郡山城(こおりやまじょう)は、奈良県大和郡山市にあった日本の城。豊臣政権の中初期には秀吉の実弟羽柴秀長の居城となり、その領国であった大和・紀伊・和泉100万石の中心であった。江戸時代には郡山藩の藩庁が置かれた。10世紀後半、郡山衆が雁陣の城を築いたという記録が郡山城の初見とされる。奈良時代には薬園が営まれていた。郡山城は、秋篠川と富雄川の中間に突き出た西京丘陵南端上に位置する。平山城または平城として明智光秀や藤堂高虎らが普請に携わり、筒井順慶や羽柴秀長らの主導によって改修された。奈良は良質な石材が乏しかったため、奈良一帯の各戸に五郎太石20荷の提供を義務付け、寺院の石地蔵や墓石、仏塔なども徴発され石垣石として使用された。中には、平城京羅城門のものであるといわれる礎石が使われていたり、8世紀ごろの仏教遺跡である「頭塔」(奈良市)の石仏が郡山城の石垣の中から見つかっている。17世紀初頭、増田長盛が改易された後一時廃城となるが、水野勝成入封時に徳川幕府よって改修を受けた。その後は譜代大名が歴代城主を務め、柳沢吉里が入封後は柳沢氏が明治維新まで居城とした。桜の名所として、日本さくら名所100選に選定されている。この城の築城時期は、1162年(応保2年)の『東南院文章』に、とある。「狼唳之輩」とは郡山衆を指しており、雁陣の城を築いていると記載している。この当時の城は盛り土と柵をめぐらした環濠集落のようなものであった。また1300年(正安2年)には「郡山庄」が独立しており、この時から「郡山」という名が現れた最初となる。郡山城の最初の攻城戦は、永正3年(1506年)の夏、赤沢朝経軍が大和国に侵攻して、各諸城を落城していった。この時、宝来衆、西京衆、生馬衆、そして郡山衆らを称して西脇衆として郡山城に立て篭もった。同年8月24日赤沢朝経軍は数千の兵力で取り囲み、郡山城兵も城を出て戦ったものもあったが、圧倒的兵力の赤沢朝経軍は、多くの武将が討ち取り、その中には宝来九郎なども含まれた。『多聞院日記』に、と記載されている。その後郡山衆は、筒井城を本拠に地に持つ筒井氏に与したり、越智氏に属したり離合集散を繰り返してきたが、1559年(永禄2年)松永久秀が大和国に侵入してくると、当時郡山城の城主であった郡山辰巳は松永久秀軍に属して筒井氏から離反していく。筒井城の戦いで筒井城が松永久秀軍に属すると、郡山城は福住中定城と共に筒井順慶軍の拠点となっており、元亀元年(1570年)3月から元亀2年(1571年)8月まで松永久秀、松永久通親子の攻撃をうけていた。松永久秀軍は、郡山城の四方に付城を築き、時間をかけて攻める攻城戦を行っていた。同年8月4日辰市城の合戦で、松永久秀軍と決戦となった時、筒井順慶増援軍は一旦郡山城らに集結してから辰市城に出軍した。その後、筒井順慶が織田信長の援助を得て、天正8年(1580年)11月大和国守護となると郡山辰巳は殺され、家来衆はそのまま筒井順慶に組み込まれた。その少し前、天正7年(1579年)8月に、多聞山城の石垣を運んだりし、筒井城を拡張していたが地形の不利から筒井城をあきらめ、郡山城を本城とする改修を開始し天正11年(1583年)4月に「天守」が完成 する。織田信長は天正8年(1580年)8月に破城令を出し大和国では一城とし、筒井城もこの時に破却して郡山城の一城のみとなった。『郡山城と城下町』によると「織田信長は大和に争乱の時代が終わったことを示そうとしていた」と解説している。1581年(天正9年)から明智光秀が普請目付として着手し、大規模な近世城郭として工事が開始され、奈良の大工衆を集めたことが記録されている。しかし、その筒井順慶も1584年(天正12年)に死去すると、養子の筒井定次は豊臣秀吉の命により伊賀上野城へ転封となった。1585年(天正13年)豊臣秀吉の弟豊臣秀長が大和国・和泉国・紀伊国三ヵ国100万石余の領主として郡山城に入る。秀長は城を100万石の居城に相応しい大規模なものに拡大し、城郭作りや城下町の整備を急いだため根来寺の大門を移築したり、当時大和は石材に乏しかったために、天守台の石垣には墓石や石仏(地蔵)までも用いられている。本丸、毘沙門曲輪、法印曲輪、麒麟曲輪、緑曲輪、玄武曲輪等の曲輪が多く普請され、大規模なものになった理由として、豊臣秀長の居城として以外に、大坂城の防衛の城としても重要であったと考えられている。また天守台には5層の天守が建っていたとの伝承があるが、『郡山城と城下町』によると「伝承でいわれるような五層の天守閣が建っていたかどうかは疑問です」とし、建築学的にはもう少し小さなものではなかったとしている。また城下町を大いに発展させ、同年奈良の市中で行われていた商売をやめさせ、郡山城の城下町に集中させた。『郡山惣町日記』によると、本町、魚塩町、堺町、柳町、今井町、綿町、藺町、奈良町、雑穀町、茶町、材木町、紺屋町、豆腐町、鍛冶屋町の14町がみられる。このうち最後の鍛冶屋町は枝町となり、城下町の基本はそれ以外の「箱元十三町」とされ、これらの町名は現在も残っている。豊臣秀長書状は壽福院に宛てた書状で、内容は豊臣秀長が着任した翌天正14年(1586年)3月筒井順慶の廟所や山林、筒井城の跡地等を壽福院に与える、としている。筒井定次が伊賀国に入封後、筒井城破却後の跡地や周辺の山林は壽福院に与え、筒井城があった添下郡の筒井村周辺は豊臣秀長が着任後も大きな変化はなかったと考えられている。1591年(天正19年)豊臣秀長が没し、その養子豊臣秀保も1595年(文禄4年)に急死すると、大和大納言家は断絶し100万石城の時代は終了する。五奉行の一人増田長盛が22万3千石の領主として入城する。このとき約48町13間(後に50町に拡張)に及ぶ堀と土塁で城下町を囲む壮大な惣構えが構築され郡山は城郭都市の様相を呈するに至った。関ヶ原の戦い後に増田長盛は高野山に追放となり、郡山城の建築物は徳川家により伏見城に移築された。城地は奈良奉行所の管轄下に入り大久保長安が在番した。徳川家康は筒井一族の筒井定慶には1万石と、その弟筒井順斎には200石を与え、その上で与力衆36名を預け、郡山城に入城させた。大坂冬の陣が終結し大坂城の内堀が埋め立てられ、再度の東西決戦の雰囲気となった際、豊臣方の使者細川兵助が郡山城に出向いて、筒井氏に合力を求めてきた。豊臣方が出した条件は「兵1万を直ちに送る。戦勝した時には筒井定慶には大和国を、筒井順斎には伊賀国を与える。但し徳川方に付くのであるならば攻撃を開始する」という内容であった。細川兵助は必死の説得を続けたが、(途絶えていた名跡を復活させてもらった徳川家康に高恩を感じていたのか)筒井家は大坂方の条件・要請を断った。元和元年(1615年)4月26日、豊臣方は大野治房、箸尾高春、細川兵助ら2千余の兵を出陣させ、暗峠を越えて郡山城に迫ってきた。これに対して筒井定慶は、筒井順慶時代から恩義のある浪人衆、農民衆、商人衆を集結させ、数だけは1千兵程度になった。大坂方(豊臣軍)は松明を掲げながらの夜間行軍であった。筒井軍は戦馴れしておらず、故に大坂方の実兵よりも多くの兵に見えたため、物見は“3万の大軍”と筒井定慶に報告した。このような大軍では迎撃するのは不利と判断したのか、定慶は郡山城を撤収し福住中定城へ移動した。この動きに筒井順斎は「腑甲斐無し」と激怒し手勢に徹底抗戦を命じたが、総大将の定慶はすでに落延びており従う者は殆どおらず、自身もわずか4,5名の共の者と興福寺に落ち延びた。翌27日未明、大坂方は九条口と奈良口の2隊に分け攻城を開始した。郡山城にはわずかな兵が残っており、30人が討ち取られ、城下町の各方面に火が放たれた。その後大坂方は奈良方面に進軍し徳川方への備えを敷いたが、徳川方が奈良方面に進軍しているとの報を受けると、大坂城に引き上げていった。福住中定城で1000兵余りで防備を固めていた筒井定慶軍は、大坂夏の陣で大坂城が落城すると、一戦もすることなく郡山城を捨てたことに後悔し、大坂城が落城してから3日後の同年5月10日、弟の筒井順斎に遺書を残し切腹した、とされる。『戦国合戦大事典』では「表向きは自害と称して、蟄居するうち病死したという説もある」という別説も紹介している。同書では筒井順斎も兄を追って自殺したとされている。郡山城の戦いの後、水野勝成が同年7月19日三河国の刈谷から6万石で移封し、荒廃した城郭の修築を行った。石垣や堀の修復は公儀普請とされ、本丸と二ノ丸、三の丸の一部と家中屋敷の修復は水野氏の手で行われた。水野勝成は修復途中の元和5年(1620年)8月に備後福山に転封となった。その後松平忠明が12万石で入城した。松平忠明も郡山城の復興に取り組み、二ノ丸屋形の造営をはじめ、伏見城の鉄門、一庵丸門、桜門、西門などが移築された。しかし松平忠明も1639年(寛永16年)に播磨姫路に転封された。次に郡山城に入ったのが本多政勝で、15万石で入部した。この時期に本丸、二の丸屋敷、城門、角櫓など城郭の主要部分が完成した。武家屋敷、町屋ともに発展し、延宝年間には城下の家数は4700軒、人口は2万人を超え、郡山城下の最盛期となった。しかし、1671年(寛文11年)に本多政勝が死去すると「九六騒動」という家督相続に伴う御家騒動が起こった。息子二人の争いに徳川幕府の裁定が入り、二人に対して分割相続とされ、それぞれが転封となった。