谷沢 健一(やざわ けんいち、1947年9月22日 - )は、千葉県東葛飾郡柏町(現:柏市)出身の元プロ野球選手。現在は野球解説者。左投左打、主なポジションは一塁手、左翼手。現役時代は中日ドラゴンズで17年間主軸打者として活躍し、引退後はフジテレビ・東海テレビ・東海ラジオの解説者、西武ライオンズの打撃コーチを歴任した。千葉県の習志野市立習志野高等学校では2年生からレギュラーとなり、控え投手もこなす。2年生のときには、津田沼から谷津遊園の区間で東京オリンピックの聖火ランナーを務めている。また、公開競技としておこなわれたオリンピックの野球(大学選抜チーム)の日本対アメリカ戦を神宮球場で観戦した。3年生時の1965年、夏の甲子園予選東関東大会の県予選準決勝に進出するが、銚子商の木樽正明投手に完封され大敗。甲子園出場はならなかった。銚子商は甲子園で準優勝。高校同期に阪急入りした斎藤喜内野手がいる。一般入試で早稲田大学第二文学部社会専修に入学。東京六大学リーグでは、レギュラーに定着した2年生の1967年春季リーグで首位打者を獲得するなど、東京六大学を代表する左の強打者として活躍。1968年秋季リーグでは田淵幸一らのいた法大に競り勝ち優勝。第7回、第8回アジア野球選手権大会の日本代表に選出されている。史上屈指の打者と言われた師匠石井藤吉郎をして「俺が見た中で早大史上最高の左打者」とまで言わしめた(石井も左打者だった)。六大学打撃10傑の常連で大学通算打率.360を記録、ベストナインに6度選ばれた。同期の荒川尭遊撃手とのコンビは“早稲田のON砲”と呼ばれたが、その名にふさわしく両者合計37本の本塁打を放った。4年時には主将。リーグ通算82試合に出場し308打数111安打、18本塁打、63打点、打率.360。1970年3月、早稲田大学第二文学部社会専修卒業、学位は、文学士。1969年のドラフト1位で中日ドラゴンズに外野手として入団(背番号:14)。意中の球団は巨人であったが、石井に相談したところ「セの球団だし行ってはどうか」とアドバイスを受けた。この年、早稲田大学からは大洋ホエールズに荒川尭、読売ジャイアンツに小坂敏彦投手、阿野鉱二捕手が入団。その後も千藤三樹男外野手、安田猛投手、小田義人一塁手と同期のプロ入りが続き、最終的には谷沢を含め同期計7人がプロ選手となった。1年目からレフトのレギュラーとなり新人王に輝く。1973年からは主に一塁を守るようになった。巧打の中距離打者として活躍し、1974年の巨人のリーグ10連覇を阻止するチームのリーグ優勝に大きく貢献。1976年にイメージチェンジの発想により、背番号を14(いいよ)→41(よい)に変更。この年打率.355(正確には.35483)で首位打者を獲得。この首位打者は先に日程を終了していた張本勲(打率.35477)を驚異的な追い上げで逆転したもので、その差.00006(6糸)は2位との差としては最も小さい記録である。しかし、1978年頃から大学時代からの持病のアキレス腱痛が悪化しシーズン途中で二軍落ち。有効な治療法が無く選手生命が危ぶまれたが、酒マッサージの創始者の小山田秀雄に出会い、日本酒を患部に塗ってマッサージする療法に出会って治療を続け、ついには回復する(後述)。ヤクルトが初優勝を決めた1978年10月4日の試合では9回に併殺打を打ちこの試合の最後の打者となっている。1979年9月23日対横浜大洋ホエールズ戦(ナゴヤ球場)の7回に代打で登場してファンの大声援を浴びヒットを放って谷沢健在をアピールした。そして翌1980年には打率.369の高打率で2度目の首位打者、カムバック賞を受賞して見事復活を遂げた。ただしこの年チームは谷沢の活躍にもかかわらず最下位に低迷し勝率は.372だった。その後1981年にはプロ野球タイ記録となる4打席連続本塁打を放ち、1982年の優勝に4番として貢献。1984年には打率.329、本塁打34本、99打点を記録。1985年10月23日に対広島戦(広島市民球場)で2000安打を達成し名球会入り(後に退会)。1986年シーズン終了後に39歳で引退。翌年1987年のオープン戦に引退試合を行い本塁打を放った。既に解説者に転進しており選手としての調整ができず、引退試合でも打席に立つ時以外は解説者も務めていた。引退の理由として、監督に就任した星野仙一(1986年オフ当時)の「監督谷沢は選手谷沢を使えるか?」