日窒コンツェルン(にっちつコンツェルン)は、野口遵によって設立された、日本窒素肥料(日窒・現在のチッソ:事業会社としてはJNC)を中心とする財閥である。15大財閥の1つ。1906年野口遵が曾木電気株式会社創立。1908年日本カーバイド商会と合併し、日本窒素肥料を設立。石灰窒素・硫安の製造に成功し拡大した。その後、人絹工業、合成アンモニアの製造にも成功。朝鮮にも進出し巨大化。工業中心の財閥を形成。設立者の苗字を取って「野口財閥」とも呼ばれていた。第二次世界大戦の敗北により、総資産の90%近くを失い、戦後の財閥解体により日窒コンツェルンは解散した。大学を卒業した野口は、福島県郡山絹糸紡績会社の技師長として水力発電事業に取組んだ。次に、シーメンス東京事務所に移ると、同じく水力電気事業のコンサルタント、エンジニアリング、電力利用設備のマーケティングを経験した。1906年独立して曾木電気を興すと、鹿児島県川内川に出力880kWの水力発電所を建設した。また熊本県水俣まで送電して、45人の小工場ながら藤山常一と日本カーバイド商会を設立した。野口はこれを石灰窒素肥料の一貫生産とすべく、シーメンス社の前東京支社長、ケイラーの尽力を受け、1908年イタリアで石灰窒素製造特許の保有会社シアナミド社(シーメンスの子会社)から日本国内での製造権を譲り受けた。またベルリンでは発明者の博士から種々の伝授を受けた。特許権を手にした野口は、曾木電気と日本カーバイド商会を合併、日本窒素肥料株式会社を設立した。出資の関係から大阪商船社長の中橋徳五郎が会長となり、野口は専務取締役、藤山常一は常務取締役となった。日窒コンツェルンは、この日本窒素肥料を中心に発展を遂げることになる。当初の石灰窒素事業は必ずしも順調ではなく、藤山が世界で初めて連続的生産方法を開発したものの、製品の窒素含有量が少ないなど技術的課題があった。工場で製造を指導していたのは藤山であったが、創業間もない企業として製品化を急いでいたこともあり、野口は藤山を押しのけ悪戦苦闘の末に最初の製品を作り上げた。しかしこのことで藤山は日本窒素肥料を去り、三井の資本で電気化学工業を設立し強力な競争相手となった。1914年の第一次世界大戦の影響で、それまで日本市場の過半を占めていたイギリスからの硫安の輸入が途絶し、硫安の市場価格は3倍近くに急騰し、高値は1918年まで続いた。日本窒素肥料は国内原料と自家発電を利用していたため生産費の上昇がなく、大戦中に大きな利益を上げた。得られた資金を原資に事業拡大を考えていた野口は、戦争が終結したヨーロッパに1921年赴き、ドイツのグランツシュトフ社のビスコース人造絹糸技術、イタリアで最新の法アンモニア合成技術の導入を決めた。この二つの技術を実現するために、ベンベルグ絹糸製造の旭絹織物、アンモニア合成の延岡工場が建設された(いずれも現在の旭化成の前身)。人絹糸を処理するときに得られるニトロセルロースは綿火薬の原料であり、平和産業から戦時産業へ転換可能な製品である。またカザレー式アンモニア合成法の導入により、森矗昶の昭和肥料(現・昭和電工)と激しく競争しながら日窒は国内総生産高の多くを占めるにいたった。野口は水俣工場、延岡工場を拡張しながら、更に朝鮮でも大規模硫安製造業の建設を行った。1925年6月、朝鮮総督府から蓋馬高原の鴨緑江支流の赴戦江の水利権を得て、20万kWの赴戦江発電所を建設した。これにより1926年1月に朝鮮水電株式会社、翌1927年5月には、朝鮮窒素肥料株式会社が設立された。1933年5月には長津江、1937年1月には虚川江の電源開発に着手、合計12箇所の発電所で87万kWの電源を確保した。これら蓋馬高原に建設したダムによる大電力を利用して、ダム群の日本海側にあたる咸鏡南道咸興郡には興南、永安、本宮の3工場が建設された。