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秋月種実

秋月 種実(あきづき たねざね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての筑前の武将・戦国大名。秋月氏の第16代当主。天文17年(1548年)、秋月文種(種方)の次男として誕生したといわれる。弘治3年(1557年)、父・文種や長兄の晴種が大友宗麟の猛攻を受けて自害したが、種実は家臣に連れられて古処山城落城寸前に脱出し、毛利氏を頼って周防山口に落ち延びた。永禄2年(1559年)1月、秋月氏の旧臣・深江美濃守は毛利氏の支援を得て、種実を居城に迎えると、古処山城を占拠していた大友軍を破り、秋月氏の旧領をほぼ回復した。種実の弟・種冬は高橋鑑種の養子として豊前小倉城に入り、種信は長野氏を継いで豊前馬ヶ岳城主となり、元種は香春岳城主となり、それぞれ大友氏に対抗した。秋月氏の名が史上もっとも現れるのは、この種実の代からである(ただし異説として、永禄5年(1562年)に将軍・足利義輝の仲介で大友宗麟と毛利元就が和睦した際、秋月種実も旧領に復帰したとされている)。永禄10年(1567年)、高橋鑑種が大友氏に反旗を翻すと種実も同調し、9月3日の休松の戦いでは夜襲を敢行し大友軍の精鋭を大いに討ち破った。この戦いで戸次鑑連(のちの立花道雪)の一族は大打撃を受け、鑑連の弟らが討死した。これにより毛利元就の九州侵攻も始まり、永禄11年(1568年)には立花鑑載が大友氏に反旗を翻すなど、一時は反大友勢力が優勢だったが、7月23日に立花山城が大友軍によって陥落され、永禄12年(1569年)5月28日に毛利軍も多々良浜の戦いで大友軍に敗れたため、8月に種実は大友宗麟に降伏した。天正6年(1578年)に耳川の戦いによる大敗で大友氏が衰退すると、種実は大友氏に再度反抗、龍造寺隆信や筑紫広門らと手を結んだ。さらに宗麟の暴悪「十ヶ条」を掲げて筑前とその周辺諸国へ触れ廻り、大友に背く者達同士で連判し合った。天正8年(1580年)2月には豊前の猪膝にて大友方の首級800を討ち取るなどした。しかし、種実の侵攻は立花道雪によって悉く退けられてしまう。天正12年(1584年)に隆信が沖田畷の戦いで敗死すると、代わって勢力を伸ばしてきた島津義久に従属する。大友軍の立花道雪が島津と龍造寺氏を挟撃しようという使者を出す前に、いち早く龍造寺と島津の和睦交渉の橋渡し役となり、なおも大友氏に反抗、島津氏と龍造寺氏の争いを回避し、島津氏が大友攻略に戦力を絞る役割を果たした。そして島津氏と大友氏の争いの中で種実は大友領を次々に侵食してゆき、最終的には筑前、豊前、筑後北部に36万石にも及ぶ広大な所領を有し、秋月氏の最盛期を築き上げる。天正13年(1585年)には島津氏の大友領侵攻に従って岩屋城を攻めた(岩屋城の戦い)。天正15年(1587年)に豊臣秀吉の九州平定の軍勢が九州へ進軍しようとした際は、講和の使いと称して敵情をさぐらせるべく重臣・恵利暢堯を秀吉の元へ派遣する。秀吉は恵利へ、降伏すれば種実へ筑前・筑後の二国を与え、恵利にも3万石を与えるとした。復命した恵利は、時代の流れを悟って秀吉に従うように諫言したが種実は恵利へ退場を命じ、島津家との義盟に従い秀吉との抗戦を宣告した。これを思い留めさせるべく恵利は諌死に及んだが種実は応じず、島津方に与して秀吉率いる豊臣勢と戦い敗北した。そして籠城中に秀吉得意の一夜城作戦(益富城)により戦意を喪失し、降伏することとなった。このとき、種実は剃髪し、楢柴肩衝と国俊の刀を秀吉に献上し、娘の竜子を人質に出したことにより秋月氏は存続を許されたが、秀吉の命令で日向財部(後の高鍋)3万石に減移封された。種実はその際、「10石でもいいから秋月に居たい」と嘆いたとする。失意の種実は、家督を嫡男の秋月種長に譲って隠居した。慶長元年(1596年)9月26日、高鍋で死去。享年49。

出典:wikipedia

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