キミ=マティアス・ライコネン(, 1979年10月17日 - )は、フィンランド・ウーシマー県エスポー出身のレーシングドライバー。2007年のF1ワールドチャンピオン。フィンランド語に近い表記では「キミ゠マティアス・ライッコネン」となる。ニックネームは「アイスマン」。5歳の時に兄のお下がりのモトクロスバイクを乗り始め、8歳の時に兄とともにカートを始める。12歳のときより本格的なレースに参戦し、1999年までにカートで数々のタイトルを獲得した。1999年にはフォーミュラ・フォードユーロカップに参戦するが、資金難により数戦で参戦を取りやめている。しかし、同時期に参戦したフォーミュラ・ルノーイギリス選手権のウィンターシリーズではマノー・モータースポーツ・チームのシートを得て4戦4勝し、翌2000年のレギュラーシーズンは10戦中7勝、2位1回、3位2回という圧倒的な成績でチャンピオンを獲得した。ジュニア・フォーミュラにはこの2年弱の期間に23レースに参戦したに過ぎなかったが、その内13レースで勝利を上げ、53パーセントという高い勝率を記録している。フォーミュラ・ルノーでの成績に注目したF1ザウバーチームのオーナーペーター・ザウバーは、2000年9月に催された同チームのテストに招き、スペインのヘレス・サーキット、カタロニア・サーキットでザウバーのF1カーのステアリングを握ぎらせた。F3の経験すらなくF1のテストをしたが、2度のテストの後のインタビューでは「F1の運転はすごく簡単だった。フォーミュラ・ルノーに戻るより簡単だ」と語っている。この走りに度肝を抜かれたペーター・ザウバーは、「テレメトリーを見てみるとキミはF1マシンを楽らくドライブしている。まるでクルマの中から生まれて来たみたいだよ!」と語り、レギュラードライバー契約をした。フォーミュラカーでのレースはフォーミュラ・ルノーの23戦のみで、F3を経験せずにF1に参戦することについて(当時のFIA会長であるマックス・モズレーを含め)他の関係者からの批判は小さなものではなかった。事実、当初ライコネンのスーパーライセンスは4戦限定の仮ライセンスで、危険であれば取り消される可能性もあった。しかし、デビュー戦オーストラリアグランプリでいきなり6位入賞を果たし、その後正式にスーパーライセンスが発給された。第6戦オーストリアグランプリ、第8戦カナダグランプリではともに4位入賞するなど、全17戦中4戦で入賞し9ポイントを獲得し、ドライバーズランキング10位を獲得。国際F3000チャンピオン経験のあるチームメイトニック・ハイドフェルド(12ポイント獲得)と予選、決勝とも互角の成績だったことは経験の差を踏まえていたチームスタッフや関係者は度肝を抜かれた。事実、レース中のラップタイム、最速タイムは完全にハイドフェルドを凌いでいた。これはマクラーレンがライコネンを抜擢した決定的な理由である。そしてこの年、ザウバーチームはコンストラクターズランキング4位というF1参戦開始以来最高成績でシーズンを終えた。ザウバーでの活躍は、当時ザウバーにエンジンを供給していたフェラーリからもその速さを注目され、2002年についてはフェラーリに移籍する可能性が囁かれていたが、フェラーリよりいち早くアプローチしたマクラーレン・メルセデスが、ミカ・ハッキネンの後任としてライコネンを抜擢した。開幕戦オーストラリアグランプリで自身初のファステストラップを記録するとともに3位に入賞して初表彰台を獲得するなど、年間で4回の表彰台を獲得し、24ポイントを獲得した。リタイアは10回を記録したが、内ミスによるものは第12戦ドイツグランプリの1度だけで、残りは全てメカニカルトラブルによるものだった。中でも度重なるエンジントラブルに悩まされ、第14戦ベルギーグランプリから第16戦アメリカグランプリにかけての3戦連続を含め、計6戦をエンジントラブルによって失った。