『歎異抄』(たんにしょう)は、鎌倉時代後期に書かれた日本の仏教書である。作者は、親鸞に師事した唯円とされる。書名は、その内容が親鸞滅後に浄土真宗の教団内に湧き上がった異義・異端を嘆いたものである。『歎異鈔』とも。作者については現在では唯円著作説を定説とする。他説として、如信説・覚如説がある。本項も、唯円の作によるものとして記述する。如信説については、香月院深励が提唱。論拠は、覚如がまとめたとされる『口伝抄』などの書物に、親鸞より如信に口伝が行われ、更に覚如がそれを授けられたとあることによる。唯円説については、主に妙音院了祥が提唱。論拠は、唯円の名が作中に出て、会話の表現があることや、本文の記述からして、親鸞在世中の弟子であること、東国門徒(関東の浄土真宗信者)であることなどによる。本書の内容は、「善鸞事件」の後に作者が親鸞より直接聞いた話による。親鸞の死後も、法然から親鸞へと伝えられた真宗の教え(専修念仏)とは、異なる教義を説く者が後を絶たなかった。唯円は、それらの異義は親鸞の教えを無視したものであると嘆き、文をしたためたのである。これに、唯円が覚如に親鸞の教えを教授したこと、『口伝抄』に『歎異抄』と類似した文が含まれることなどから、本書は覚如の要請によって書かれたのではないか、とされている。編集された時期については、親鸞が死してより30年の後(鎌倉時代後期、西暦1300年前後)と考えられている。本書は、成立から約200年の間ほとんど知られて来なかった。しかし室町時代に蓮如が注目し書写。(今日、蓮如本が最古の写本である。)江戸時代初期に東本願寺の学僧、圓智が『歎異抄私記』を著し、その後、香月院深励や妙音院了祥などの学僧によって研究が進められ、深励の『歎異鈔講林記』・了祥の『歎異鈔聞記』などの注釈書が書かれた。近世以前に、確認できる写本が16本あり、その他の諸文献に記載されているものを合わせると28本あったとされる。また、江戸時代には、板本5種が刊行された。その後、明治時代になり、清澤満之らによって再度、評価され、近代の宗教学研究の手法で研究され、世間に周知されるようになった。この短い書は以下のような構成からなる。十条において、親鸞の言葉は唯円による歎異の論拠へと進化している。真名序は、この文が書かれることになった目的・由来が書かれている。すなわち、「先師の口伝の真信に異なることを歎」くのである。そもそも関東の教団は、善鸞の事件もあり、異義が発生しやすい土壌であった。親鸞の入滅によりますますその動きが加速した。主な異義としては以下があった。そこで、親鸞が唯円に語った言葉を副え、なぜそれが異義であるかを説明するのが本書であるとする。また、この「先師ノ口傳」の「先師」を親鸞ではなく法然と捉える説もある。そこでは嘆きの主体は唯円ではなく、親鸞となる。第一条から第十条は、親鸞が直接唯円に語ったとされる言葉が書かれている。第一条では、阿弥陀仏は自分を信じて極楽浄土に行きたいと願う人々をすべて救うという本願を立てているわけだから、弥陀の本願はただ信心が要である。念仏者にとって念仏以外の善は不要であり、どのような悪も弥陀の本願の妨げにはならないと説かれている。第二条は唯円はこの言葉を、関東から上洛して善鸞事件について親鸞に質す僧侶の1人として聞いており、その内容を長文で記している。親鸞は明確な答えを期待していたであろう彼らに対し「自分の信心は法然上人の言葉を信じているだけで、果たして念仏が極楽往生できる因なのか、地獄に落ちる業なのかは知るところではない。でも、たとえ法然上人にだまされていて地獄に落ちたとしても後悔はしない。もし、私がそれまで行っていた修行をしていたら仏になれたのに、念仏をしたおかげで地獄に落ちたというのなら後悔もするだろうけれど、ろくな修行もできない私はどうせ地獄にしか行けなかったからである。でも弥陀の本願が真実ならそれを示した釈尊(ブッダ)の説は嘘であるわけがなく、そうならば善導の解釈が偽りではなく、そうならば法然の言葉が嘘であるわけがなく、だからこの親鸞の言うことも無意味ではないのではないか。この上は念仏を信じるも捨てるも各々の自由である」と答えている。第三条は、悪人正機説を明快に説いたものとして、現在でもよく引用されている。詳細は、悪人正機を参照のこと。第四条は、聖道仏教と浄土仏教の慈悲の違いが説かれている。聖道仏教でいくら人々を救おうとしても、人にできることに限界があるから、浄土に行って速やかに仏となって人々を救済するほうが大きな慈悲であると説かれている。第五条では、「親鸞は一度も父母のために念仏したことがない」として、追善供養を否定している。念仏は自力の行ではないからである。速やかに浄土で仏となれば、多くの縁者の救済ができるとしている。