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朝凪 (駆逐艦)

朝凪(あさなぎ)は、大日本帝国海軍の駆逐艦。神風型(2代目)の8番艦である。1922年(大正11年)9月11日、藤永田造船所で建造予定の駆逐艦1隻に第十五駆逐艦の艦名が与えられる。第15駆逐艦は一等駆逐艦に類別された。同日附で、第11駆逐艦(神風型6番艦「追風」)は浦賀船渠で、第13駆逐艦(神風型7番艦「疾風」)は石川島造船所で建造される事が決まる。第15駆逐艦(朝凪)は藤永田造船所において1923年(大正12年)3月5日起工。1924年(大正13年)4月21日進水。進水直後、第15駆逐艦は第十五号駆逐艦に改名された。12月29日に竣工した。その後1928年(昭和3年)8月1日附で第15号駆逐艦は「朝凪」と改名。第29駆逐隊は神風型4隻(追風、疾風、朝凪、夕凪)として行動を続けたが、1935年(昭和10年)11月15日に行われた編制替で、日本海軍は第29駆逐隊を分割。神風型2隻(朝凪、夕凪)により第28駆逐隊を新編、駆逐隊司令には大藤正直中佐を任命する(大藤は、駆逐艦深雪衝突沈没時の艦長)。第29駆逐隊は2隻(追風、疾風)編制となる。1936年(昭和11年)6月1日、第28駆逐隊(朝凪、夕凪)は水上機母艦「神威」と共に第三航空戦隊を編制。神威以下第三航空戦隊は、南洋方面における航空機基地調査に赴いた。12月1日附で連合艦隊附属の第十二戦隊に改編される。1937年(昭和12年)8月27日、第28駆逐隊は第三航空戦隊(第三艦隊)に編入。本艦は10月20日附で第3予備艦となり、佐世保警備戦隊に編入。1940年(昭和15年)11月15日附で第28駆逐隊は解隊。第28駆逐隊司令柴田力大佐は第5防備隊司令へ転任。神風型2隻(朝凪、夕凪)は再び第29駆逐隊に編入され、同隊は定数4隻(追風、疾風、朝凪、夕凪)を揃え、第四艦隊・第六水雷戦隊(旗艦「夕張」)に所属。トラック泊地に進出し、同方面で行動する。1941年(昭和16年)12月8日以降の太平洋戦争では、主に船団の護衛に従事した。緒戦時は南洋部隊指揮官井上成美第四艦隊司令長官(旗艦「鹿島」)の麾下にあり、第六水雷戦隊(司令官梶尾定道少将、旗艦「夕張」、第29駆逐隊《追風、疾風、朝凪、夕凪》、第30駆逐隊《睦月、如月、弥生、望月》)として中部太平洋諸島から南東方面の作戦に従事した。12月11日、第十八戦隊(天龍、龍田)や第六水雷戦隊各艦と共にウェーク島攻略戦に参加した第29駆逐隊(追風、疾風)のうち「疾風」が撃沈され、第30駆逐隊も「如月」を喪失する。1942年(昭和17年)1月15日附で2隻(疾風、如月)は除籍され、第29駆逐隊は神風型3隻(朝凪、夕凪、追風)、第30駆逐隊は睦月型駆逐艦3隻(睦月、弥生、望月)となった。その後も第六水雷戦隊として「夕張」と共に行動。3月10日、弟六水雷戦隊は米軍機動部隊艦載機の空襲を受ける(ラエ・サラモアへの空襲)。夕張及び第29駆逐隊各艦は損傷し、一旦内地に帰投した。4月23日、修理中の「夕凪」を残して第29駆逐隊(追風、朝凪)は佐世保を出発>。5月2日、ラバウル到着。ポートモレスビー攻略戦や珊瑚海海戦などに参加する。5月18日、「朝凪」は佐世保に入港して修理を実施。5月25日、睦月型9番艦「菊月」の放棄・沈没(5月4日)により第23駆逐隊(夕月、卯月)は解隊。それにともない、同隊の睦月型12番艦「夕月」が第29駆逐隊に編入され、定数4隻(夕月、追風、朝凪、夕凪)を回復した。