愛甲 猛(あいこう たけし、1962年8月15日 - )は、神奈川県出身の元プロ野球選手(内野手、外野手、投手)・俳優・実業家・野球評論家。選手時代はロッテ、中日に在籍。ロッテでは主に主軸を打ち、中日では代打の切り札として活躍した。連続フルイニング出場のパ・リーグ記録保持者(歴代5位)。小学校のころに野球を始める。体が成長し始めた中学時代は身体能力の高さからバレーボールやバスケット、水泳などにも誘われるほどだった。横浜高校では1年生から左腕エースとなり、の第60回全国高等学校野球選手権大会に出場。エースで3番打者を務めた3年時のの第62回全国高等学校野球選手権大会では決勝戦でアイドル的な人気を得ていた早稲田実業のエース、荒木大輔に投げ勝ち優勝。本人は地元である横浜大洋ホエールズか西武ライオンズへの入団を希望していたが、同年のドラフト会議でロッテオリオンズから1位指名を受ける。もし大洋から指名されなかった場合は社会人のプリンスホテル硬式野球部を経由して西武に入団するという密約を西武と結んでいたため、ドラフト後の記者会見で「ロッテにはいきたくありません」と発言してしまい、露骨に嫌な表情を浮かべた写真や映像が知られることなった。しかし、他の指名選手に遅れて入団。入団発表での記者会見で「野球をやめたら吊るしの洋服屋がやりたい」というコメントを残す。入団後は高橋博士のものだった背番号1を与えられた。また愛甲を目当てに多くのファン、とりわけ女性が(後述)キャンプや試合に訪れた。プロでは投手としてスタートするが、1勝もできず伸び悩む。4年目のからは野手に転向。チームの主砲落合博満に弟子入りして打撃技術向上に取り組む。落合に受けた自主トレはスパルタ教育そのもので、余りの厳しさに愛甲がつい「これでも甲子園優勝投手ですよ」とこぼすと、落合は「そんなに甲子園がいいなら甲子園に帰ればいい」と一喝。愛甲はこれでプライドを捨てる事ができたという。落合は厳しい指導の反面、愛甲を可愛がり、行動を共にすることが多かった。打者転向に一番大きな役割を果たしてくれたと愛甲は自著『球界の野良犬』で語っている。またこの自著によると、当時のロッテは落合派と有藤派に分かれているとされ、打者として頭角をあらわして以降の愛甲は落合派の代表とみなされたが、「お互い一匹狼のオチさんと自分が派閥なんてつくるはずはなかった」と反論している。野手転向3年目のから一塁手としてレギュラーに定着。強肩を買われ外野手を務めることもあった。にはチームの主軸として初の二桁本塁打を記録。10.19のダブルヘッダー第1試合では初回に小野和義から先制2ランを放った。には打率3割を記録し、ゴールデングラブ賞も獲得。 1988年6月25日から7月11日にかけて535試合連続フルイニング出場を続け、パ・リーグ記録(セ・リーグも含めると歴代5位)となっている。なお、連続フルイニング出場が途切れたのは、1992年7月11日に5打席5三振(1試合の三振日本タイ記録)の上に、決勝点の要因となる悪送球を犯して翌日はスタメン落ちしたためである。それでも、1987年10月20日から続けている連続試合出場は継続し、1993年6月6日まで694試合連続出場(当時パ・リーグ歴代5位)を記録した。なお、愛甲の自著によると、連続試合出場が途切れたのは当時の八木沢荘六監督が起用を忘れていたためであるといい、その振る舞いに失望した旨が記されている。、不調に陥りチーム構想を外れ、シーズンオフに無償トレードで中日ドラゴンズへ移籍。中日では主に代打の切り札として活躍。には代打起用ながら打率.387と勝負強さを見せ、リーグ優勝に貢献。9月30日、マジック1で迎えた神宮球場の対ヤクルト戦で、彼が代打で打席に立っている時に2位巨人が敗れて優勝が決まり、スタンドが大きくどよめいたが、直後に見事一二塁間を抜くヒットを放った。翌限りで現役を引退。その後、飲食店経営やサラリーマンなど職を転々とする。