日本在来馬(にほんざいらいば)は、日本の在来馬、すなわち、洋種馬等の外来の馬種とほとんど交雑することなく残ってきた日本固有の馬、及び、その馬種の総称である。略して単に在来馬と言うことも多く、また、和種馬、在来和種(馬)とも呼ばれる。また、その馬種を日本在来種・日本在来馬種、その馬を日本在来種馬と言うこともある。現存のものは8種に分かれるが、その多くは個体数がたいへん少なく、絶滅が危ぶまれている。(日本)在来家畜の1つである。日本在来馬の原郷は、モンゴル高原であるとされる。現存する東アジア在来馬について、血液蛋白を指標とする遺伝学的解析を行った野沢謙によれば、日本在来馬の起源は、古墳時代に家畜馬として、モンゴルから朝鮮半島を経由して九州に導入された体高(地面からき甲までの高さ)130cm程の蒙古系馬にあるという。また、古墳時代には馬骨や馬歯、馬具が考古遺跡から出土しており、日本在来馬の存在が確認される。古墳時代では小形馬が主流であり、一部中形馬が存在し、奈良時代になると平城京を中心に中形馬が増加するが、小形馬も地方を中心に依然として残る分布状況であったとみられる(したがって、古代では近畿圏の方が馬の体格は大きい)。『日本書紀』欽明天皇15年(554年)、百済が朝廷と会談して、援軍千人、馬百匹、船四十隻派遣の約束をした記事があり、6世紀中頃にもなると、日本が馬を軍事的に海外へ輸出する状況もあった。16世紀の琉球王国の場合、商人が中国に対して琉球産の馬や貝を出しており、自国の馬が特産品であるとの自覚がこの頃には形成されていた事がわかる。これは本土が馬を軍事品・武備と認知していたのとは対照的といえる(琉球人にとっては馬も商品となっていた)。一方北海道では、松前を訪れた宣教師の記録により17世紀初頭には和人地で馬が用いられていたことがわかる。ただし蝦夷地に馬が渡来した時期は遅く、18世紀末頃と考えられている。この時期、多くの近江商人が東蝦夷地に入って来たため、アイヌ語の「ウンマ(馬)」は関西系のアクセントの影響があると(言語学者の中川裕に)指摘されている。明治以降、特に日清・日露戦争の後に、日本の馬匹改良は、国策としての軍馬増強に主眼が置かれ、馬格の大きい洋種馬との交配による大型化が行われた。まず明治34年(1901年)の「馬匹去勢法」によって、種牡馬及び将来の種牡馬候補以外の牡馬は全て去勢することが定められ、ついで日露戦争後の内閣馬政局の設置(明治39年(1906年))、さらには昭和14年(1939年)の「種馬統制法」によって、これがさらに強化徹底された。この大規模な「改良」の結果、多くの地方では短期間の内に純粋な在来馬が消滅するに至った。しかしそのかたわら、離島や岬の先端など、主として交通が不便な一部地域には、外国産馬(洋種馬)の血がほとんど入らず、かつての姿をよくとどめる馬群が、細々とではあるが残された。そのような馬群8種を、日本馬事協会が「日本在来馬」として認定し、現在まで保護にあたっている。これらのほかにも農耕馬が使われている地域は存在するが、いずれもある程度洋種馬と混雑しており、純血種に近いものはこの8種のみであると考えられる。8つの馬種は品種であり、遺伝子的には地域個体群程度の差しかないが、それぞれに特徴があり、体形が異なる。このほか、純血種が絶滅してしまっている在来馬として、南部馬・三春駒・三河馬・能登馬・土佐馬・日向馬・薩摩馬・甲斐駒・ウシウマ(種子島)などがある。また、寒立馬は南部馬と外来馬の交配種とされる。日本在来馬は、前述のようにすべて小型馬・中型馬であり、ポニーに分類され、これはモンゴルの他、中国や朝鮮半島でも最も一般的であった蒙古馬系に属する。競馬等で親しまれているサラブレッドなどの近代軽種馬と比べた場合の特徴として、全体としてずんぐりした体形、具体的には、やや大きめの頭部、太短くて扇形の首つき、丸々とした胴まわり、体格のわりに長めの背、太くて短めの肢、豊かなたてがみや尾毛、などが挙げられる。顔面や四肢の白微はなく、背中に鰻線(まんせん、背筋に現れる色の濃い線)をもつものが多い。ただし、各馬種ごとにも体形には違いが見られる。日本在来馬は体質強健で、よく粗飼に耐える。消化器官が発達しており、そのため、野草のみでも育成できると言われる。体は丈夫で、寒冷地でも年間放牧が可能であるとされる。平均的に骨や蹄が堅く、骨折などの事故はあまり起きない。この「蹄が堅い」という在来馬の特長から、日本では雪国で馬にはかせる藁沓(わらぐつ)を除いて、蹄鉄が発達しなかった。さらに、特徴的な歩様(歩き方)として、日本在来馬は「側対歩」、すなわち、前後の肢を片側ずつ左右交互に動かす変則速歩で歩く。この歩様は上下動が少ないため駄載に適し、特に険しい山道での運搬には向いている。体格のわりに力強く、特に後ろ脚が発達していることもあり、日本在来馬は傾斜地の歩行をあまり苦としない。また、比較的温和な性格のため、ハミをかませる必要もなく、容易に扱うことができたとされる。このことが原因の1つとなって、日本では明治に至るまで、去勢術が定着しなかった。一方、平坦地のスピードにおいては、日本在来馬は、スピード競争のために品種改良が重ねられたサラブレッドに遠く及ばない。全馬種のなかで最も高速で走るサラブレッドが平坦地で時速60km 以上のスピードで走れるのに対して、木曽馬は時速40km程度である。現存の日本在来馬の中には、木曽馬のように、純血種としては一度絶滅したものを、戻し交配によって復活させたものもある。8品種がそれぞれ文化財として指定を受け、日本馬事協会および各地保存会によって、頭数の維持・増加が図られているが、総数としては、1996年から減少の一途をたどっている。2002年現在、8品種で2,400頭ほどだが、その過半(約1,800頭)は北海道和種に占められており、他の7品種は合わせても600頭ほどにしかならない。貴重な純血種として在来馬をただ保存するだけではなく、積極的な活用策の構築が望まれる。現在、御崎馬が、国の天然記念物に指定されているほか、木曽馬が長野県の天然記念物、野間馬が今治市の天然記念物、トカラ馬が鹿児島県の天然記念物、宮古馬が沖縄県の天然記念物、与那国馬が与那国町の天然記念物にそれぞれ指定されている。前近代において農民は乗馬が許されなかったが、飼育はできた。『職人歌合』にも載る「馬喰」、つまり馬の仲買人業が続いたためである。その為、農民の子でも飼育方(どの草を食べさせてはいけないかなど)を覚えた。江戸期では農家の五軒に一頭の割合で馬を飼っていたとされる。なお、江戸期における人口の7割は農民とされる。幕末時の人口は3千万人ほどとされる事から、実に2100万人が農民である。西洋馬の導入が本格化する以前の幕末を和種馬数のピークと仮定し、仮に一軒平均を10人と想定しても、2100万人いる農家に対し、42万頭前後が飼育されていた事になる。さらに、野生馬や軍事馬、奉納神馬、駅馬などを含めて想定した場合、それを上回ると想定される。軍記物語である『吾妻鑑』では、以下の様に区別している。
出典:wikipedia
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