この年、特筆されるレースは第11戦フランスグランプリで、残り6周首位走行中に、前を走る周回遅れのアラン・マクニッシュの車から出たオイルによりスリップした隙にミハエル・シューマッハにオーバーテイクされ2位に終わったが、初優勝が期待されたレースとなった。マクラーレンの新車開発の遅れにより、前年型『MP4-17』の改良型である『MP4-17D』で臨んだ。第2戦マレーシアグランプリで初優勝を飾ったのち、第9戦ヨーロッパグランプリで自身初のポールポジションを獲得、第15戦アメリカグランプリでも2回目のポールポジションを記録するなど頭角を現し、優勝こそ1回のみであったが、安定してポイントを積み上げたことで、当時ドライバーズタイトル3連覇中のミハエル・シューマッハと最終戦までタイトル争いを演じた。最終的に2点差で敗れはしたものの、ドライバーズポイントランキングで2位を獲得した。開幕戦から新車『MP4-19』を投入するものの、車は絶対的な競争力に乏しく、信頼性も欠けていた。度々マシントラブルに見舞われ、7戦を消化した時点で4回のリタイアを喫し、第4戦サンマリノグランプリでの8位入賞による1ポイントしか獲得できなかった。第8戦カナダグランプリでは決勝レースで5回ものピットストップをしながらも5位入賞を果たし、第9戦アメリカグランプリでも6位入賞し、シーズン中盤になって復調の兆しを見せた。第10戦フランスグランプリでマクラーレンが改良車『MP4-19B』を投入すると、続く第11戦イギリスグランプリ予選でシーズン初のポールポジションを獲得し、決勝では同年初の表彰台となる2位を獲得した。その後第13戦ベルギーグランプリでシーズン初優勝を飾った。この年はF1以外のレース活動として、マネージャーのスティーブ・ロバートソンとともにライコネン・ロバートソン・レーシング(ダブルRレーシング)を設立し、チームは翌年からのイギリスF3選手権参戦を発表している。開幕当初はマクラーレンの新車『MP4-20』の信頼性不足によりやや出遅れた。しかし、第4戦サンマリノグランプリから3戦連続ポールポジションを獲得し、第5戦スペイングランプリ、第6戦モナコグランプリではポール・トゥ・ウィンを達成するなど次第に調子を上げ、チャンピオン争いに絡んでいく。第7戦ヨーロッパグランプリでは、首位で迎えたファイナルラップにおいてサスペンション破損によりリタイア(記録上は11位完走扱い)し、タイトルを争うフェルナンド・アロンソに優勝を許してしまった。特筆すべきは第18戦日本グランプリ。予選ではタイムアタック直前に雨が降り出すという不運に見舞われ17位スタートとなるが、決勝のオープニングラップで12番手まで順位を上げると、怒濤の追い上げで20周目には7番手までポジションを上げた。その後もじわじわと順位を上げ38周目のジャンカルロ・フィジケラのピットストップと、41周目のジェンソン・バトンのピットストップによりトップに立つが、残り8周でのピットインによって、首位をジャンカルロ・フィジケラに明け渡し2位に後退する。しかし1秒以上速いペースで追い上げその差を取り戻し、ファイナルラップの1コーナーでフィジケラをアウトからオーバーテイクし優勝を果たす、というレースを展開した。決勝後の記者会見では「今日のレースは間違いなく僕のベストレースに入るだろうね」と語った。5回のポールポジション獲得や、10回のファステストラップ獲得、7回の優勝を飾るなどの活躍を見せ、ルノーのアロンソと激しいチャンピオン争いを繰り広げたが最終的に及ばず、ランキング2位でシーズンを終えた。シーズン7勝は、チャンピオンのアロンソと並び2005年シーズンの最多勝である。また、ワールドチャンピオンを獲得できなかったドライバーがそのシーズン中に挙げた勝利数としては最多タイ記録となるものである。さらなる飛躍が期待された2006年であったがこの年のマシン、『MP4-21』は信頼性が高いとはいえず様々なトラブルでノーポイントで終えたレースが多かった。