岳 飛(がく ひ、、崇寧2年2月15日(1103年3月24日) - 紹興11年12月29日(1142年1月27日))は、中国南宋の武将。字は鵬挙。相川湯陰(河南省湯陰県)出身。南宋を攻撃する金に対して幾度となく勝利を収めたが、岳飛らの勢力が拡大することを恐れた宰相・秦檜に謀殺された。その功績を称えて後に鄂王(がくおう)に封じられ(岳鄂王と呼ばれる)、関羽と並んで祀られている。岳飛は元々は豪農の出であったが、幼い頃に父を亡くし、生母の由氏に育てられたという。やがて21歳の時、北宋末期の1122年に開封を防衛していた宗沢が集めた義勇軍に参加した。岳飛は武勇に優れ、その中で金との戦いなどに軍功を挙げて頭角を現し、1134年には節度使に任命された。しかし、増大する名声が秦檜派の反感と嫉視を招くことになる。1140年に北伐の軍を起こすと、朱仙鎮で会戦を行い、金の総帥斡啜の率いた軍を破って開封の間近にまで迫るが、秦檜の献策により友軍への撤退命令が出され、孤立した岳飛軍も撤退を余儀なくされた。これは『宋史』の記録であるが、『金史』にこの会戦の記録はない。その後、秦檜により金との和議が進められる。それに対して、主戦派の筆頭であり民衆の絶大な人気を持った岳飛は危険な存在であり、1141年に秦檜は岳飛の養子岳雲、岳家軍の最高幹部である張憲に対し、冤罪を被せて謀殺した(表向きは謀反罪であった。軍人の韓世忠が「岳飛の謀反の証拠があるのか」と意見したが、秦檜は「莫須有(あったかもしれない)」と答えている)。この時、岳飛は39歳、岳雲は23歳だった。その背には母親によって彫られたとされる黥(入れ墨)の「尽(精)忠報国」の4文字があったという。後に(秦檜の死後)冤罪が晴れると、1178年に武穆と諡され、1204年には鄂王に追封された。杭州の西湖のほとりには岳王廟が建立され、岳王廟の岳飛・岳雲父子の墓の前には、彼らを陥れた秦檜夫婦・張俊らが縄で繋がれた形で正座させられている像が造られている。近年は当局により禁止されているが、かつては彼らに唾を吐きかける風習があった。岳飛は後代、救国の英雄として称えられた。現代でも中国の歴史上の英雄と言えば、まず岳飛の名前が挙がるほどである。以下の両名は、当時において岳飛の子孫とされた、ないしは称された人物である。
出典:wikipedia
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