第六条では、念仏は親鸞が行わせている行ではなく、阿弥陀仏の働きで為されるものであるから、自分自身の弟子は一人もいないと説かれている。第七条では、念仏者は悟りの世界への障害を乗り越えることができる存在であると説かれている。第八条では、念仏は自力で行うものではないので、行でも善でもないと説かれている。第九条は、どうして念仏しても、経文にあるように躍り上がるような喜びの心がそんなに起こらないし、少しでも早く極楽浄土に行きたいという気持ちにならないのかという唯円の疑問に対しての生々しい問答を長文で記している。親鸞は「自分も同じ気持だったが唯円も同様だったのですね?」と自分自身の問題でもあるとし、躍り上がるほど喜ぶべきことを喜べないのは実は煩悩の仕業とし、阿弥陀仏はそんな煩悩のある衆生を救ってくださるわけだから、煩悩がある自分たちの極楽往生間違いなしとしている。早く極楽に行きたくないどころか、少しでも病気になると「死んでしまうのでは」と不安になるのも煩悩の仕業とし、「長い間輪廻を繰り返して滞在したこの苦悩に満ちた世界に愛着があり、行ったことがない極楽に早く行く気持ちが起こらない凡夫のために起こされた弥陀の本願がますます頼もしく思える。もし躍り上がるような喜びの心が起こり、極楽浄土に早く行きたいという気持ちなら、自分には煩悩がないのかと疑問に思ってしまう」と説いている。第十条は、他力不思議の念仏は言うことも説くことも想像すらもできないものであるため、「無義をもて義とす」るものであると、念仏を定義する。親鸞の弟子から教えを聞き念仏する人々の中に、親鸞の仰せならざる異義が多くあるとする。第十一条以降は、異義を1つ1つ採り上げ、それについて逐一異義である理由を述べている。経典を読まず学問もしない者は往生できないという人々は、阿弥陀仏の本願を無視するものだと論じている。また、どんな悪人でも助ける本願だからといってわざと好んで悪を作ることは、解毒剤があるからと好んで毒を食するようなもので邪執だと破った上で、悪は往生の障りではないことが説かれている。後序は、それまでの文章とは間を置いて執筆されている。親鸞が法然から直接教え受けていた頃、「善信が信心も、聖人の御信心もひとつなり」(自らの信心と法然の信心は一つである)と言い、それに対し他の門弟が異義を唱えた。それに対し法然は、「源空が信心も、如来よりたまわりたる信心なり。善信房の信心も如来よりたまわらせたまいたる信心なり。されば、ただひとつなり。」(阿弥陀仏からたまわる信心であるから、親鸞の信心と私の信心は同一である)と答えた。唯円は、上記のように法然在世中であっても異義が生まれ、誤った信心が後に伝わることを嘆き本書を記したと述べている。承元の法難に関する記録が述べられている。親鸞が愚禿親鸞と署名するようになった謂れが書かれている。写本としては、蓮如本・端の坊永正本などがある。2015年現在、原本は発見されていない。蓮如本と永正本とには、助詞などの違いが見られるが、全体の内容として大きな違いは無い。最も原型的な古写本と考えられる蓮如本・永正本はともに「附録」と「蓮如の跋文」を備えているが、後代のものには、これらを欠く写本も存在する。上述のごとく、蓮如本と永正本には、蓮如の署名と次のような奥書が付されている。すなわち、本書は「当流大事の聖教」ではあるけれど、「宿善の機無き」者にはいたずらに見せるべきではない、と蓮如は記している。このため長らく秘本とされ世に広く知られることはなかったとする向きもあるが、実際には江戸時代にも『歎異抄』は、真宗聖典の一部に編入されており、秘本の扱いではない。明治に入ってから清澤満之・近角常観らによって再評価されるまで注目されなかった。また蓮如が著した『御文』(『御文章』)において、『歎異抄』の内容の引用が随所に見られる。歎異抄は書名が示すように、当時の真宗門徒たちの間で広がっていた様々な異説を正し、師である親鸞の教えを忠実に伝えようという意図の下で著されたものである。しかしながら、親鸞の著作から知られる思想と、歎異抄のそれとの相違を指摘する学者も多い。たとえば仏教学者の末木文美士は、唯円の思想はある種の造悪無碍の立場を取っているとし、これは親鸞の立場とは異なるとする。唯円は歎異抄において、阿弥陀仏の本願を盾に悪行をおこなう者に対して、忠告は行なっているが、彼らの往生は否定せず、かれらも確実に浄土に往生できるとする。しかしながら、親鸞は書簡にも見られるように、どのような悪しき行いを為しても無条件に救済されるという考えは採っておらず、そのような念仏者の死後の往生については否定的な見解を述べている。
出典:wikipedia
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