常願寺川(じょうがんじがわ)は、富山県富山市および中新川郡立山町を流れ富山湾に注ぐ一級河川。古くは新川(にいかわ)と呼ばれ、新川郡の名の由来ともなっている。大森川(おおもりがわ)とも呼ばれた。富山県富山市南東部の立山連峰に源を発する。中新川郡立山町との境界に沿って北西に流れ、富山市高来と富山市水橋辻ケ堂の境界で富山湾に注ぐ。約3000mの標高差に対し、川の延長は僅か56kmという、世界でも有数の急流河川である。明治時代、常願寺川の改修工事のために政府から派遣されたオランダ人の技師のヨハニス・デ・レーケが、「これは川ではない。滝である」と言ったと伝えられている。この言葉は、実際には「とても急流だ」というような意味のことを言ったのが誇張されて(または誤訳されて)報告されたものであるが、常願寺川の急流の凄さを表現する言葉としてよく引用されている。この誤訳については諸説あるが、滝の存在が流速を低減する効果があることから上流部の滝を見て「滝があって良かった」と言ったのが実際のところである、という説が有力である。流域では昔から水害に悩まされてきた。さらに、江戸時代の末期に上流部の支流である和田川の流域の立山カルデラで、大規模な崩落が発生した。そのため、下流域は大量の土砂によって埋め尽くされ、川は石の多い地下を流れ、あまり表には見えてこない。しかし集中豪雨ともなれば、様相がうって変わって手の付けられない暴れ川となる。その証拠に、川沿いに大小の石が点々と残っている。水田近くに点在する重さ数トンもある巨大な石は『転石』と呼ばれ、140年前に起こった安政の大洪水によって運ばれた。古文書によれば「こんな巨石が川底の石とぶつかり、火花を散らしながら流れてきた」という。また、立山カルデラは、脆い地盤のため、時々小規模の落石が起こる。以来、砂防工事が現在まで続けられている。1906年から県営事業として行われていたが、県だけでは十分な工事が行えないため、1926年からは国の直轄事業として行われている。立山カルデラにたまった土砂は約2億立方メートルで、全て流れ出すと富山平野の全体が平均2mの土砂で覆われると推測されている(白岩砂防堰堤)。「常願寺川」の由来は、上流にある寺の名前や地名など複数の説が存在するが、人々が氾濫が起きないよう常に願っていた気持ちもこめられているのではないかという考え方もある。明治時代の廃藩置県の際に、一度は旧越中国の全域が石川県に編入された際に旧越中国の住民から分県運動が起こり、その結果、再び富山県に分離されるに至った背景には、この常願寺川などの災害に対して、旧加賀国・能登国と旧越中国との間での意識の隔たりが大きかった事が大きな要因とされる。富山県の七大河川(黒部川、片貝川、早月川、常願寺川、神通川、庄川、小矢部川)の一。
出典:wikipedia
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