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セイ!ヤング

『セイ!ヤング』は、1969年から1994年にかけて、文化放送で放送されていた深夜放送ラジオ番組。1969年6月2日より放送開始。放送時間は平日深夜24:30-27:00(1978年4月から、平日深夜25:00-27:00に変更)。生放送でパーソナリティの話、聴取者からのはがき、リクエスト音楽によって構成されていた。若き日の土居まさる、みのもんた、橋本テツヤ、落合恵子、吉田照美といった歴代の文化放送の人気アナウンサーを筆頭に、1970年代後半には、当時の人気アイドルである郷ひろみなどもパーソナリティーに起用したり、東京へ本格進出する以前に、地方(特に大阪・名古屋地区)の深夜放送での人気ぶりを背景に、笑福亭鶴瓶や兵藤ゆきをいち早く起用するなど、バラエティー豊かなパーソナリティー陣を擁し、同じ時間に放送されていた裏番組「オールナイトニッポン」や「パックインミュージック」と共に深夜放送全盛の時代を支えた。若者たちは、両親、教師よりもパーソナリティーの言葉を信じ、パーソナリティーはアイドル化していった。セイ!ヤングでは、特に土居まさる、橋本テツヤが多くのファンに支持され、リクエストはがき枚数を競っていた。後に、土居、橋本は深夜放送の人気を背景にテレビ司会者に転向し、成功をおさめた。末期は、放送時間が30分短縮され、完全に「オールナイトニッポン」と「パックインミュージック」の裏番組となっていった。1981年9月をもって、帯番組としての「セイ!ヤング」は終了し、後番組はそれまでのような若者向け深夜放送ではなくなった。グレープ時代にパーソナリティーを務めていたさだまさしは終了の方針を聴き、「若者向けの深夜番組が復活するまで、俺が(文化放送の)深夜放送の灯を守り続ける」と「セイ!ヤング」の名を引き継ぐ形で同年10月10日より土曜深夜に「ナイト&ラブ さだまさしのセイ!ヤング」の放送を開始した(後に「さだまさしのセイ!ヤング」と改名)。さだの話芸と、リスナーの投稿ハガキに支えられて、1994年4月2日で終了するまで、放送期間12年半、放送回数600回を越える長寿番組となった。また、さだがハガキを読む際に「**の**さんから。いらっしゃーい」と言って土鈴を鳴らすことでも知られていたさだは年間百数十公演という多忙なコンサートツアーやレコーディングをこなしながら(さだはソロコンサート4000回超という日本人という記録を持っている)、原則として生放送で放送した。このため、自宅最寄の信越放送諏訪放送局やツアー先の最寄りの放送局、時には宿泊先のホテルから放送が行われることも多かった。1986年1月18日の放送は、群馬県での公演を終えてすぐ、移動途中からでも生放送が出来るように中継車に乗って文化放送に向かったが、23時の時点で到着できず、文化放送まであと数百メートルという所で急遽イタリア料理店に入って生放送を始め、小声で痔の内容のはがきを読み始めた。しかしゲストの堀内孝雄が既にスタンバイしているとあって、改めてスタジオに向かうことにし、6分53秒の曲『もーひとつの恋愛症候群』(アルバム『自分症候群』収録)を流し、これとCMの間にさだはスタジオに入り改めて生放送を開始した。1988年8月6日は長崎市内で行われたコンサート『夏 長崎から さだまさし』の終了後、長崎放送からの生放送だったが、さだが遅れて間に合わなかったため、当番組で月1回映画情報を担当していたおすぎと当時のさだのマネージャー・廣田泰永がつないだ。23:30前にさだが到着し、コンサートのお礼などを話し始めたが、この日のコンサートの出演者だった松山千春も入り、さだ・松山・おすぎによる暴露のし合いなどトークが盛り上がり、結局この日は1枚もはがきを読めずに番組が終わり、はがきコミュニケーションラジオをモットーとする当番組にとって珍しい回となった。なお、レコーディングやコンサートツアーなどの都合上どうしても生放送で放送できない時は「諸般の事情」と称して録音放送を行っていた(録音だとは言わずあくまでも「諸般の事情」としか言わなかった)。この際には、後述する通常の生放送とは違う企画で放送されることが多かった。公開番組ではなかったのだが、文化放送からの放送時には「通りがかりの人々」としてファンがスタジオに入っていたこともある。