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ジョホールバルの歓喜

ジョホールバルの歓喜(ジョホールバルのかんき)は、1997年11月16日、マレーシアのジョホールバルでサッカー日本代表が1998 FIFAワールドカップ・フランス大会のアジア最終予選のアジア第3代表決定戦をイラン代表と戦い、勝利を収めたことによりFIFAワールドカップ本戦初出場を決めたサッカーの試合の日本における俗称である。1998年W杯のアジア地区の出場枠は3.5。アジア最終予選は10チームがA・B組の2組に分かれ、それぞれホーム&アウェー方式にてリーグ戦を行い、まず各組1位の2ヵ国が本大会出場権を獲得。各組2位同士で第3代表決定戦を行い、この勝者が3番目の本大会出場権獲得。敗者はアジア4位としてオセアニア1位との大陸間プレーオフに回ることとなった(このプレーオフに勝てば本大会出場権獲得)。最終予選の形式は当初、アメリカ大会予選と同様のセントラル方式が予定されていたが、日本協会をはじめとする東アジアの国はマレーシア開催を主張し、西アジアの国はバーレーンでの開催を主張し対立が起きたため、アジアサッカー連盟が最終予選直前に急遽、ホーム&アウェー方式に変更した。予選の終盤までもたつくも、強豪アラブ首長国連邦(以下「UAE」)を逆転してグループ2位に滑り込んだ日本は、結果的にこの変更による恩恵を受けた。日本は、ダブルセントラル方式の1次予選第4組で5勝1分けとし、オマーンを抑えて1位通過し、最終予選に進んだ。日本はB組に入った。経過は以下のとおり。9月7日、ホーム国立競技場で行われた初戦のウズベキスタン戦を三浦知良の4ゴールなどで6-3と大勝し、約2週間後の9月19日、気温40度のアブダビで行われたUAE戦を0-0で引き分けた日本は、9月28日、このグループ最大のライバルとされた韓国をホーム国立競技場に迎えた。日本は後半22分、山口素弘のループシュートで先制するも、この日日本代表として初出場だったFW呂比須ワグナーをDF秋田豊と交替させ守りに入ったことが裏目に出て、後半39分に徐正源、42分に李敏成にゴールを許し、1-2で逆転負け、3試合を終了して1勝1分1敗の勝点4にとどまる。同じく3試合を消化した韓国は3連勝で勝点9の1位、2位にUAEが勝点7で続く状態となり、早くも1位通過に危険信号が灯る。続く10月4日、アルマトイで行われたカザフスタン戦は、コーナーキックから秋田豊のