久米島町(くめじまちょう)は、沖縄県島尻郡の町。沖縄県で5番目に大きい島である久米島及びその周辺にある奥武島、オーハ島、鳥島と、沖縄県最北の島である硫黄鳥島とを行政区画とする。2002年4月1日に具志川村と仲里村が合併して発足。サトウキビ農業やダイビングスポットとしての観光産業が盛んであるほか、海洋深層水を利用した保養施設の建設、食品の開発などを進めている。2005年からは久米島町営仲里野球場、2006年からは久米島野球場が2球場とも日本プロ野球の球団である東北楽天ゴールデンイーグルスのキャンプ地となった。沖縄本島の西側にある。久米島を中心に、奥武島、オーハ島、一着島、「鳥島射爆撃場」のある鳥島などの小島と、硫黄鳥島(鳥島)もその行政区分に加わる。島の区分では高島に属し、島の北側に宇江城山系、南側にアーラ山系が連なる。水系は豊かで、宇江城山系に水源をもつ白瀬川などがある。下地原洞穴遺跡で1.5-1.6万年前の乳幼児の人骨が見つかっており、旧石器時代にヒトが生活していたことは分かるが文化的な様相は明らかでない。縄文時代にあたる時期(貝塚時代早期-中期)は縄文時代後期(貝塚時代前期)から、通称「大原砂丘」一帯と、旧具志川村の北西海岸の台地上一帯に遺跡群が形成される。弥生時代から古墳時代(貝塚時代後期前半)は砂丘上に遺跡が形成される。特にこの時期は九州との交易が確認され、沖縄諸島全体では40ヶ所の遺跡から弥生土器が出土し、久米島では清水貝塚や北原貝塚から弥生土器が見つかった。また、漢代の五銖銭が見つかっていて、これは中国から直接もたらされたという意見もある。古代(貝塚時代後期後半)も砂丘状に遺跡が形成されるが、様相は明らかでない。この時期にも唐代の開元通宝が見つかっており、貨幣として用いられたという意見がある。また、この時期には沖縄諸島で農耕が始まったと考えられるが、久米島では不明である。グスク時代(12-15・16世紀)には久米島でも山間部などにグスクが築かれる。代表的なグスクは宇江城グスク、具志川グスクがあり、いずれ琉球王国による統一で廃城となった。これらのグスクからは中国や東南アジアの陶磁器が見つかっている。近年、久米島東部のハテの浜一帯から見つかる12世紀ごろの陶磁器が、当時の交易ルートなどを知る上で注目される。久米島が文献に現れるのは『続日本紀』で、714年に来朝した「球美」人が久米島のこととされる(球美=クミとは琉球方言で「米」を意味し、米所の久米島を指すと考えられる)。そして、1264年に中山への入貢が行われたと記される。2002年の合併は、沖縄県における平成の大合併の第1号で、具志川村と仲里村の2村が合併した。庁舎は旧具志川村・仲里村の庁舎をそれぞれ用いる分庁方式を採用している。主要な産業は観光業と農業である。観光業は、ハテの浜などに代表される美しい海岸と珊瑚礁の海へのダイビングなどを目玉に、県外からの観光客が多く訪れている。観光客向けのイーフビーチホテル、サイプレスリゾート久米島、リゾートホテル久米アイランドなどの宿泊施設も数多く存在する。観光協会も積極的に広報活動をし、積極的な観光客の呼び込みを図っているが、歴史的経緯から難しい局面もあり、本土からの観光客との間でトラブルが起こることもあり得ることから、今後の対応が注目されている。農業は主にサトウキビ・肉牛・キクの栽培が中心である。かつては水田が広がる米所であったが、アメリカの施政下においてサトウキビ栽培の奨励策がとられたことや、復帰後の減反政策により、現在は殆ど栽培されなくなった。久米島は良い水に恵まれており、泡盛の生産も盛んである。また、近年では海洋深層水を利用した産業振興が行われており、2000年には沖縄県の海洋深層水研究所が設置され、2004年には海洋深層水を利用した温泉療養施設、バーデハウス久米島がオープンした。また、海洋深層水から作られた塩・海洋深層水を利用した食品などの開発も盛んである。(2013年10月現在)
出典:wikipedia
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