1967年東京都知事選挙(1967ねんとうきょうとちじせんきょ)は、1967年4月15日に執行された東京都知事選挙。第6回統一地方選挙の一環として実施された。候補者選定過程で保守・革新陣営共に大きな混乱が見られた。保守陣営は、1965年の黒い霧事件(集団汚職事件)による都議会自主解散後の再選挙で、社会党に第1党の座を奪われ、また公害対策、渇水対策も後手に回り、保守都政の長期化に飽きた都民の反発もあり、厳しい状況に立たされていた。一方で革新陣営も1967年1月の第31回衆議院議員総選挙では伸び悩んでおり、都知事選での挽回を期していた。自民党総裁の佐藤榮作は当初、東都政で筆頭副知事を務めた内務官僚出身の鈴木俊一を推し、社会党内では元総評議長の太田薫が候補として浮上していた。その中で党勢拡大を狙う公明党は、創価学会幹部の阿部憲一を独自に擁立した。反共主義を掲げる民社党委員長の西尾末広は、共産党の都政進出を阻止し、自民・社会と候補者を一本化すべく両党に働き掛け、後に原理運動推進者になる松下正寿を担ぎ出した。民社党からの提案を、1959年都知事選の有田八郎以来となる社共共闘と天秤に掛けた社会党は、攻撃的な太田薫を降ろしてハト派イメージの美濃部亮吉を擁立し、逆に共産・民社両党に反自民の革新統一戦線を呼び掛けた。共産党は、党推薦候補として元衆議院議員の米原昶を擁立する予定だったがそれを取り下げ、社会党の提案を受け入れて美濃部に相乗りした。しかし、民社党は美濃部がマルクス経済学者であるとの理由で、共闘を拒絶した。また社会党も、民社党の推す松下が核兵器禁止平和建設国民会議議長であることを問題視して決裂した。その中で、世論調査の結果、擁立を目論んだ鈴木では勝ち目が薄いと読んだ自民党は、鈴木を降ろして松下を推薦する事にした。この他、3度目の都知事選となる大日本愛国党の赤尾敏や1980年代後半まで反共の精神のもと多くの国政選挙や都知事選に挑戦した深作清次郎が世界連邦創始者を自称する南俊夫が率いる世界連邦日本国民会議から都知事選に初出馬するなど計10候補が出馬した。元報知新聞記者の野々上は松下と親交があり、美濃部に対する減票工作のため立候補したが、『水戸(みのべ)』の通名使用届を東京都選挙管理委員会に却下された。また、前回の都知事選で3候補を擁立するなど過激な選挙闘争を見せた肥後亨グループの残党の一人で「自由民主党友会」公認の渡辺清行は、自由民主党が推薦する松下が無所属で立候補しているため一部の有権者に混乱を生じさせ、松下に対する減票工作を敢行した。10名、五十音順。投票率は67.49%で、前回1963年の67.74%を僅かに下回った(前回比 -0.25%) 。候補者別の得票数の順位、得票数、得票率、惜敗率、供託金没収概況は以下のようになった。供託金欄のうち「没収」とある候補者は、有効投票総数の10%を下回ったため全額没収された。得票率と惜敗率は未発表のため暫定計算とした(小数3位以下四捨五入)。社会党と共産党が推薦する美濃部は「東京に青空を」というキャッチフレーズを掲げ、保守知事の長期化で倦怠した都政からの刷新を訴えた。テレビ出演などで得た知名度を生かし、マスコミからも「美濃部スマイル」の名で好意的に報道された結果、自民党と民社党が推薦する松下や公明党が推薦する阿部らを破り、史上初の革新都知事が誕生した。自民党と民社党が推薦する松下は、保守陣営の人気低下に歯止めをかけられず美濃部の前に敗れ、革新陣営に都政を譲った。公明党が推す阿部は創価学会の基礎票による一定の支持を得たが及ばなかった。尚、公明党は今回の都知事選の阿部以降、2014年現在までに一度も党独自候補を擁立していない。その他の候補では、松下を推す自民党に対する減票工作を敢行した「自由民主党友会」公認の渡辺が全体得票率の1%に迫る4万票以上を獲得し、最上位に進出。一定の成果を得た。
出典:wikipedia
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