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内藤昌豊

内藤 昌豊(ないとう まさとよ)は、戦国時代の武将。武田氏の家臣で武田四天王の一人。「内藤昌豊」の名で伝わるが、1977年に服部治則は正しい実名は「内藤 昌秀(まさひで)」であると指摘している。『武田三代軍記』によれば、大永2年(1522年)、武田信虎の重臣・工藤虎豊(下総守)の次男として生まれたという。父・下総守の事跡は不明であるが、永正5年(1508年)に武田信虎に反乱して敗北し、郡内地方の小山田平三とともに伊豆国韮山の伊勢宗瑞(北条早雲)を頼って逃れた人物に「工藤殿」がおり、これが下総守に相当するとも考えられている。初見史料は永禄2年(1559年)6月12日で、「工藤源左衛門大尉」を名乗り信玄の側近として活動していることが確認される。永禄6年頃から永禄13年頃まで信濃国深志城を守備している。『甲陽軍鑑』によれば、永禄4年(1561年)の第4次川中島の戦いでは本隊に所属し、上杉軍の背後を襲う妻女山別働隊の大将として活躍したという。永禄9年(1566年)までに信濃国深志城(松本城、長野県松本市)の城代を務める。武田氏は西上野侵攻を行い、同年9月に箕輪城(群馬県高崎市箕郷町)を攻略し、永禄10年(1567年)3月に白井城を攻略し、西上野を領国化する。昌秀は永禄9年頃から後閑氏など上野国衆の取次を務めている。箕輪城代は永禄9年から翌永禄10年まで春日虎綱・真田幸綱による在番で、永禄11年(1568年)から永禄12年(1569年)には浅利信種が務めている。浅利信種は永禄12年10月6日の三増峠の戦いにおいて戦死したため、昌秀は信種の後任として永禄13年から元亀元年(1570年)4月頃までに箕輪城代となり、長篠合戦で戦死する天正3年まで務めている。なお、三増峠合戦で昌秀は小荷駄隊を率いて自軍の補給を支えたという。永禄10年8月12日の時点では「工藤源左衛門尉昌秀」を名乗っている。昌秀は永禄12年8月26日の時点で「内藤修理亮」を名乗っており、断絶していた武田家譜代の内藤家の名跡を継承し、内藤姓に改め、同時に修理亮を名乗ったと考えられている(工藤氏の家督は兄・昌祐が継いだ)。昌秀は永禄13年4月3日付武田信玄書状において「内藤修理亮」を称していることが確認され、同月10日には箕輪城代着任が確認される。このため、内藤改姓は箕輪城代就任に伴うものであったとも考えられている。元亀2年(1571年)12月には越後上杉氏から上杉家臣北条高広・景家を通じて同盟の申し出があり、このころ武田氏は北条氏政と甲相同盟を結んでいたため、昌秀は信玄側近の跡部勝資と協議し、これを退けている元亀4年(1573年)4月に信玄が死去した後は、子の勝頼に仕えた。天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いでは、原昌胤・山県昌景とともに左翼に配置され、西上野国衆を相備にしていたと考えられている。『甲陽軍鑑』によれば内藤隊は織田軍本隊と戦い、また『本多家武功聞書』によれば本多忠勝と戦ったとしているが、不明。『甲陽軍鑑』によれば、武田勢が敗退する中、昌秀は馬場信春とともに勝頼を戦場から逃すため踏みとどまり、徳川家臣・朝比奈弥太郎により討ち取られたという。享年54。なお、小山田多門書伝平姓小山田氏系図写・『甲乱記』によれば昌秀は長篠合戦以前に「大和守」に改称していることが確認される。死後、内藤昌月が家督を継いだ。実子説もあるが、一方では昌月(千次郎)は保科正俊の三男で養子であるとも。内藤昌弘(- まさひろ)という次男もいたらしいが、詳しい功績は伝わっていない。

出典:wikipedia

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