という発言が決めの一手となったと引退記者会見で述べている(記者会見の様子はNHK特集「監督 星野仙一」にて放送された)。1989年に早稲田大学大隈講堂で習志野高の後輩である掛布雅之(元・阪神)と講演会を行った際には引退が早すぎたかとの質問に答えて「自分でも後一年くらいはやれたと思うが監督の意向が入っており仕方がなかった」と語っている。1年先輩の星野とは現役時代から大の不仲であり、ふたりだけの2ショットシーンは一度もなかった。リーグ優勝は現役選手としては1974年と1982年の2度、コーチとしては西武時代の1994年に1度の合計3度経験しているが、日本シリーズはいずれも2勝4敗で敗れている。1987年から1993年までフジテレビ、ニッポン放送解説者、また1988年から1989年まではプロ野球ニュースの週末キャスターを務める。1994年から1995年の2年間、森祇晶監督、東尾修監督の下で西武ライオンズ二軍打撃コーチ、一軍打撃コーチを歴任。その後はフジテレビ・東海テレビ(J SPORTSで放映されるTHK制作の中継の解説も担当)・東海ラジオ解説者、東京中日スポーツ評論家となり現在に至る。1998年4月、早稲田大学大学院アジア太平洋研究科に入学。国際経営学を専攻し、国際的視野からのプロ野球球団経営のあり方を研究、修士論文を提出し、修士号を取得した。現在は、早稲田大学客員教授として、体育実技/硬式野球とスポーツ論を担当している。ちなみに、体育実技/軟式野球の担当は應武篤良早大野球部監督(当時)である。なお、日本ティーボール協会副会長として、ティーボールの普及にも長年、尽くしている。2004年より社会人野球のクラブチームである西多摩倶楽部(東京都あきる野市)の監督を務め、楽天の育成選手となった金森久朋らを育てたが、2005年のシーズンを最後に退任。同年9月に、「谷沢野球コミュニティ千葉」(YBC)を設立し、理事長に就任した(2007年にNPO法人格を取得)。故郷の千葉県柏市を本拠地として社会人野球のクラブチーム「YBCフェニーズ」を結成し、2007年のクラブ選手権では南関東大会準決勝に進出した。同チームはクラブチームながら三軍制という特異な形態である。また、2009年5月に三重スリーアローズ(2010年発足、2011年解散)のアドバイザーツーオーナー(ATO)という役職に就任することが発表された。谷沢のブログによると、この役職はYBCフェニーズ監督でもある谷沢の立場上の制約に伴うもので、三重の選手やコーチに対する指導、選手の入退団に関する事項への関与をしないという前提で日本野球連盟に認められた。2010年11月からは東京大学運動会硬式野球部の臨時コーチに就任した。早稲田大学野球部の頃からアキレス腱に痛みを抱えていたが、その都度痛み止めを注射して痛みをごまかしてきた。アキレス腱痛を庇う走り方もしてきたため足の甲や踵も変形していった。だが、1978年頃ついに庇いきれないほど悪化し、二軍落ちを味わう。そして、30近い療法を試すもどれもうまくいかず失意に喘いだ。そんな折に、半身不随だった自分の母親が九州のある医者のマッサージを受けて回復したというある中日ファンから、電話で何度も熱心にその治療法を推薦された。この熱意に折れて、谷沢はその医者を訪ねることにした。その医者は酒マッサージの創始者の小山田秀雄だった。小山田はかつて西鉄ライオンズでトレーナーとして従事し、連投を重ねた稲尾和久の肩を酒マッサージしてケアした経験があった。小山田に実際に会い、酒マッサージについて聞かされた時は、最初は酒でマッサージという概念が全く信じられずにいたが、熱心に小山田に誘われて治療を受けることにした。日本酒をたっぷり注いだ風呂に入り、念入りにアキレス腱をマッサージするというものだが、その際に使われる日本酒は当時の日本酒級別制度の定めた二級酒であった。一級酒や特級酒は「飲むのにはいいが、マッサージの時に患部に塗るとベタベタするから」というのがその理由である。こうしたマッサージでアキレス腱痛を克服してレギュラーにカムバックし、1980年には.369で自身二度目の首位打者のタイトルを獲得、1982年にはリーグ優勝を経験するなど、1986年に引退するまで第一線で活躍し続けた。また谷沢の体験は娘に影響を与え、彼女は東京、名古屋、広島で酒マッサージ師として活躍している。
出典:wikipedia
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