小松島線(こまつしません)は、かつて徳島県小松島市の中田駅から同市内の小松島駅までを結んでいた日本国有鉄道(国鉄)の鉄道路線(地方交通線)である。国鉄路線として最も営業キロが短い路線として知られていたが、1980年(昭和55年)の国鉄再建法施行を受けて翌年に第1次特定地方交通線に指定され、1985年(昭和60年)3月14日をもって全線廃止となった。小松島線は、当時から評価の高かった高松港に対抗して和歌山・大阪・神戸と徳島を直接結ぶ紀和航路あるいは阿摂航路の価値をより高めるために、深度が浅く大型船の入港が難しかった徳島港に代わって整備された小松島港と徳島間を鉄道で結び、利用増を目指して阿波国共同汽船(あわのくにきょうどうきせん)が建設した鉄道で、1913年(大正2年)の開業時から国が借上げて、小松島軽便線(こまつしまけいべんせん)として営業を開始した。1916年(大正5年)に、途中の中田を起点にして阿南鉄道(現・牟岐線)が開業。その翌年には、小松島軽便線は正式に買収・国有化され、1922年(大正11年)の軽便鉄道法廃止とともに徳島 - 小松島間が小松島線となった。1926年には小松島に検車区が新設され、1927年には徳島機関庫が廃止され、小松島機関庫が設置されたが、この時期は小松島が重要になっていたために機能を集中させるのが得策だったためと考えられる。1935年(昭和10年)には徳島 - 高松間に高徳線が開通、1936年には操車の都合で徳島に小松島機関区徳島支区を設置。徳島港も改良工事が進められた結果、徳島 - 本州間の運輸ルートが多様化、小松島港も競争力を向上させる目的で、1940年(昭和15年)、小松島港利用旅客の乗り換え利便性を向上させるために、小松島駅構内の小松島港乗船場に近い場所に小松島港仮乗降場を開設してこれに対抗した。1961年(昭和36年)、徳島 - 中田間が分離のうえ牟岐線に統合され、それ以来「国鉄最短の鉄道路線」となり、結果的にはこれが小松島線の存廃を決定することにもなった。またこの時小松島機関区も廃止され徳島支区は新設の徳島気動車区に吸収された。晩年に至るまで「よしの川」など徳島本線直通の優等列車が発着し、紀和航路を介して関西地区 - 四国の連絡路線の役割を果たした。また、小松島駅構内には小松島客貨車区および徳島気動車区の支区が設置され、徳島地区の交通の中枢となっていた。国鉄としても自動車の普及に伴う利用客の減少から、1968年(昭和43年)制定の赤字83線に含めたように、1960年代後半から同線の廃止を希望しており、「徳島県が同意を受け入れた際には、日本鉄道建設公団A線(地方開発線)の阿佐東線(現・阿佐海岸鉄道阿佐東線)のうち、ほとんど完成状態であった海部 - 宍喰間を国鉄牟岐線として開業させる」という交換条件まで出されていたが、結果的に同意は得られなかった。1981年(昭和56年)に第1次特定地方交通線に指定、1985年(昭和60年)に廃止されバス輸送に転換された。全駅徳島県小松島市に所在。事業者名・路線名等は廃止時点のもの。廃線跡は中田駅から小松島駅跡地の小松島ステーションパークまで遊歩道として整備され、遊歩道脇の中継信号機に往時の面影を見ることができる。当線は終点が仮乗降場となっている。通常、仮乗降場には営業キロが設定されず、仮乗降場発着の運賃は運賃計算経路の外方にある営業キロのある駅から(まで)の営業キロで計算するのが原則であるが、小松島港仮乗降場には運賃計算経路の外方に駅が存在しないので、小松島駅から(まで)の営業キロを用いて計算することになっていた。1982年(昭和57年)の衆院予算委員会の会議録によれば、小松島駅の取り扱い収入は年間で6,900万円であったが小松島線の乗車キロ分だけ分割し、2,200万円となった。小松島駅構内の車両基地の人員は機関区に71人、貨客車区には29人。小松島線の維持のため充当されていた人員は、“営業、運転、管理等含めましていまの基地の人数とか何かは別にいたしまして、直接その短い区間の仕事のために四十三人の人が配属されておる。”(高木文雄国鉄総裁の答弁)とのことである。小松島線の営業係数は1,572であった。小松島線の廃止に伴い国鉄最短路線は香月線(全長3.5km)となった。しかし香月線も小松島線廃止18日後の1985年(昭和60年)4月1日に廃止され、新湊線(当時全長3.6km)が国鉄・JR最短路線となった。なお、新湊線は貨物線であり、旅客営業を行う路線では桜島線(当時全長4.0km)が最短路線となった。その後、1996年(平成8年)に宮崎空港線(全長1.4km)が開業し、これが現在に至るまで最短路線となっている。
出典:wikipedia
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