加藤 博一(かとう ひろかず、1951年10月9日 - 2008年1月21日)は、佐賀県多久市出身の元プロ野球選手(外野手)・解説者・タレント。多久工業時代は足の速さを買われ、地元の駅伝大会に陸上部の助っ人として出場した事がある。打撃練習時には隣接する多久警察署に打球が何度も飛んでいったためにネットが増設され、通称「加藤ネット」といわれた。卒業後は国士舘大学や社会人野球チームからも勧誘されていたが、1970年に西鉄ライオンズへテスト入団。伊藤光四郎二軍打撃コーチに「お前のバッティングでは飯が食えん、左で打て!」と言われ、スイッチヒッターに転向。当時の給料は5万円であったため、オフシーズンになると靴の配送・飲食店の厨房・鮮魚店勤務などアルバイトをして生計を立てた。1974年には打率.359でウエスタン・リーグの首位打者に輝く。公式戦出場は1972年の3試合にとどまり、6年間でわずか1打席しかチャンスを貰えなかった。1976年に鈴木照雄・五月女豊(後述する大洋時代に同僚となる)との2対2の交換トレードで、片岡新之介と共に阪神タイガースへ移籍。移籍後も二軍暮らしが続いたが、1976年・1977年と2年連続でウエスタン・リーグの盗塁王を獲得。1977年オフの納会ではピンク・レディーの形態模写をやってチームメイトの人気を集める。1979年からは「つちのこバット」を使用するようになり、阪神と因縁のある江川卓に強い男として売り出した。プロ入り後の初本塁打も甲子園初登板の江川から打ったものであり、1980年も含めて江川から3本の本塁打を放っている。1980年には一気にレギュラーに定着。打率.314で打率ベストテンの5位に入ると共に、高橋慶彦(広島)と盗塁王争いを演じ、阪神から1956年(吉田義男)以来の盗塁王誕生かと思われたが、高橋の38盗塁に及ばず34盗塁でタイトルを逃した(阪神の盗塁王はその後世紀を超えて赤星憲広が出現するまで誕生しなかった。また、当時の甲子園の土は盗塁に不利と言われていた)。1981年オフのファン感謝デーでは福間納や似鳥功(打撃投手)と共にイモ欽トリオの形態模写を披露し、阪神ファンの人気を不動のものとする。1983年に野村収との交換トレードで横浜大洋ホエールズへ移籍。2番打者に定着し、1985年には近藤貞雄監督の下、高木豊、屋鋪要と「スーパーカートリオ」を結成。3人で3ケタの148盗塁を記録し、個人では48盗塁とリーグトップの39犠打を記録した。1986年には17年目で初のオールスター出場を果たす。この頃に左打ち一本に絞った。目立った数字は残せなかったものの、そのキャラクターでファンや選手に親しまれ、1990年まで21年間の現役生活を送った。現役時代から「面白いキャラクターの野球選手」として有名で、プロ野球界オフの主役として『プロ野球ニュース』などにたびたび登場していた。大洋時代に同じ阪神OBである江本孟紀も出演するテレビ番組で「第2の江本孟紀を目指す」と繰り返し、江本がテレて苦笑する中で阪神時代から旧知の島田紳助に「加藤さんの場合は、江本さんではなく第2の板東(英二)さん!」と芸人としてのツッコミを受けたことがある。現役引退後はフジテレビの野球解説者を務めたが、2006年に肺ガンと診断されてからは治療の為入退院を繰り返し、2007年2月には左肺を摘出していた。いったんは回復し、『すぽると!』や『CSプロ野球ニュース』などで再びキャスターなどとして活躍していたが、左足大腿骨にガンが転移。その後容態が悪化し、2008年1月21日午後0時54分、肺ガンの為横須賀市内の病院で死去。。法名は釋博仁。2008年4月12日の横浜vs阪神戦(横浜スタジアム)は、「加藤博一氏追悼試合」として開催され、追悼セレモニーなどを執り行った。
出典:wikipedia
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