開幕戦バーレーンGPでは予選第1ピリオドでマシンが壊れ最後尾スタートとなったが、素晴らしい追い上げを見せ3位表彰台を獲得。ルノーやフェラーリを追いかけまわすレースもみられ予選では3度ポールポジションを獲得したが、マシントラブルやミス、ライバルの戦略により逆転されるなどコンスタントにポイントを稼ぎはしたもののいずれも優勝とはならず、この年は未勝利に終わった。ランキングは5位となった。第15戦イタリアグランプリ終了後に、この年限りで引退するミハエル・シューマッハの後任として、2007年からフェラーリへの移籍が発表された。この年はライコネン・ロバートソン・レーシングが、マイク・コンウェイを擁して、イギリス・フォーミュラ3選手権で初めてドライバーズチャンピオンを獲得した。フェラーリ移籍初戦となった開幕戦オーストラリアグランプリで自身初めてポールポジション・ファステストラップ・優勝を獲得するハットトリックを達成した。移籍初年度でハットトリックを決めたドライバーとしてはフェラーリが1950年からF1参戦してから初となる歴史的快挙である。開幕戦から3戦連続で表彰台に上がる活躍を見せるも、第4戦スペイングランプリではマシントラブルによりリタイヤに終わる。第6戦カナダグランプリ・第7戦アメリカグランプリでもマクラーレンの連勝を許し、ランキング首位のルイス・ハミルトンとのポイント差は26となった。第8戦フランスグランプリ、第9戦イギリスグランプリを連勝してポイントを挽回した。第14戦ベルギーグランプリにおいてはポールトゥーウィンを果たし、スパ・フランコルシャン3連覇を記録した。しかし、ハミルトンとの得点差は残り2戦で17ポイントと依然として大きく、ライコネンのタイトル獲得の可能性は最終戦を待たずして消滅する可能性が高かった。ところが第16戦中国グランプリでハミルトンがリタイアし、自身が優勝したことによりかろうじて望みは繋がれた。そして最終戦ブラジルグランプリにて予選3位から優勝を果たし、ハミルトンが7位、アロンソが3位に終わったためランキング3位から逆転で初の年間総合優勝を獲得した。最大26ポイント差を跳ね返す、F1史上最大の逆転劇であった。ライコネンは中盤から最終戦まで7連続表彰台を獲得し、安定してポイントを獲得したこともチャンピオンに輝いた1つの要因となった。この年のチャンピオン争いは最終的に1位ライコネン110ポイント、2位ハミルトンと3位アロンソが109ポイントと、1位から3位までの差が1ポイント差という史上初の接戦であり、さらにシーズン最終戦まで三つ巴の争いが続くというF1史上でも稀に見る激戦であった。2008年は第2戦マレーシアグランプリにおいてシーズン初優勝を飾ると、第4戦スペイングランプリでは自身2度目となるハットトリックで完全勝利を達成した。しかし、この勝利がシーズン最後の勝利となった。第6戦モナコグランプリでは様々なミスを犯し、後方での戦いを余儀なくされたあげく、予選19番手からスタートし5位走行と健闘していたフォース・インディアのエイドリアン・スーティルに追突し、リタイアに追い込んでいる。続く第7戦カナダグランプリではピットレーン出口でレッドシグナルで停止中に、ハミルトンに追突されリタイアを喫する。更に第8戦フランスグランプリでは首位を快走していたが、エキゾーストの破損によりペースが下がり、2位に終わった。第12戦ヨーロッパグランプリから第15戦シンガポールグランプリまでトラブルやミスが相次ぎ4戦連続ノーポイントに終わっている。これが影響し、第16戦日本グランプリを終えてタイトル防衛の可能性は消滅した。第17戦中国グランプリではハミルトンとタイトルを争うチームメイトのフェリペ・マッサを先行させ、最終戦ブラジルグランプリにおいてもチームプレーに徹し、2年連続のコンストラクターズタイトルに貢献した。ドライバーズタイトルではロバート・クビサと同点であったものの、優勝回数で上回り3位でシーズンを終えた。タイトル連覇は逃したものの、レース中には速さを見せた。