LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

尼子十勇士

尼子十勇士(あまごじゅうゆうし)は、戦国大名尼子氏滅亡後に尼子氏の復興に勤めたとされる10人の勇士である。この10人は、尼子晴久が部下4万人余りの中から選び出した勇力の優れた人物という。山中鹿之助(山中幸盛)を筆頭とするが、その構成員は幸盛を除けば不定であり、時代によっても異なる。また、名前の最後に皆「介(助)」が付くことから「尼子十勇十介」ともいう。尼子十勇士は、明治時代に立川文庫から発刊された『武士道精華 山中鹿之助』によって有名になったが、立川文庫の創作ではない。それ以前から、その存在は知られていた。しかしながら、幸盛が活躍していた当時の史料には「尼子十勇士」の名称は見られない。十勇士の存在がいつ頃から信じられえていたか定かでないが、史料に初めて出てくるのは、延宝5年(1677年)に発行された『後太平記』である。ただし、十勇士と明記されている人物は、五月早苗介(助)、寺元生死助、横道兵庫介、山中鹿之助幸盛の4人だけであり、その他の人物が十勇士であったかどうかは判断できない。十勇士すべての名が史料に出てくるのは、享保2年(1717年)に刊行された『和漢音釈 書言字考節用集』である。この書は、日常語の用字、語釈、語源などを示した、いわゆる国語辞典のようなものである。そのため、この時代に「尼子十勇士」という名称が一般的に通用するものであったことが分かる。正徳3年(1713年)10月、松山藩士であった前田市之進時棟と佐々木軍六が、幸盛の死を哀れみ建立した墓碑にも「尼子十勇」の文字が刻まれている。明和4年(1767年)に湯浅常山が発行した戦国武将の逸話集、『常山紀談 』にも10名の勇士の名が連ねてある。しかし、これら史料は、幸盛以外の人物の記載は乏しく、十勇士の面々がどういった性格で、どんな活躍をしたか等を知ることができなかった。十勇士の人物像について始めて具体的に記述された史料は、文化8年(1811年) - 文政4年(1821年)にかけて刊行された『絵本更科草紙』である。この書は、幸盛の母である更科姫と、尼子十勇士による活躍を描いた物語である。書と共にこの話は全国的に広まったようであり、この後には、十勇士を題材にした浮世絵の描画や歌舞伎の上演、また十勇士が描かれた絵馬が神社に奉納されるなど、世間一般にこの話が浸透していったことが分かる。明治時代に入ると、先の『絵本更科草紙』と同じ内容で、表題を『尼子十勇士伝』とした書が刊行される。明治44年(1911年)12月、『絵本更科草紙』の内容を簡略化し、大衆向けに噛み砕いた文で表した書、『武士道精華 山中鹿之助』が立川文庫より発行されると、尼子十勇士の名は一躍有名になる。昭和26年(1951年)には『大百科事典』にも掲載された。現在は、『広辞苑』にもその項目がある。尼子十勇士の構成員は、山中幸盛を除けば不定であり、時代によっても異なる。構成員の名前はすべて駄洒落じみたものとなっており、その実在性が疑問視されていた。しかし、自ら著した書状等が現存しており、実在することが確実な人物もいる。また、十勇士が活躍していた当時の資料にその名が確認でき、存在の可能性を否定できない人物もいる。次の3名は、自ら著した書状等が現存しており、実在することが確実な人物である。現存する当時の書状等では存在が確認できないが、軍記史料や江戸時代初期の書状等にその名が記載され、実在の可能性がある人物もいる。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。