ホスピタリテイは、1980年代に活躍した日本の競走馬・種牡馬。おもな勝ち鞍は、1982年の羽田盃、セントライト記念。短・中距離の競走を得意とし、生涯を通じて日本調教馬相手には無敗と底を見せることがなかった。主戦騎手は、地方競馬所属時代は西川栄二、中央競馬所属時代は嶋田功が、すべての競走で手綱を取った。馬齢は、2000年以前は旧表記(数え年)とする。1981年6月、大井競馬場の新馬戦でデビュー。豊かなスピードを活かして2着馬に10馬身差をつけて逃げ切ると、3歳チャンピオン決定戦の青雲賞まで5連勝を達成。この5戦で2着馬につけた着差の合計は、実に31馬身であった。当初は関係者からも早熟の逃げ馬と見なされていたが、デビューから半年で馬体重が30キロも増加するなど目覚しい成長力を見せていた。年が明けての初戦は、2月の京浜盃。2着馬に2馬身半差をつけて優勝すると、続く羽田盃前哨戦の黒潮盃も2着馬に5馬身差をつけて勝利。鞍上の西川が、1コーナーで勝利を確信したと言うほどの楽勝で、レース後には、羽田盃、東京ダービーの二冠を手土産に中央移籍というプランが、馬主の渡辺によって明らかにされた。5月の羽田盃では、ダイシンシラユキが出ムチを入れて競りかけにいったが、並ばせることが無いまま同馬に1馬身半差をつけ優勝。南関東三冠の一冠目を制した。しかし、続く東京ダービーを目前にして膝蓋靭帯炎を発症。出走取り消しを余儀なくされ、二冠達成はならなかった。この後は、予定通り7月に中央入りし、稲葉厩舎に入厩。調教での動きも良く、8戦8勝と無敗での中央入りだったことから「ハイセイコーの再来」とも称された。中央での初戦となったのは、10月のセントライト記念。皐月賞優勝馬のアズマハンターに単勝1番人気を譲り、デビュー以来初めて2番人気に甘んじたが、レースでは、4コーナーで並びかけようとするアズマハンターを直線で引き離し、同馬に3馬身差をつけて優勝した。鮮烈な中央デビューを飾ったホスピタリテイだったが、クラシック登録をしていなかったため菊花賞への出走権が無く、また、4歳馬であるため天皇賞(秋)の出走資格も無かった。そのため、この後はジャパンカップを目標として、東京競馬場の国際競走のオープン戦に出走。逃げ切りを図ったが、前年のジャパンカップで2着に入ったカナダ調教馬フロストキングの末脚に屈し2着に敗れると、左前繋靭帯炎を発症。長期休養に入ることとなった。復帰戦となったのは、翌1983年10月のオータムスプリントステークス。単勝1番人気に応えて逃げ切り勝ちを収めたが、競走中に左前繋靭帯炎が再発し、予定していたジャパンカップ、有馬記念を断念。脚部不安には勝てず引退することとなった。中央競馬所属の成績は3戦2勝。形式上、地方時代を含め「日本馬に負けたことがない」状態で引退することとなった。引退後は、新冠町の森牧場にて、渡辺の個人所有という形で種牡馬となった。種付け料が30万円と安価だったこともあり、初年度から85頭に種付けを行うなど当時の内国産種牡馬としては高い人気を集め、皐月賞優勝馬のドクタースパートをはじめ重賞優勝馬を多数輩出するなど種牡馬として成功を収めた。なお、1992年には地方競馬リーディングサイアーとなっている。2005年に種牡馬登録を抹消。森牧場で余生を送った。2008年8月4日、老衰のため死亡した。この訃報を受け、翌年2009年1月8日に発表された2008年度のNARグランプリにおいて、ホスピタリテイに対して特別賞が贈られている。
出典:wikipedia
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