第4戦スペイングランプリから第9戦イギリスグランプリまで6戦連続でファステストラップを獲得、年間10回のファステストラップを獲得した。大幅に変更されたレギュレーションに合わせて開発されたマシン・F60の競争力は低く、開幕から3戦をノーポイントで終えた。第4戦バーレーングランプリでシーズン初ポイントを獲得し、第6戦モナコグランプリを3位で終え、ようやくシーズン初表彰台を獲得した。第12戦ベルギーグランプリにおいて、ポールポジションからスタートしたフォース・インディアのジャンカルロ・フィジケラを、セーフティーカー導入後の再スタート時にKERSを使用してオーバーテイクし、フェラーリにとってシーズン初、ライコネンにとって2008年スペイングランプリ以来約1年4か月ぶりの優勝を得た。2010年、フェラーリは新たにフェルナンド・アロンソを迎えることを決め、多額の違約金を払ってライコネンとの契約を解除した。その後マクラーレンと契約交渉を行ったがまとまらず、マクラーレンはジェンソン・バトンの獲得を発表した。レッドブル・レーシングやトヨタF1との交渉もあったが、ライコネンのマネージャーであるスティーブ・ロバートソンは「F1での選択肢はマクラーレンだけだった」と語り、他チームからのF1参戦の可能性はなかったことを明らかにしている。しかし、後にスティーブ・ロバートソンは「メルセデスはキミと契約したがった」と語ったが「だがその時には彼はすでにWRCに行くことを決めてしまっていた。キミの決心は変わっていない」とも語り、既にメルセデスからのオファーは手遅れであったことを明らかにしている。そして2009年12月4日、本人からシトロエン・ジュニアチームから世界ラリー選手権 (WRC) に参戦することを発表した。契約期間は1年。この年はフェラーリでF1に参戦しているが、シーズン中のテストが禁止となったこともあり、プライベーターとしてトミ・マキネン・レーシングからフィアット・グランデプント・アバルトS2000でラリーにも参戦した。まず2009年シーズン前のオフ中に、フィンランドで行われた北極圏ラップランド・ラリーに出場し、ラリー初出場で13位を記録する。さらに同じくフィンランドで開催されたヴァークナ・ラリーにも参戦し17位。F1がシーズンに入ってからは、イタリアで開催されたターマックラリーのラリー・デラ・マルカに参戦するが、クラッシュによりリタイアした。第10戦ハンガリーグランプリを2位表彰台で終えた後の7月末には、母国で開催されたWRC第9戦ラリー・フィンランドにスポット参戦。結果はクラッシュによりリタイアに終わった。この年はF1を離れ、シトロエン・ジュニアチームとニュージーランドを除くWRC全戦に出場する契約を結んだ。ラリーカーはシトロエンC4 WRCの2009年仕様。コ・ドライバーは2009年に引き続きカイ・リンドストローム。WRC初戦の前にはテストも兼ねて北極圏ラップランド・ラリーに参戦。初日にクラッシュしてしまうも、2日目には再出走し、上々のタイムを記録した。第1戦ラリー・スウェーデンは慣れないスノーラリーで苦戦するも、WRCで初完走を果たす。そして第3戦ヨルダン・ラリーでは8位に入り初ポイントを獲得する。また、このポイント獲得により、カルロス・ロイテマン以来のF1とWRCでポイントを獲得したドライバーになった。第4戦ラリー・トルコでは終盤のSSでコンディションが極めて悪くなり、上位陣にもトラブルやコースアウトが相次ぐ中で堅実に走行し、5位フィニッシュを果たしている。ラリー・ポルトガル後、次戦ラリー・ブルガリアのターマックラリーに備えたテストの為に、イタリアのローカルラリーであるラリー・ランテルナにチームメイトのセバスチャン・オジェとともに出場した。オジェのタイヤ選択ミスもありトップに出るが最終SSで抜かれてしまい2位で終わった。ラリー・ドイチュラントでは3戦ぶりのポイントを獲得し、市街地で行われた最終SS(SS19)では初のWRCステージ優勝を果たした。