羽柴 秀勝(はしば ひでかつ、生年不詳 - 天正4年10月14日(1576年11月4日))は、安土桃山時代の人物。羽柴秀吉が、近江長浜城主時代にもうけた子で、幼名は石松丸(いしまつまる)または石松。他の秀勝と区別するため、史家は便宜上これを石松丸秀勝(または石松秀勝)と呼ぶことがある。秀吉が長浜城主時代にもうけた初めての男児であったという伝承がある。生母には諸説あるが、いずれの場合も側室で、秀勝は庶長子である。「秀勝」の初名は、羽柴氏の由来と同じく、織田家の宿老の丹羽長秀と柴田勝家の両名の偏諱を受けたものであると考えられているが、同様に史料的裏付けはない。秀吉は後になって、養子とした織田信長の四男や三好吉房の次男にも同じ名を付けた。長浜に今も伝わる曳山祭は、天正2年(1574年)に秀吉に男児が誕生したのを祝って始められたとの伝承がある。宝厳寺の「竹生島奉加帳」には「御内方」(正室の寧々)、「大方殿」(母の仲)に続いて「石松丸」、「南殿」の名が記されており、これは秀吉の子とその母である側室を記したものであると推定され、桑田忠親はゆえに生母は側室南殿と推測しているが、服部英雄は側室にしては寄進額がだいぶ少ないし、まして石松丸母なる説には何も根拠がないと反論する。一方、妙法寺寺伝には生母は松の丸殿(京極竜子)であると書かれているが、彼女が秀吉の側室となったのは天正11年(1583年)頃であり、天正2年(1574年)に秀勝を生んだという内容は、側室となったと推定される時期とかなりの齟齬があり、当時はまだ夫である武田元明が生きていたはずである。木下勝俊と木下利房にも、元明と竜子の子であるという奇説があるが、併せて信憑性には問題がある。また異説として、浅井家祐筆(京極氏の家臣ともいう)だった石田長楽庵の美貌の娘で秀吉の側室になった於葉の方 が生母とも言う。於葉の方は、強引に側室にされる前は石田佐吉(後の三成)の許嫁であり、長浜城主である秀吉に鷹狩りの帰りに伊吹山の観音寺へ立ち寄るように仕向けて、石田佐吉を引き会わせ「三杯の茶(三献茶)」のエピソードが生まれたが、一年足らずで秀勝が死ぬと後を追って琵琶湖に入水したと言う。ただし後者2説共に傍証となるようなものは一切なく、一種の伝承に過ぎない。近江坂田郡長浜町字片町(現滋賀県長浜市)の妙法寺には羽柴秀勝像とされる稚児姿の六、七の男児を描いた肖像画が所蔵されていた。これは焼失し現存していないが、法要用の掛け軸「本光院朝覚居士絵像」の写真が多数残っている。他にも天正4年10月14日の銘文と法名「朝覚霊位」と記された供養塔が残っている。同市の曹洞宗興福山徳勝寺には位牌があり、法名は「本光院朝覚居士」となっている。同地の天台宗寶生山知善院には、天正4年10月14日秀吉の子秀勝が早世した故に、同月22日に仏供料として伊香郡井之口にて30石の寺領が与えられたという寺伝記録がある。平成14年(2002年)、墓所を移築した際に発掘調査があり、安土桃山時代初期大名様式の「石囲い箱棺墓」が出土した。埋葬者はわかっていないが、羽柴秀勝の墓の伝承があった場所からの発見であり、その可能性もあるとされる。新たな墓の発見によって、前述の石造笠塔婆(題目式笠塔婆)も併せて市指定文化財とされた。これらの傍証があるにも関わらず秀勝の実在を疑問視する声(非実在説)は残っているが、考証的見地からは「秀勝」という人物が天正4年(1576年)に亡くなったということは事実と推認できる。秀勝が秀吉の子として葬られていることも確かであろう。しかし秀勝が秀吉の最初の子であると推定するにしても、最初の実子であったかは疑問であるという意見もあり、根拠とする史料は前述の推定以外には存在しないためにこれを明らかにすることはできないという問題がある。妙法寺は秀吉の姉日秀尼が開基となった瑞龍寺と深い関係にあり、両寺は共に日蓮宗であることから、本光院朝覚居士は日秀尼の子で、秀次などと兄弟で、同様に秀吉の養子になったという推論も成り立つと言う説(渡辺の説)もある。史家の意見は分かれており、前述の説を述べた渡辺世祐は「実子であるか、あるいは養子であるかは不明だが、太閤の子であったことは事実である」とする不明の立場を取るが、桑田忠親は実子説を主張し、小和田哲男はその桑田説の影響を受けて実子説を支持する。これに対して福田千鶴は実子説は確証がないと疑問視し、太田浩司は「桑田説は全くのツジツマ合わせで、秀吉研究の第一人者には失礼であるが、歴史学の論証としては成立しない」と非実子説をとる。服部英雄はその太田説を支持し「まったくそのとおりであろう」と非実子説を唱える。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。