これらの工場では主に合成アンモニアを原料にした硫安、硫燐安などの肥料が製造されたが、他にも油脂、石炭低温乾留、アルカリ、カーバイド、火薬、金属精錬など多角的な化学工業が展開された。興南地区には、朝鮮窒素肥料など10社を超える子会社、関連会社が設立され、面積は1980万m、従業員は4万5千人、家族を含めた総人口は18万人に達していた。設備能力では水電解設備は世界第1位、硫安は年産能力50万tで世界第3位と、世界屈指の化学コンビナートに成長した。これらの事業の中心は水俣の本社工場とともに、朝鮮の興南地区に置かれた。更なる事業の拡大のため、豊富な水源を有する鴨緑江本流の電源開発に取り掛かり、満州国政府、朝鮮総督府との共通事業として、七つのダムによる165万kWの発電計画を策定した。1937年8月には水豊発電所の建設に着手したが、堰堤900m、高さ106m、貯水湖の広さ345kmと、霞ヶ浦の2倍、人造湖としては当時世界第2位の規模であった。水豊発電所の70万kW設備は1944年には殆ど完成していたが、第2期70万kWの設備は工事半ばにして敗戦を迎えた。鴨緑江の電源開発と平行して、朝鮮の灰岩工場で石炭直接液化によるガソリン・エタノール、興南地区の竜興工場で航空機燃料のイソオクタン、水豊ダム下流の青水工場でカーバイド、アセチレンブラック、南山工場で合成ゴム、吉林では人造石油の製造にも取り組みが続いた。これらの他にも、中国の華北、台湾、海南島、スマトラ、ジャワ、マレー半島、シンガポールなどでも製造・電源開発・鉱石採掘などの事業を試みたが、いずれも1945年の敗戦により事業半ばに終わった。主要拠点である朝鮮の資産など、全財産の8割を喪失し、GHQの財閥解体令を待たずに日窒コンツェルンは実質的に瓦解した。野口が日窒コンツェルンを成長させた手法にはいくつかの特徴があった。一つ目は、当時の先進技術を活用したことである。当時最新の化学工業技術を特許と共にヨーロッパから導入した。当時の野口は希少な知識を有する技術者であった(当時東京帝国大学電気工学科の卒業生は1~4人、野口の年次に初めて10人を越す在籍者となった)。また事業確立のためフランク・カローの特許を入手する際には、三井、古河などの既存大財閥との競争になったが、シーメンスに勤めた人脈を最大限に活用できたことも大きかった。シーメンスとの友好関係はその後も変わらず、ドイツからの技術導入とシーメンスの日本での発電事業・電力応用設備市場拡大の相互依存関係を続けた。二つ目は、電気化学の工業化事業モデルを確立したことである。電気化学では、ダム建設による水力発電により電力を確保し、大量に供給される電力を利用して電気化学工場で肥料、火薬を製造する。電力が安いほど競争力が得られることから、大規模化のメリットを享受しやすい構造を有しており、朝鮮半島北部の豊富な水資源、特に鴨緑江に注目して朝鮮へ進出することで、装置産業としての効率を上げることができた。三つ目は、政商としての側面である。窒素肥料は近代化の遅れた日本の農村ではあまり需要は伸びず、日露戦争の反動不況から経営危機に直面したが、第一次世界大戦の勃発により火薬の原料となる硫安、チリ硝石の需要急増で大きな利益を得ることができた。また当時朝鮮総督の宇垣一成や軍関係者は朝鮮半島の軍事工業基地化を目指しており、日窒には好意的であり、様々な融資を引き出すことができた。更に水豊ダム建設などの巨大プロジェクトにおいては、満州国政府、朝鮮総督府との国策的な共同事業として事業資金についても便宜が図られるなどした。
出典:wikipedia
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