これは入り待ち・出待ちのリスナーが、住宅街である新宿区若葉にあった当時の文化放送局舎前に深夜たむろすることによる周辺への影響を懸念した局側の特別措置で、公式に「番組中はスタジオを開放して見ることができます」と明言してしまうとリスナーが集まりすぎ収拾がつかなくなるために、番組上は(半ばネタの意味合いも込めつつ)「文化放送内に入って第1スタジオの中を通るルートで移動中だったが、ふと脇を見るとさだまさしが番組をやっていたので」見て笑っている、あくまでも通りがかっただけの人たちである、という設定がとられた。番組が終了する24時半は終電も出てしまった時間ということもあり、来ること自体や帰路についてもリスナー個々の自己責任での行動が求められた。局やスタッフ側のリスナーへの信頼と、その信頼に応えるべくマナー遵守を徹底したリスナー側、双方の関係が極めて良好であったからこそ可能になった稀有な例と言える。後の「セイ!ヤング21」月曜日でも文化放送から公開を行ったが、情勢の変化による局舎保安上の問題や録音が多かったことなどから、「通りがかりの人々」の名前を残しつつも事前申込制となった(2010年現在においても、このような措置をとる局は存在しないといってよい)。以下の局は飛び乗り。ここでは主に番組末期の1990年代初頭のものを記す。さだは1枚でも多くリスナーの葉書を紹介することを優先していたため、シンガーソングライターがやっている番組なのにもかかわらず、歌がほとんどかからない回も多かった。また、さだの妹の佐田玲子がゲストとして来ることも多かった。(23時台提供はヤクルト→東鳩製菓(現東ハト)。)これらネタはがきコーナーは、後の「セイ!ヤング21」月曜日でも江戸落語の昇進システムを用いた「お笑い三流亭」、料理人としてシェフを目指す「お笑いリストランテ」が放送された。コーナーの後は何枚か普通のハガキを読んだり、廣田マネージャーやゲストなどとフリートークをしていた。その後『主人公』のピアノ演奏が流れ、さだが「岩手の皆さんを待ちましょう」と言って24:00となる。(一時期この枠は消滅するがリクルート提供(クレジット上は海外旅行情報誌「AB-ROAD」名義)で「さだまさしのセイ!ヤングアネックス」として復活。ここで紹介するのは主に「アネックス」時代のコーナー。なお、番組末期のスポンサーは当時さだがテレビCMのキャラクターを務めていたダスキン。)『Come on FUNKY Lips!』スタートによって、若者向け深夜放送が帯番組で復活する事となりさだの公言していた目的が達成された事、また『大学受験ラジオ講座』が平日から土日のみの放送になることで「セイ!ヤング」枠の消滅や、さだが生放送でのスタイルで喋り続けることが年齢的にきつくなり、本業である歌手活動に差し支えるおそれがあったこともあいまって降板を示唆。結果1994年4月をもって終了。1969年6月の帯番組時代と合わせて24年10ヶ月の放送に一旦幕を降ろした。なお、さだはこの番組終了後の1994年4月〜1998年3月にこの番組のコンセプトを応用した録音番組「(有) さだまさし大世界社」(土曜15:00 - 15:55)を担当した。また、2006年元日未明にNHK総合テレビで放送された『新春いきなり生放送!!「年の初めはさだまさし」』は、この番組をテレビ上で再現しようというコンセプトであり、その後も「今夜も生でさだまさし」として月1回ペースで放送されている(詳細は同番組の項目を参照のこと)。一方、「セイ!ヤング」シリーズの方は、2001年10月に『セイ!ヤング21』が放送されるまで7年半中断されることとなった。セイ!ヤング放送開始から40年を記念して、文化放送では聴取率調査週間である2009年6月12日夜に「さだまさしのセイヤング」、6月19日夜には「泉谷しげるのセイヤング」。として久々に放送が行われた。『夜明けが来る前に』(作詞:なかにし礼、作曲:鈴木邦彦、歌:スクールメイツ。別名:セイ!ヤングのテーマ)この曲は2種類のバージョンがある。『夜を横切る君には』(作詞:松本隆、作曲:吉田拓郎、歌:滝ともはる。(1979年4月? - ))。

出典:wikipedia

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