タレント時代には映画(Vシネマ)に端役として出演。一時期はプロ野球マスターズリーグにも参加した。2002年には失踪騒動が起こる。様々な憶測を呼んだが、本人は「3日ほど温泉に行っていただけ」と語っており、タレントとして契約していた芸能プロダクションとのトラブルにより、失踪という報道が出てしまったのが原因と主張した。2006年からは独立して東京都の錦糸町で化粧品・サプリメントの企画会社を経営、現在に至る。2008年からは雑誌スコラで、野球コラムを連載している。2014年、連載を持つ雑誌BUBKAにて左人差し指に血行障害を患っていたことが発覚。早期発見のため大事には至らず、現在は完治した。現在は、ニコニコ生放送において高校野球及びプロ野球の解説を行う他、歯に衣着せぬ辛口の評論家として活躍している。高校時代は彫りの深い端正な顔立ちと野球の実力を兼ね備えたことから、特に女性の間で絶大な人気と知名度を誇った「甲子園のアイドル」だった一方、悪童としても知られた。中学時代から不良の道にも精を出し始め、タバコ、女、シンナー、万引き、暴走族など、悪いと言われる事は全てやったという。横浜高校へは授業料免除の特待生で、寮生活の野球漬けのはずが、高校2年まではタバコ、女、シンナーをやっていた。しかし、3年の時に本気で甲子園での優勝を目指してタバコ以外は断った。高校時代のあだ名は「あんぱん」であったという。高校卒業間際には暴行事件が発覚。愛甲はチームメイトや関係者らに謝罪したが、横浜高校はこの一件が原因で対外試合禁止処分を受け、春の大会に出場できなかった。甲子園優勝投手の暴行事件として反響を呼んだ。下宿先の渡辺元監督宅の電話を毎晩夜遅くまで使い、そのために渡辺家の電話代は通常の何倍にもなってしまったが、当の渡辺監督は「それで愛甲が立ち直ってくれるなら」と、黙認していた。当時の横浜高校野球部内でのイジメ、シゴキについて、「他の学校は知らないけど、自分の時代は、1年生はゴミ、2年生は人間、3年生は神様だから。周りには3年生から『コーラ買って来い』と言われ、平仮名で『せんえん』って書かれた紙キレを握りしめて買いに行ったヤツもいた。砂利の上に正座させられての説教なんて日常茶飯事。自分が入学する前の出来事だと、コーラの王冠を後輩の頭の上に乗せて、王冠目がけてシューズでパッカーンと殴る先輩も」と語る。当時の野球部のモットーは『根性とハッタリでは負けるな』。遠征試合の時は全員が“ドカン”っていう太いズボンをはいて行く。試合前の挨拶で両校が整列する時は『相手よりあとに集合して、相手が引き揚げるまで帰ってくるな。相手からは絶対に目を離すな』と言われていた。余りの練習の辛さにバーベルを自らの足に落とし骨折させ練習を休む者、2階から飛び降りて両足を折り、練習を休もうとする人など、故意に怪我をする人間が多発したという。甲子園での優勝後は、「優勝パレードの翌日にスナックで酒を飲んでたら、知り合いの社長が来て、一緒に堀之内のソープに行った。あの時は待合室にお姉さんたちが集まって、サイン会になった」とういう。甲子園で優勝した後は周りの扱いが変わって、授業中に別室に呼び出されて色紙にサインを書かされた。お茶やお菓子を出されて、なんならタバコも吸うかと言われた。ドラフト前にはプリンスホテルや西武の関係者と接触を持っていた。小遣いとして毎回10万円をもらい、ソープなどの接待も受けたという。社会人チームであるプリンスホテルからは異例の4000万という支度金を提示されたが大洋を希望していて、大洋でなければプリンスホテルと考えていた。ロッテに1位指名されたが大洋を希望した事もあり嫌な表情を浮かべ、ロッテ関係者が挨拶に来た日には女との先約があったのですっぽかしたそうである。ロッテに指名された瞬間とは違い、入団後は特に不満を漏らすことはなかった。名実ともに「ロッテの顔」となった打者転向後はファンサービスにも熱心であった。