蒲生 氏郷(がもう うじさと)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。初め近江日野城主、次に伊勢松阪城主、最後に陸奥黒川城主。蒲生賢秀の三男(嫡男)。初名は賦秀(やすひで)または教秀(のりひで)。キリシタン大名であり、洗礼名はレオン(又はレオ)。子に蒲生秀行。蒲生氏は藤原秀郷の系統に属する鎌倉時代からの名門であったという。近江国蒲生郡日野に六角承禎の重臣・蒲生賢秀の三男として生まれる。幼名は鶴千代と名付けられた。永禄11年(1568年)、観音寺城の戦いで六角氏が滅亡すると賢秀は鶴千代を人質に差し出して織田信長に臣従した。鶴千代と会った信長は、「蒲生が子息目付常ならず、只者にては有るべからず。我婿にせん(蒲生の息子の瞳は他の者と違う。普通の者ではあるまい。私の婿にしよう)」と言い、娘の相応院を娶らせる約束をしたという。鶴千代は岐阜の瑞竜寺の禅僧・南化玄興に師事し、儒教や仏教を学び、斎藤利三の奨めで武芸を磨いた。岐阜城での元服の際には信長自らが烏帽子親となった、弾正忠信長の「忠」の文字を与えられ忠三郎賦秀と名乗る(以降、一部を除いて氏郷に統一する)。永禄12年(1569年)の南伊勢大河内城の戦いにて14歳で初陣を飾る。戦後、相応院を娶って日野に帰国した。元亀元年(1570年)4月、氏郷は父・賢秀と共に柴田勝家の与力となり一千余騎で参陣し、朝倉氏を攻め、同年に当知行が安堵され、5,510石の領地が加増された。その後、同年7月の姉川の戦い、元亀2年(1571年)の第一次伊勢長島攻め、天正元年(1573年)4月の鯰江城攻め、朝倉攻めと小谷城攻め、天正2年(1574年)の第二次伊勢長島攻め、天正3年(1575年)の長篠の戦い、天正6年(1578年)からの有岡城の戦い、天正9年(1581年)の第二次天正伊賀の乱(比自山城の戦い)などに従軍して、武功を挙げている。天正10年(1582年)、信長が本能寺の変により自刃すると、氏郷は安土城にいた賢秀と連絡し、城内にいた信長の一族を保護し、賢秀と共に居城・日野城(中野城)へ走って乗物50丁、鞍つき馬100頭、伝馬200頭を支度して明智光秀に対して対抗姿勢を示した。光秀は明智光春、武田元明、京極高次らに近江の長浜、佐和山、安土の各城を攻略させ、次に日野攻囲に移る手筈だったが、直前に山崎の戦いで敗死した。同年、家督を相続する(月日は不明だが、天正10年6月18日から9月3日までの間とされている。その後は清洲会議で優位に立ち、信長の統一事業を引き継いだ羽柴秀吉(豊臣秀吉)に従い、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは羽柴秀長の下、峰城をはじめとする滝川一益の北伊勢諸城の攻略にあたった。戦後、亀山城を与えられるが、自身は入城せず、家臣の関盛信を置いた。天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いでは3月に滝川一益・浅野長吉・甲賀衆等と共に峰城、4月に戸木城、5月に加賀野井城を攻めた。特に加賀野井城攻めで籠城衆を殲滅するなどの戦功を挙げる。同年8月の菅瀬合戦では氏郷は敵の侵入を知らせる銃声を聞き、軍勢も揃えず松ヶ島城外に打って出た。敵の木造氏は氏郷の行動を熟知しており、鉄砲で狙撃したため、鯰尾兜に弾丸が三つも当たったという。その後は別働隊として羽柴秀長らと共に織田信雄を監視し、羽柴軍撤退の際は殿を務めた。戦後、伊勢松ヶ島12万石に加増・転封となり、秀吉から「羽柴」の苗字を与えられる。ルイス・フロイスの『耶蘇会年報』によると、この頃、大坂にてキリスト教の洗礼を受けるとあるが、『十六・十七世紀イエズス会日本報告書』には天正13年(1585年)に大坂でオルガンティノから洗礼を受けレオンの霊名を称したとある。天正13年(1585年)の紀州征伐(第二次太田城の戦い)や富山の役にも参戦。天正14年(1586年)、従四位下・侍従に任じられる。天正15年(1587年)の九州征伐では前田利長と共に熊井久重が守る岩石城を落とす活躍を見せた。天正16年(1588年)には飯高郡矢川庄四五百森(よいほのもり)で新城建築のための縄張りを行い、松坂城を築城。寺院を町の外側に置き、町筋を直線ではなく角を要所に造って一度に多くの敵兵が攻め込めないようにし、松ヶ島の武士や商人を強制的に移住させて城下町を作り上げた。同年4月15日、正四位下・左近衛少将に任じられ、豊臣姓(本姓)を下賜された。天正17年(1589年)の方広寺大仏殿の石組工事で、五条橋大門角石用の二間四方の石を近江大津の三井寺の上から切り出して、重臣達が笛や太鼓で拍子を取って京都まで運んだ。その石は、諸大名が運んだものの中で最大だったという。天正18年(1590年)の小田原征伐では、討死を覚悟して肖像画を残して出陣した。韮山城を落とした後、小田原城包囲軍に参加。包囲中、7月2日の夜に敵将の太田氏房から夜襲を受ける。この時、氏郷は陣を回っていたため、甲冑を着る余裕がなく、近くにいた北川平左衛門の甲冑を借り、たった一人、乱戦の中で槍を抱えて敵の背後に回り、敵兵を次々と討ったという。戦後に「三階菅笠」の馬印の使用許可を得た。一連の統一事業に関わった功により、天正18年(1590年)の奥州仕置において伊勢より陸奥国会津に移封され42万石(のちの検地・加増により91万石の大領を与えられた。