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分部光嘉

分部 光嘉(わけべ みつよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。伊勢国上野藩初代藩主。天文21年(1552年)、北伊勢に勢力を持つ長野氏の一族、細野藤光の次男として生まれる。同じ長野一族の分部氏当主・光高に実子が無かったため、その養嗣子として後を継ぐこととなった。永禄11年(1568年)に織田信長が伊勢に侵攻して来ると、兄・細野藤敦と違って和睦を主張した。藤敦は光嘉の反対を押し切り安濃津城に篭り防戦しようとしたが、織田家に内応して織田信包に長野氏の跡を継がせるべく画策していた光嘉は主君・長野具藤に藤敦が織田家に寝返ったと讒言して、具藤に藤敦を攻めさせた。藤敦はやむなくこれを撃退し、永禄12年(1569年)、藤敦、光嘉らは具藤を追放して信包を長野氏の当主に迎え入れた。元亀元年(1570年)、信包の指示により、安濃津城の仮城として伊勢上野城を築城した。完成した安濃津城に信包が移った後は上野城は安濃津城の出城となったがその後も光嘉は伊勢上野城主として信包に仕えた文禄3年(1594年)、信包が豊臣秀吉によって改易されたが、光嘉は豊臣家の直参となり、伊勢上野城1万石を領した。慶長2年(1597年)、従五位下・左京亮に任じられ、豊臣姓を賜る.慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは徳川家康の会津征伐に従軍したが、西軍挙兵の報を受け急ぎ帰国し、上野城を放棄し手勢を率いて富田信高の安濃津城に入城し、共に守備した。8月24日に行われた安濃津城の戦いでは総勢3万の西軍に対して安濃津城に籠城する東軍は僅か1700という劣勢だったが、城方は奮闘した。光嘉は毛利家臣の宍戸元次と一騎討ちをし双方重傷を負ったと伝わる。しかし本丸以外を占拠され、戦いを継続するのは困難であったため、木食応其が仲介となって西軍と和平し安濃津城は開城した。光嘉と富田は一身田の専修寺へ退き、富田は剃髪して高野山にのぼった。戦後、その功により2万石に加増されたが、翌慶長6年(1601年)11月29日、安濃津城の戦いのときに受けた脇腹の傷がもとで死去した。享年50。

出典:wikipedia

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