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下北弁

下北弁(しもきたべん)は、青森県下北半島の大部分の地域(むつ市、下北郡、上北郡の横浜町、野辺地町北部)で話される日本語の方言である。東北方言の一つで、北奥羽方言に属す。下北弁のアクセントは南部弁(特に上北方言)に類似する。単語は南部弁と共通するもの、津軽弁と共通するもの、青森県の方言全体に共通するもの、下北弁固有のものがある。音韻の特徴は北奥方言に共通する。特徴としては、待遇表現や丁寧な文末表現があること、一人称に「おら」をあまり用いないことなどがある(昭和初期までは使っていたようである)下北弁には南部弁や津軽弁と共通する語も多く存在するが、下北弁特有の言葉もある。下北弁には日本の他地域と共通する方言単語がある。1744年(延享元年)11月14日、千石船多賀丸(1,200石)が佐井湊(下北郡佐井村)を出航した。佐井湊を出たのち、多賀丸は大畑湊(むつ市大畑町)に立ち寄り、大豆・昆布・鰯糟などを積み込んで江戸に向かった。航海の途中、不運なことに多賀丸は暴風に遭って難破した。難破した多賀丸は漂流し、翌1745年(延享2年)4月13日、多賀丸は千島列島の温禰古丹島に漂着した。多賀丸の乗組員17名の大部分が下北半島の出身であった。温禰古丹島に漂着時には、すでに6名が死亡しており、次いで多賀丸船主の竹内(伊勢屋)徳兵衛も亡くなった。残りの10名はカムチャツカ半島に送られた。10名は厚遇された上にロシア名までもらった。この内の3名は現在の岩手県宮古市の出身であったという。日本人漂着の報を聞きつけたロシア政府は、この中から優秀な者5人を選び、首都ペテルブルクに招き、日本語学校の教師にした。やがて彼らはペテルブルクにてロシア人と結婚し、家庭を築いたが、1754年(宝暦4年)に日本語学校イルクーツク移転にともない、彼らもまた移動を余儀なくされた。このとき、イルクーツクでロシアで初の「露日辞典」が編集された。編集にたずさわったのは、日本語教師となった多賀丸の船乗りたちであった。その日本語は、下北や宮古のことばであった。1792年にロシアの通商アダム・ラクスマンが根室にやってきたが、このとき通事たちが携帯してきた辞書はこの「露日辞典」だったといわれる。下北地方を舞台にしているにもかかわらず、下北弁の方言指導がついた作品は数少ない。どういうわけか津軽弁や南部弁の方言指導が付けられることも多々ある。以下の作品は下北弁の方言指導がつけられた作品である。

出典:wikipedia

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