ブライアン・マイケル・マッキャン(Brian Michael McCann, 1984年2月20日 - )は、アメリカ合衆国・ジョージア州アセンズ出身のプロ野球選手(捕手)、右投左打。現在は、MLBのニューヨーク・ヤンキースに所属している。姓の「McCann」は、日本メディアでは「マッキャン」と表記される事が多いが、発音は「マキャン(məkǽn)」である。ジョージア州アセンズで誕生。少年時代は同州アトランタに本拠地を置くブレーブスのファンで、ジョン・スモルツのサインボールを宝物にしていたという。ダルース高校へ進学。のドラフト2巡目(全体64位)でそのブレーブスから指名を受け、プロ入り。6月10日にメジャーデビューを果たした。しばらくはスモルツの専属捕手を務めており、スモルツが4登板中3試合で完投を記録したため、マッキャンのリードもまた評価されるようになった。この年のブレーブスはジョニー・エストラーダが正捕手を務めていたが、後半戦はマッキャンが先発出場するようになり、59試合で打率.278・5本塁打・23打点を記録した。マッキャンについてスモルツは「彼ほど若いのに落ち着いたキャッチャーは初めて」、エストラーダは「若いし、打撃力もある。可能性は大きいよね」と語っている。スモルツから投球術を学んだマッキャンは投手陣からの信頼が厚かったため、ブレーブスはエストラーダを放出し、はマッキャンに正捕手の座を与えた。マッキャンは期待に応え、5月下旬には左足首を痛めて故障者リスト入りしたものの、7月にはオールスターに初めて選出されるなど活躍。同月15日から7月19日にかけては、捕手としては9年ぶりとなる5試合連続本塁打も記録している。最終的に規定打席到達こそ逃したものの、打率.333・24本塁打・93打点・OPS.960という成績を残した。本塁打数は捕手ではMLB最多となり、シーズン終了後にはシルバースラッガー賞を初めて受賞した。2月28日にブレーブスと1年契約を結んだが、開幕前の3月22日に総額2780万ドルの6年契約+出来高(2013年・1200万ドルの球団オプション付き)を結んだ。ジョン・シューホルツGMは「特別な選手だから、特別な契約なんだ」と、年俸調停資格を得ていない選手としては異例の大型契約をマッキャンに与えた。ただこの年のレギュラーシーズンは左ひざ痛を抱えながら出場したため、打率.270・18本塁打・92打点と前年を下回る成績に終わっている。は左ひざ痛もなくなり、打率.301・23本塁打・87打点で本塁打・打点のチーム二冠。2006年以来の打率3割・20本塁打を達成した。開幕前の3月には、第2回WBCのアメリカ合衆国代表に選出された。この大会では、チームに故障者が続出したこともあって、本職の捕手以外に左翼守備に就く場面もあった。大会通算では6試合に出場し、打率.333・1本塁打・6打点を記録した。シーズンでは、4月5日のMLBレギュラーシーズン開幕戦から4番・捕手として出場。しかし、この頃から左目の視界がぼやけるようになった。2007年シーズン終了後には視力矯正のためレーシック手術を受けたこともあるマッキャンは「野球をしていなかったら、ほっといて、それで治ると思う」としていたが、結局この現象は感染症であることが判明し、4月下旬には故障者リスト入りすることに。故障者リスト入り時点での打率は.195と、2割を下回る低水準だった。5月上旬に眼鏡をかけて復帰したマッキャンは、その後復調。最終的に捕手としてリーグ1位となる21本塁打・94打点・OPS.834を記録し、3度目のシルバースラッガー賞受賞となった。、5年連続となるオールスター選出を果たす。試合では、ナショナルリーグが0-1と1点ビハインドで迎えた7回表二死満塁の場面で打席に立ち、マット・ソーントンから走者一掃の逆転適時二塁打を放った。試合はこのまま3-1で終了。ナショナルリーグが14年ぶりの勝利を手にし、決勝打のマッキャンがMVPに選ばれた。