスポーツの記者、スポーツライターを経て、1999年から2000年まで、ヤクルト1軍投手コーチ補佐を務めた。2001年オフからは同球団の関東・近畿・中国地区担当スカウト主事補佐に転進。2010年からは、編成部に新設される育成担当に就任、選手の育成に力を注ぐ。2016年からは、ヤクルト2軍監督を務める。
出典:wikipedia
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