ラリー・ジャパン後、ラリー・フランスに備えテストの為にターマックラリーであるフランスで開催のラリー・ヴォージュ (Rallye Vosgien) に出場し、ワークスマシンは他には出走しておらず有利な状況であったものの、全てのステージでトップタイムを記録してラリーでの初優勝を遂げた。ターマックラリーで期待されたラリー・カタルーニャはシェイクダウンでクラッシュしてしまい、次の日のラリー初日のスタートまでには修理不可能だった為、ラリーには参加せずリタイアした。ウェールズ・ラリーGBでは難しいラリーを走りきり、WRC最終戦をポイント獲得で飾った。2011年は自身のチーム「ICE 1 Racing」を立ち上げ、プライベーターとしてWRCに参戦した。チームマネージャーには解散となったシトロエン・ジュニアチームのマネージャーであったブノワ・ノジェが就任した。チームはマニュファクチャラーチームとしてエントリーを行った。ただし全戦には参戦せず、ヨーロッパで開催のラリーに絞り9戦のみの参戦となった。ラリーカーはシトロエンC4 WRCに代わり今年から使われることになったシトロエンDS3 WRCをワークスより借り受け使用した。コドライバーは引き続きカイ・リンドストロームが務めた。第1戦ラリー・スウェーデンは8位でポイントを獲得しさい先の良いスタートを切った。第2戦ラリー・メキシコは不参加。第4戦ヨルダンは最後から2つめのSSでタイムを失ってしまい5位は逃したものの6位に入賞した。続くラリー・イタリア・サルディニアとラリー・アルゼンチンの2戦は不参加。第7戦アクロポリスからの3戦に参加し全てでポイントを獲得した。オーストラリアは不参加だったが、その為にヨーロッパ外の2戦参加義務を果たせず、チーム自体は失格処分となった(なお、キミ・ライコネンとカイ・リンドスロロームは引き続き参戦可能だが、マニファクチャラーズ・ポイントの取得は不可能である)。残りの3戦は参加したものの、すべてリタイアとなってしまった。2011年にはWRC出走と並行してNASCARへスポット参戦を行った。NASCARのキャンピング・ワールド・トラック・シリーズに から1戦のみ参戦した。マシンはトヨタ タンドラ。第7戦シャーロット・モーター・スピードウェイがデビューレースとなった。予選は31位で通過。決勝はコーションが10回もでる荒れたレースとなったが15位で完走した。ネイションワイド・シリーズにも1戦のみ参加した。キャンピング・ワールド・トラック・シリーズに参戦した1週間後に同サーキットで行われた第13戦にKyle Busch Motorsportsが用意したのトヨタ カムリで出場。予選22位、決勝は一時15位まで順位を上げたもののドライブスルーペナルティやデブリ除去の為のピットストップなどのトラブルのため順位を下げ27位となった。2011年8月にはプジョー908のテストを行い、初めてプロトタイプカーでの走行を行った。ル・マン24時間レースや耐久シリーズへの参戦も噂されたが、実現しなかった。2010年10月ごろには、ロータス・ルノーGPから接触があったことから2011年シーズンより同チームから復帰するとみられたが、ロータス・ルノーGP側からの一方的なアプローチだったことなどから、同チームで真剣に出走を検討できないとライコネンは復帰を否定していた。2011年9月ごろから、ウィリアムズのファクトリーにライコネンが訪問したことから2012年シーズンよりF1へ復帰する可能性が囁かれ、実際に交渉も行われていたが決裂した。アブダビグランプリ直前からロータス・ルノーGPと交渉を開始すると話はすぐにまとまり、2011年11月29日にロータス・ルノーGPよりF1に復帰することが公式に発表された。ロータス・ルノーGPは2012年からチーム名は「ロータスF1チーム」、コンストラクター名は「ロータス」に変更になったため、実際はロータスからのF1復帰となった。