筑前参宮鉄道(ちくぜんさんぐうてつどう)は、大正時代から昭和戦前期にかけて福岡県内において私鉄を建設・運営した鉄道事業者で、西日本鉄道(西鉄)の前身の鉄道会社の一つである。同社が建設・運営した路線は宇美線となったのち国に買収され、勝田線となった(1985年廃止)。1915年(大正4年)、国鉄吉塚駅を起点とし、南東の志免村を経由して宇美村に至る路線として計画された。この沿線は糟屋炭田の一角を占めており石炭産業が盛んであり、また吉塚駅の近くには筥崎宮が、宇美村には宇美八幡宮があるため、石炭輸送を中心に、参拝客輸送をも計画していた。当初は「宇美軌道」の名で軌道条例の適用を受ける軌道として出願されたが、軌道では石炭輸送に不利として軽便鉄道法の適用を受ける軽便鉄道に変更され、1915年4月9日に吉塚 - 宇美間および志免 - 席田(現在の福岡市博多区席田地区)間の免許が下付された。翌1916年(大正5年)6月18日に福岡市東中洲の博栄館において創立総会を行い、筑前参宮鉄道の名で会社が設立された。会社設立後、土地買収を経て1918年(大正7年)1月から建設工事が開始された。第一次世界大戦の影響による物価高騰により建設費がかさんだが、終点の宇美村勝田地区にあった勝田炭坑の運炭の必要性が差し迫っていたため、まずすでに開業していた博多湾鉄道汽船に接続させる形で宇美 - 筑前勝田間を突貫工事で建設し、1918年9月19日に開業させた。非電化で動力は蒸気動力を用い、軌間は1067mmであった。その後、資本金を75万円に増資し、1919年(大正8年)5月20日に残る吉塚 - 宇美間を開業、全通させた。筑前参宮鉄道は同じく糟屋炭田内に鉄道路線を持つ博多湾鉄道汽船の直接の支配下にあるわけではなかったが、博多湾鉄道汽船を経営していた太田清蔵は第一徴兵保険(のちの東邦生命保険)をも経営しており、第一徴兵保険は筑前参宮鉄道の大株主および大口債権者となっていた。そのため1941年(昭和16年)に改正陸運統制令が公布された際、鉄道省は博多湾鉄道汽船に対して筑前参宮鉄道を合併するよう要請した。しかし、太田は博多湾鉄道汽船と筑前参宮鉄道の2社のみを合併するのではなく、同じく福岡県内にあった九州電気軌道・九州鉄道・福博電車と博多湾鉄道汽船・筑前参宮鉄道の合併を提唱した。これにより5社が合併し、西日本鉄道が成立した。西鉄成立により筑前参宮鉄道の路線は宇美線となったが、1944年(昭和19年)5月1日に国に戦時買収され、勝田線となった。勝田線は1985年(昭和60年)4月1日に廃止されている。1927年(昭和2年)8月9日には子会社として筑前参宮自動車を設立し、バス事業を開始している。バスの営業区域は福岡市内、筑紫郡、糟屋郡などであった。西鉄成立時点では保有路線の総営業キロ108.3km、保有車両数27台であった。1931年(昭和6年)当時には蒸気機関車6両、客車10両、有蓋貨車3両、無蓋貨車65両が記録されている。西鉄成立時点では蒸気機関車6両、気動車3両、客車11両(二軸車6両、ボギー車5両)、有蓋貨車(ワフ)3両、無蓋貨車120両(横開車36両、石炭車84両)を保有していた。国有化時には、蒸気機関車6両、客車10両(ハフ2両、ホハフ5両、ミヤ3両)、貨車121両(ワフ3両、ト34両、セ26両、セム55両、セフ3両)となっていた。
出典:wikipedia
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