1942年(昭和17年)7月10日、第六水雷戦隊は解隊される。同時に構成兵力(夕張、第29駆逐隊《夕月、追風、朝凪、夕凪》、第30駆逐隊《睦月、弥生、望月、卯月》)は第二海上護衛隊(能代丸、長運丸)へ編入された。だが第30駆逐隊が第二海上護衛隊として護衛作戦に従事する機会は訪れず、わずか4日で第八艦隊(7月14日編制、司令長官三川軍一中将。旗艦「鳥海」)へ異動した。佐世保で修理・整備に従事していた「朝凪」は、第二海上護衛隊編入直後の7月11日ラバウルに向け出撃。7月18日、ラバウルに到着して夕張以下僚艦と合流する。7月25日、「朝凪」は陸軍参謀辻政信中佐を乗せてラバウルを出撃。辻によれば、「朝凪」の対空火器は応急的に取り付けた機銃四挺だけだったという。ブナ(パプアニューギニア)に向かう途中の7月26日夕刻、連合軍双発爆撃機の空襲を受け、回避行動中に触礁してスクリューを損傷、最大発揮速力16ノットに低下。至近弾により辻陸軍参謀も負傷した。7月28日、ラバウルに帰投。その後「朝凪」は修理のため内地へ帰投(8月23日、横須賀着)。このため「朝凪」は僚艦「夕凪」が活躍した第一次ソロモン海戦に参加できなかった。10月10日、朝凪駆逐艦長は花見弘平少佐から尾辻秀一大尉に交代。花見は10月20日附で吹雪型18番艦「曙」艦長に補職。続いて吹雪型15番艦「天霧」艦長等を歴任した。1943年(昭和18年)4月1日、第29駆逐隊は解隊された。4隻(朝凪、夕凪、追風、夕月)は引き続き海上護衛隊に所属して船団護衛任務に従事した。10月20日、朝凪駆逐艦長は尾辻秀一少佐から大西快治大尉に交代。尾辻少佐は10月25日附で吹雪型駆逐艦14番艦「夕霧」艦長に補職されるが、11月25日にセント・ジョージ岬沖海戦における夕霧沈没時に戦死した。また新艦長(大西大尉)着任当時の「朝凪」は、老朽化のため速力30ノットを発揮できない状態だった。1944年(昭和19年)4月上旬、「朝凪」は白露型駆逐艦6番艦「五月雨」(第2護衛船団司令官清田孝彦少将座乗)や給糧艦「間宮」等と共に東松四号輸送船団に参加。この船団は輸送船2隻(4月3日、東征丸。4月10日、美作丸)沈没のみで、おおむね成功した。5月4日、清田孝彦少将と参謀井上正夫中佐が「朝凪」に座乗し、船舶14隻を朝凪以下10隻が護衛して東京湾を出撃。船団は5月14日にサイパンへ到着するが、このうち水無月以下3隻に護衛された輸送船4隻(5月16日サイパン発ヤップ行)は日吉丸・復興丸沈没等の被害を出した。5月17日、朝凪以下護衛艦7隻と船団10隻はサイパンを出港。横須賀に向け航海中の5月22日午前3時頃、小笠原諸島の父島北西沖地点において、アメリカ海軍の潜水艦ポラック(USS Pollack, SS-180)の雷撃を受ける。魚雷1本が左舷後部に命中、老朽化のため浸水がとまらず大西(朝凪艦長)は総員退去を発令。「朝凪」は艦尾から沈没した。戦死者約30名。朝凪沈没から生還した大西快治少佐は6月1日附で朝凪駆逐艦長の職務を解かれた。続いて6月8日より松型駆逐艦3番艦「梅」艤装員長に補職。梅竣工後は初代駆逐艦長となりとなり、同艦沈没(1945年1月31日)からも生還した。駆逐艦「朝凪」は7月10日附で神風型駆逐艦、帝国駆逐艦籍から除籍された。

出典:wikipedia

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