シーズンでは、2006年の正捕手定着以来、いずれも自己最低となる打率.269・77打点に終わったが、本塁打を21本放ち、3年連続で20本塁打以上を記録した。はシーズン前半は好調で.310、15本塁打とMVP候補と目されていた。しかし、7月26日のピッツバーグ・パイレーツ戦で盗塁を刺そうとした際にあばらの筋肉を痛めてDL入り。18日後に復帰するも打率が.178と不調に陥ったままシーズンを終えたが、シルバースラッガー賞は4年連続で受賞した。は序盤から右肩の痛みに苦しみ、6月にはジョニー・ベンタースのワンバウンドの投球を膝に受けてじん帯を痛めた。右肩の故障が響き、打撃は不振で、打率、出塁率、長打率、OPSが自己最低の成績となり、オールスター出場やシルバースラッガー賞を逃した。一方守備防御点や盗塁阻止率など、守備に関しては例年通りの成績だった。オフの10月30日にブレーブスが1200万ドルの球団オプションを行使した。は102試合に出場し、20本塁打57打点、打率.256だった。オフの10月31日にFAとなった。11月4日にブレーブスが1410万ドルのクオリファイング・オファーを提示したが、11月11日に拒否した。2013年12月3日にニューヨーク・ヤンキースと総額8500万ドルの5年契約(トレード拒否権と2019年・1500万ドルのベスティング・オプション付き)を結んだ。は、開幕から打率が2割台前半から中盤を推移するなど打撃の調子が上がらず、前半戦は打率.239、本塁打10、出塁率.294、長打率.377と低調な数字で折り返す。8月8日のクリーブランド・インディアンズ戦で、マイク・アビレスのファールボールをマスクに受けた影響で脳震盪を起こし途中交代、試合後に短期DL入りした。8月17日に復帰。後半戦は本塁打13、長打率.453と長打力は盛り返したものの、打率.221、出塁率.274と前半戦よりも更に数字を落とした。この年は最終的にキャリア3番目の140試合に出場、7年連続の20本塁打を記録し、本塁打と打点でチーム二冠であった。その一方で、出塁率・OPSともにキャリア最低を記録するなど、ブレーブス時代と比較しても物足りない数字が並んだシーズンとなった。は135試合に出場し、打率こそ2年連続で.232に留まったものの、いずれも自己最多ないし最多タイとなる26本塁打・94打点という成績を残し、強力打線の一角として存在感を示した。これで、8年連続20本塁打以上を放った事になった。打点の多さからも分かるように、得点圏では.299・OPS0.959と大いに打った。ディフェンス面ではDRSは - 4だったものの、盗塁阻止率36% (リーグ平均は32%) という高数値を記録した。は、シーズン後半戦に若手のゲイリー・サンチェスが台頭してきた事もあり、DHでの出場も増えた。ヤンキース移籍後では最小の130出場に留まり、3シーズンぶりに規定打席未達だったが、移籍後では最高の打率.242を記録したほか、9年連続20本以上となる20本塁打・58打点を記録した。捕手としての守備は、92試合でマスクを被って4失策・守備率.995・DRS - 1・盗塁阻止率23%という悪くない内容だった。打撃では7年連続20本塁打を記録するパワーを持ち、シルバースラッガー賞を4年連続5度獲得している。また、2011年には得点圏OPS.961を記録している。守備では、守備防御点では2008年に+8を記録した以外の年は毎年マイナスで、通算では-11。盗塁阻止率は2010年の30%が最高で通算では24%と決して強肩とは言えず、ゴールドグラブ賞やフィールディング・バイブル・アワードを受賞したことはない。しかしリード面や人格面の評価は高く、トミー・ハンソンは「彼はチームのみんなに気を配っていてよく笑わせるんだ。すばらしいバッター、すばらしいキャッチャー、すばらしいチームメイトが1つのパッケージになっている感じだね」と語っている。
出典:wikipedia
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