後に1990年のドラフトで小池秀郎がロッテの1位指名を拒否し(その後近鉄に入団)、「ロッテにだけは行きたくない」と発言した話を聞くと「あんな風に公に批判をするもんじゃない。もし、僕が彼の先輩だったらぶん殴ってやりますよ」と憤った。1989年は一時期、打率.330を超え首位打者争いをするなど絶好調だったが、シーズン終盤に調子が急落。3割すら切りそうなほどのスランプにあえいだが、ある試合で松永浩美に「サードに転がせばヒットにしてやるよ」と言われたことをきっかけに内野安打で出塁。調子を取り戻し、3割を達成した。ロッテが川崎球場から千葉マリンスタジアムに本拠地を移した1992年、2試合だけ川崎球場での公式戦が組まれた。愛甲はこのうち7月4日の近鉄戦で高村祐から本塁打を放ったが、その本塁打が、川崎球場の一軍公式戦での最後の本塁打になった。ロッテ時代の応援歌にソルティー・シュガーの「走れコウタロー」が使われていた。まだ球団名がロッテオリオンズだった川崎球場時代と、千葉移転初期のピンクのユニフォームだった頃に、一人だけ背番号の1が「下部に横棒の付いた1」であった。夫人とはロッテ時代にJR横須賀線の車内で出会った。酔っ払いに絡まれ、偶然愛甲の隣の座席に逃げてきた現夫人に電話番号を書いた紙を渡したことをきっかけに、後日きた彼女からの返事で交際が始まった。2009年8月、娘が千葉マリンスタジアムで売り子のアルバイトをしていることが報じられた。これは自らの著書でも触れられている。長男は、2012年に日本野球連盟に新規加入したTOKYO METSに所属している。打撃では勝負強いバッティングを武器に主軸を打っており、1988年から3年連続で2ケタ本塁打を放つなどしたが、21本を放った1990年は低打率だったため、それ以降は安打性のバッターに変わった。守備は一塁手を中心に外野手もこなした。1989年にはゴールデングラブ賞を獲っている。股関節が柔らかく180度開脚して送球を受けることができた。かつては頑丈な選手としても知られ、535試合連続フルイニング出場のパ・リーグ記録を持っている。週刊誌などで自らの薬物使用を何度も告白している(週刊現代2001年4月発売号、SPA!2008年発売号、週刊新潮2009年7月23日号)。それらによると、中日時代の1990年代末に体力の衰えをカバーするため、ホルモン剤の「アンドロステンジオン」を服用したという。薬を使ったトレーニングの効果として、すべての力、体力、持久力、精力が異常に強くなった。副作用に関しては「引退(2000年)の2年前から、激しい動悸が起きるようになったため量を減らした」「引退から3カ月ほど経ったころ、足が異様にむくんだりして、病院で『静脈血栓』と診断され、即入院を言い渡された」など、薬物の危険性を語っている。結果的に薬物の使用による副作用で故障がちとなり、選手寿命を縮めることになったが、著書では「後悔はしていない」とも述べている。なお、自身が「プロテインを使用したトレーニングなど様々な肉体改造を模索した末、医師と相談した上でマーク・マグワイアと同じアンドロステンジオンを服用した」と語るように、当時はドーピングに対する禁止規定や批判は少なく(アンドロステンジオンは当時サプリメントとしてアメリカ国内で合法的に販売されていた)、自身もアナボリックステロイドの副作用やフローレンス・グリフィス=ジョイナーの急死事件を考慮するなど、当時の時代背景で認められる範囲の使用であったことも語っている。後にバルコ・スキャンダルなどを発端としてドーピングに対する目が厳しくなる中、「昔は認められたが現在は認められない行為」として自身の体験を引き合いにドーピングの危険性について警鐘を鳴らす機会も増えている。
出典:wikipedia
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