これは奥州の伊達政宗(会津は伊達政宗の旧領)を抑えるための配置であり、当初は細川忠興が候補となったものの辞退したため氏郷が封ぜられたとされる。また小田原遅参によって改易された下野小山氏に代わって藤原秀郷の嫡流となり、家紋を立鶴から三頭の左巴に変更した。なお、松ヶ島時代(天正13年(1585年)頃)に賦秀から氏郷(うじさと)と名乗りを改めているが、これは“秀”吉の諱の一字を下に置く「賦秀」という名が不遜であろうという気配りからであった。秀吉は黒川城を出発するに際し、氏郷と木村吉清を召し出し、両人の手を左右の手にとって「今後、氏郷は吉清を子とも弟とも思い、吉清はまた氏郷を父とも主とも頼み、京都への出仕はやめて、時々会津に参勤し、奥州の非常を警固せよ。もし凶徒蜂起のことがあれば、氏郷は伊達政宗を督促して先陣させ、氏郷は後陣に続いて非常の変に備えよ」と諭したという。 会津において、氏郷は重臣達を領内の支城に城代として配置した(#家臣を参照)。そして黒川城を蒲生群流の縄張りによる城へと改築した。7層楼の天守(現存する5層の復元天守は寛永年間に改築されたものを元にしている)を有するこの城は、氏郷の幼名にちなみ、蒲生家の舞鶴の家紋にちなんで鶴ヶ城と名付けられた。築城と同時に城下町の開発も実施し、町の名を黒川から「若松」へと改めた。「若松」の名は、出身地の近江日野城(中野城)に近い馬見岡綿向神社(現在の滋賀県蒲生郡日野町村井にある神社、蒲生氏の氏神)の参道周辺にあった「若松の森」に由来し、同じく領土であった松坂の「松」という一文字もこの松に由来すると言われている。氏郷は会津の領民にも改宗を勧め、会津若松市内には天子神社という教会跡があり、支城の置かれた猪苗代にはセミナリオがあったとされる。氏郷は農業政策より商業政策を重視し、旧領の日野・松阪の商人を若松に招聘し、定期市の開設、楽市楽座の導入、手工業の奨励等により、江戸時代の会津藩の発展の礎を築いた。以降は、伊達政宗と度々対立しながらも、天正19年(1591年)の大崎・葛西一揆(この際秀吉に対し「政宗が一揆を扇動している」との告発を行っている)、九戸政実の乱を制圧するための遠征を行う、蒲生軍の遠征は、十番ないし十三番に編成された軍勢が、一斉に会津若松を出陣するのではなく、先発部隊が奥大道を北上し、氏郷本体が後から追いかけるような行程であった。遠征軍の布陣は、先陣が若松城より奥大道に近い位置にある支城主の部隊えで構成されていたのに対し、氏郷本体を固める後陣は会津周辺の城主層で編成されている。このように「蒲生家中の全勢力を挙げての出陣」ともいわれる遠征軍の布陣は、支城の配置とも密接に関わっており、平時の領内の支城・城持の配置が、そのまま戦時における遠征のための行軍にスライドしている。同年12月、従三位参議に任じられた。文禄元年(1592年)の文禄の役では、肥前名護屋城へと参陣している。この陣中にて体調を崩した氏郷は文禄2年(1593年)11月に会津に帰国したが病状が悪化し、文禄3年(1594年)春に養生のために上洛し、10月25日には秀吉をはじめ諸大名を招いた大きな宴会を催した。しかしこの頃には病状がかなり悪化して誰の目にも氏郷の重病は明らかで、秀吉は前田利家や徳川家康にも名のある医師を派遣するように命じ、自らも曲直瀬玄朔を派遣している。文禄4年(1595年)2月7日、伏見の蒲生屋敷において、病死した。享年40。蒲生家の家督は家康の娘との縁組を条件に嫡子の秀行が継いだが、家内不穏の動きから宇都宮に移され12万石に減封された(会津にはやはり伊達政宗に対抗させる目的で上杉景勝が入った)。氏郷は家臣をとても大切にする人物だったと伝えられており、それに関する逸話が多い。厳しい人物だったとされていて、以下のような逸話がある。以下に重臣の奥州領内の支城任地・石高の変遷を記す。(家臣:五十音順、◎は上記城主)豊臣秀吉『氏郷記』や石田三成『石田軍記』、『蒲生盛衰記』などによる毒殺説もあるが、下記の理由により否定されている。秀吉は氏郷の治療にあたり、施薬院全宗が医師団を指揮し、曲直瀬玄朔、一鷗軒宗虎を長老格とする9名の医師団による輪番治療を行わせた、秀吉が氏郷の治療に懸命であったことがわかる。曲直瀬玄朔が残したカルテ『医学天正記』には文禄の役へ出兵の途中、文禄2年(1593年)に名護屋城で発病し、文禄4年(1595年)に没するまで、三年間患い症状が出たと記されている。腹水がたまり、顔面や手足に浮腫ができるといった徴候から、氏郷は今でいう直腸癌だったと推測されている。他に死因として肝臓癌が上げられている。"かぎりあれば 吹ねど花は 散るものを 心みじかの 春の山風"(風など吹かなくても、花の一生には限りがあるので、いつかは散ってしまうのです。それを春の山風は何故こんなに短気に花を散らしてしまうのですか)この歌は自己の早世を嘆たものである。祇園南海、幸田露伴の著作にこの句の評釈がある。また、山田風太郎は『人間臨終図鑑』の中で、「この句は戦国武将の絶唱としては白眉である」と評している。近年、黄梅院にある墓を発掘したところ、刀を抱いた形で埋葬されていたことが判明。
出典:wikipedia
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