F1ほどメディアの圧力が強くないラリー界に馴染んでいたと思われていたため、F1への復帰は意外な決断と受け止められた(友人のトニ・ヴァイランダーも「F1に心底うんざりしていて、“2度とやらない”とずっと言っていた」と述べている)。本人は復帰の理由について「NASCARに出て以来、他のドライバーとバトルをしたいという気持ちがどんどん強くなっていった。ラリーは時計との戦いだからね」と語った。しかし、2010年に現役復帰したミハエル・シューマッハが苦戦しており、2年間のブランクがあるライコネンには多くを期待できないという意見もあった。久々のF1に慣れるために2年前のルノー時代のマシンR30を使用したプライベートテストを2日間行い、プレシーズンテストに備えた。プレシーズンテストでは度々トップタイムを記録するなど、以前と変わらぬ速さを見せた。また、ライコネン自らのリクエストにより、マクラーレン時代に共に働いたマーク・スレイドがレースエンジニアとしてメルセデスから招聘された。復帰初戦の開幕戦オーストラリアグランプリは、予選でミスによりQ1で敗退してしまったものの決勝は7位入賞で飾る。バーレーングランプリではトップのベッテルに迫り、復帰後初の表彰台となる2位を獲得した。ハンガリーグランプリでもトップのハミルトンを追い上げたが抜くことができなかった。その後は5位以下で完走するレースが続き、シーズン前半ほどのペースが発揮できない状況になった。また、E20のパワーステアリングの感触が合わないという問題をなかなか解決できないでいた。アブダビグランプリは4番グリッドから好スタートを決めて1コーナーで2位に上がり、20周目でハミルトンがリタイアしてからはトップを守り続けた。2回もセーフティカーが入ったが全く動じず、冷静に後続とのギャップをコントロールして2009年ベルギーグランプリ以来の復帰後初優勝を飾った。開幕戦から最終戦ブラジルグランプリまで全てのレースを完走し、F1史上8人目の年間決勝全戦完走達成者となった。ただし最終戦では1周遅れでフィニッシュとなってしまったため、シーズンの全周回を走り切ることはできなかった。中国グランプリ以外すべてのグランプリで入賞。その内表彰台は7回獲得し、最終戦までチャンピオンを争っていたベッテルとアロンソに次ぐランキング3位でシーズンを終えた。開幕戦オーストラリアグランプリで幸先よく勝利するが、その後は6度の2位が最高である。第11戦ベルギーグランプリではF1復帰以来初のリタイアを喫し、連続完走が30戦、第4戦バーレーングランプリから続けてきた連続入賞が27戦(歴代1位)で途絶えることになった。F1では2009年ドイツグランプリ以来、実に4年ぶりのリタイアでもある。夏頃からは来季に向けた移籍交渉が話題となり、当初は引退するマーク・ウェバーの後釜としてレッドブル入りが噂されたが、結局、イタリアグランプリ後に古巣フェラーリへの移籍が決定した。F1復帰以来良好だったロータスとの関係も微妙になり、チームの報酬未払いを暴露したり、公式会見を欠場するなどの行動をとった。シンガポールグランプリでは古傷の背中の痛みが再発し、我慢しながらレースを続けたが、終盤2戦を欠場して手術することを選択した。このシーズンは表彰台8回を獲得し、ランキングは5位となった。この年の8月にはGP3の公式開発テストに参加し、GP3マシン「GP3/13」でテスト走行を行った。2014年はフェルナンド・アロンソとチームを組む。フェラーリで2人のF1ワールドチャンピオンが組むのはのアルベルト・アスカリとジュゼッペ・ファリーナ以来となる。なお固定ナンバー制導入に伴い、ライコネンはカーナンバー7を選択 。理由は、昨年も7をつけており、「変える理由が無かったから」とのこと。レギュレーション大変革が行われたこのシーズンでは、フェラーリのF14Tのポテンシャル不足や、自身の不振によって、アロンソに大きく差をつけられる結果となってしまい最高位はベルギーグランプリの4位に留まりランキング12位と低迷した。