広島電鉄1900形電車(ひろしまでんてつ1900かたでんしゃ)は、1978年に京都市電(京都市交通局)より広島電鉄に移籍、在籍中の路面電車車両である。1977年10月の河原町・七条線廃止時に1904・1908号が先行して移籍。京都市電全廃止後の1978年9月以降に残りの全車が移籍した。1916号から始まっていた車両番号を1901 - 1915号に整理している。正面部は行先表示器の大型・電動化、京都時代に付いていた「ワンマンカー」行灯の撤去、運転台の窓下に青色のワンマン表示板が設けられたほか、ヒサシの取付、中央窓のHゴム化が行われた。当時の広島電鉄の車両は正面腰部に黄色菱形の警戒塗装が行われたが、1900形については行われず、1980年代は広告車両としても多く使われていた。側面部はベージュ一色だったドアを塗り分けに変更。前後戸改造時に埋められていた中扉脇の広い吹き寄せに車掌用小窓の取付。1908号以外は旧後扉部の締切窓を開閉できる様に改造された。現在でも京都市交通局の局章をあえて各車両ドア付近に残している。オレンジ色の帯はは1908号の登場当初、京都時代よりも明るい色で配されたが、後に現在の色に変更された。前面・側面の系統板受け下部の広告を取り付ける部分に、1両ずつに京都にちなんだ愛称板を取り付けた。最初に登場した1908「あらし山」と次の1904「かも川」(実車の表記はひらがなを用いている)は広電が命名したものだが、三例目以降は広電が選んだ京都にちなむ地名20候補から、利用客に対するアンケート投票を実施。約9000通を集めた中から上位を占めた「嵯峨野」「祇園」など13点が採用され、各車両に掲出された。車体の全面的な補修も行われた。屋根上部は、集電装置をビューゲルからZパンタに交換。台車、電動機などの駆動部は京都時代のままで使われた。登場当初は中扉について各車で違いがあり、1901・1903 - 1905・1907 - 1910・1914については木製タテ棧2本、1906号については木製タテ棧なし、1902・1911 - 1913・1915号については軽金属製であった。2000年代に前扉・中扉ともアルミ製に交換された。路面電車としてはかなり早い段階で冷房改造が行われた。最初に1980年の運転開始当初より1901・1913号は富士電機直流駆動方式(25,000kcal/h×1)で改造。構造は、バス用クーラーのコンプレッサーを直流600Vモーターで駆動する構造であった。翌年の1981年7月に1902 - 1904号の3両が、三菱電機のCU127分散型(10,500kcal/h×2)で改造。1982年に残りの全車が、三菱電機の直流交流変換駆動方式(三菱MDA方式)CU77A集中型(21,000kcal/h×1)で冷房改造された。その後、三菱MDA方式による冷房改造は標準的な物になっている。前述の1901・1913号はクーラーユニットが屋根上などに見当たらず、非冷房車との識別が外見上困難な特徴があった。しかし構造が特殊であることと冷房能力に問題があり、後日CU77形に換装された。ただし、他のCU77形を搭載する車両は冷房補機を床下に置くが、1901・1913号に関しては、冷房補機を屋根上に置く形に変更された。「ワンマン」表示は現在、正面左側の窓の内側に路線バスと同じ仕様となっている。2000年代には、落雷事故を受けて避雷針が更新された。また、砂撒き設備が車掌台の場所に設置された。 5000形とともに1900形にも砂撒き装置が取り付けられている。愛称板については2001年頃から掲出を止め、系統番号のプレートとその愛称板を掲出する台だけが残された時期があったが、2006年3月に愛称板を新調し復活。現在も使用されている。出口の構造が広く収容力も充分で乗務員の評判が良い事から、旧型車の淘汰が進む中、現在でも全車が健在で、広電時代のほうが京都時代よりもはるかに長くなっている。形式別に見た広電への譲渡車両としては、最も多く所有する車両である。2016年2月現在、1901号~1910号が千田車庫に配属され主に3号線・5号線の運用に就き、ラッシュ時では1号線の運用にも就く。1911号~1915号が江波車庫に配属され主に7号線・8号線・9号線(白島線内折り返し)の運用に就き、ラッシュ時では6号線の運用にも就く。旧型車の淘汰が進む中、この形式は日中でも頻繁に運用されている。1910号~1915号については9号線直通(白島-八丁堀-江波)の方向幕にも対応している。書籍により、京都時代の車番について異説が存在する。
出典:wikipedia
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