木曾 義康(きそ よしやす、1514年(永正11年) - 1579年(天正7年))は、戦国時代の武将。信濃国南部の国衆である木曾氏の当主。義在の子。官位は中務大輔。子に義昌、上松義豊、岩姫らがいる。1542年(天文11年)頃に家督を継承していると考えられている。天文10年代に甲斐国守護の武田晴信(信玄)は信濃侵攻を本格化し、天文22年(1553年)には北信国衆の村上義清を駆逐し東信濃・中信濃を確保した。翌天文23年には南信濃への侵攻を行い、知久氏や下条氏を傘下に収めて伊那郡を制圧し、美濃国境に近い義康もこの頃に出仕している(『勝山記』による。なお、信玄の木曽侵攻を弘治元年とする説もある)。天文23年の南信侵攻においては東美濃恵那郡の国衆遠山氏も武田氏に帰属しており、美濃斎藤氏との関係悪化を招く。しかし、1555年(弘治元年)には斎藤道三・織田信長による遠山領侵攻が行われ武田氏は援軍派兵・和睦交渉を行っており、義康は東美濃の情勢を信玄に伝えている。その後は子の義昌の妻に信玄の娘(真理姫)を迎えるなど武田家の親族衆として義昌とともに、1560年(永禄3年)には飛騨の三木氏を撃退するなどの活躍をしている。永禄8年10月には木曽一族が木曽黒澤若宮八幡神社に三十六歌仙板絵を奉納しており、義康は「宗春」の名で、当主の義昌に次ぐ三枚を寄進している。
出典:wikipedia
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