アロンソがマクラーレン・ホンダに移籍し新たにレッドブル・レーシングからセバスチャン・ベッテルを迎え、2年連続フェラーリで2人のF1ワールドチャンピオンが組むことになった。マシンの性能と状態は去年より格段に良くなり、上位争いができる体制は整った。しかし、開幕戦オーストラリアGPでは5番グリッドからスタートも1周目からクラッシュに巻き込まれ、ダメージを負ったまま走行するが2回目のピットストップ時にトラブルが発生しそのままリタイア。第2戦マレーシアGPでは遅いマシンに引っかかりQ2で敗退し、決勝でも序盤の接触で後退し、追い上げたものの4位に終わった。その後も、中国GPでは3位のベッテルを追い詰めながら最後の最後でセーフティーカーが入り表彰台を逃した。続くバーレーンGPはフリー走行から好調で、決勝でもファステストラップを出しながらメルセデスの2台を追い上げ、自身にとって2年ぶりの表彰台を獲得した。しかし、その後は自らが課題に挙げた予選でなかなか結果を出せず、カナダGPでは3位表彰台確実と思われた中で、ピットストップ後に突如スピンを喫し4位フィニッシュ。オーストリアGPではチームの作戦凡ミスによるQ1落ちだけでなく、決勝すらアロンソとクラッシュし大破してリタイアなど、ミスやトラブルでポイントを取りこぼすレースが多く、昨シーズン同様チームメイトに大きく遅れを取る展開となった。前半10戦を終えてベッテルが2勝を上げ160ポイントを獲得したのに対し、自身はバーレーンGPで2位表彰台へ1回登ったのみ、76ポイントと水を開けられる形となった。イタリアGPではエンジンストールで最後尾から発進したがなんとか5位へ浮上。この状況でチーム代表のマウリツィオ・アリバベーネも「残留のためには結果が必要だ」と声明を出し ライコネンに対してプレッシャーを掛けた。現在も幾度となくライコネンの去就に関するニュースが流れ 、さらには後任に関する噂まで流れ始め、同じフィンランド人の若手バルテリ・ボッタス やニコ・ヒュルケンベルグ 、ダニエル・リカルドなど挙がっていた。しかしその後、ベルギーGPを前に数々の噂を跳ね除けてライコネンの残留が発表され、2016年もライコネンとベッテルのコンビで戦うことが決定した。シートはなんとか確保されたものの、ロシアGPでは最終ラップにでボッタスと接触し、5位でチェッカーを受けたが、ペナルティを受けて8位に終わった。国際無線に入るライコネン節も健在で、アメリカGPではマックス・フェルスタッペンへ「あのKID(ガキ)あの押し出しがセーフだっていうなら、こっちも同じことをしてやる」と発言。その後ライコネンは凡ミスでコースアウトし、そのままリタイアしている。それでも最終戦アブダビGPで3位表彰台を獲得しランキング4位であったボッタスを逆転。メルセデスの2人、チームメイトのベッテルに次ぐ4位でシーズンを終えた。開幕戦オーストラリアGPではベッテルと共にロケットスタートを決め2位を走っていたがトラブルによりリタイア。バーレーンGPではスタートで順位を落とすも巻き返し2位表彰台を獲得。スペインGPでは優勝したマックス・フェルスタッペンと20周近い激しい首位争いを繰り広げ、史上最年少対現役最年長の戦いということで話題になった(結果は2位)。スペイン戦終了時に、わずかだがハミルトンのポイントをトータルで上回った。その後はハミルトンやレッドブルのダニエル・リカルドの後塵を拝する展開になっているが安定性は高く、カナダGP以降は入賞を続けておりポイントでチームメイトのベッテルを上回っている。1年契約ということもあり、この年もライコネンのフェラーリ離脱説が飛び交ったが最終的にはイギリスGPを前に、2017年のフェラーリ残留が発表された。
出典:wikipedia
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