その後、明石藩から松平信之が8万石で入城した。この時期の1680年(延宝8年)城下町に大火がおこり670軒が焼失した。松平信之が老中に任命されると、江戸に近い下総古河藩に加増転封となり、次いで本多忠平が12万石で入城した。その後本多氏が数代続いたが、本多忠烈が若年相続を理由に5万石に減封とされ、家臣団の大人数解雇および武家屋敷などの大々的な取り壊しも行なわれた。さらに享保8年(1723年)11月27日に忠烈が8歳で死去すると本多氏は御家断絶とされた。1724年(享保9年)に柳沢吉里が甲斐甲府藩から15万石で移封され、城下町の整備に努めた。この頃の城下町の様子が『郡山町鑑』にみえる。柳沢氏が入封して以降、郡山城は安定した時期を迎えていたが、1787年(天明7年)に大飢饉が発生、城下町の民家を群衆が打ち壊し、米穀を奪い取る騒ぎが起こる。安政5年(1858年)12月1日、郡山城二ノ丸付近から出火し、住居関係の建物群は全て焼失する大火にみまわれた。1861年(文久元年)に再建に着手するが、明治維新を迎え、1870年(明治3年)に藩は今後城の修理を行わないことを出願し、これが明治新政府に聴許された。のち1873年(明治6年)郡山城は破却された。この際に櫓・門・塀などの建築物は入札によって売却され運び去られたものの、石垣や堀の多くは今も往時の姿を留めている。城下の永慶寺に城門が山門として移築され、現存している。また柳沢神社創立時に植えられた桜は日本さくら名所100選にも選ばれ、毎年4月1日から行われる「お城まつり」には多くの花見客でにぎわう。城跡は1881年(明治14年)に旧郡山中学校の校舎が二ノ丸に、旧郡山園芸高校が麒麟曲輪に建設されるなど、大きく姿をかえた。長らく荒廃していた郡山城であったが、1960年(昭和35年)7月28日、本丸と毘沙門曲輪が奈良県指定史跡となり、1983年(昭和58年)に追手門が、翌1984年(昭和59年)追手東隅櫓が、1987年(昭和62年)には追手向櫓が市民の寄付などにより復元された。復元櫓と復元門郡山城では、城内や城下町を含め大和郡山教育委員会や橿原考古学研究所らが1979年(昭和54年)以降、40回以上の発掘調査が実施され、一定の成果を収めている。文献などの間を埋める遺物、遺構が発掘され郡山城の実像を解明されつつある。郡山城の歴史は古く、各時代によって大きく改修が重ねられた。近年の発掘調査などから各年代毎の城史が明らかになりつつある。第11次、及び第13次発掘調査から雁陣之城時代の城として三の丸にある麒麟曲輪周辺に、濠で囲まれた方形館が存在していたと考えられている。また新宅曲輪(緑曲輪)では地鎮遺構が検出されているので、筒井、松永の抗争記の遺構が周辺に存在している可能性が指摘されている。明確にこの時期と断言できる遺構は発掘できていないが、遺物としては、多聞山城から流用された軒平瓦や安土城と同文の軒平瓦が、復元追手東隅櫓周辺から出土した。これにより、筒井時代の城としては追手東隅櫓周辺に存在していた可能性を示している。『郡山城および地下の発掘調査について』では「筒井期の城下の拡がり自体が案外に小規模であった可能性もあるだろう」としており、筒井順慶が筒井城から郡山城へ移った時の城郭は、それほど大規模なものではなかった可能性があると記している。この時代の遺物、遺構の検出は多くみられる。追手向櫓の礎石列、麒麟曲輪や追手門の遺構もこの時代である。しかし二ノ丸時代の同時代の該当発掘例はなく、二ノ丸は豊臣時代以降に開発された可能性がある。城下でも同時代の遺構が発掘されたが、礎石建物や大規模な整地の痕は認められていないので、大規模な城下町が整然と建てられた可能性は低いと考えられている。平成26年9月、教育委員会が天守の遺構や瓦を発掘したと発表した。大小の礎石の大きさや並びから建物の加重を分散・軽減する構造であったと推測されている。両時代の在城時期は短く、同時代の明確な遺構は殆ど確認されていない。城郭関係では、緑櫓の検出遺構や三の丸の池状遺構がある。また城下では大規模な盛土地業や礎石建物も出現する。また同時代の武士の墓も出土しており、埋葬形態を具体的に把握した。城郭関係では、第13次調査で検出された二ノ丸屋敷の遺構がある。城下では非常に多くの調査例があり、金魚池遺構や廃棄土抗から大量の桟瓦が出土していることから、城下町の桟瓦の一般的な使用は柳沢時代以降であると考えられている。
出典:wikipedia
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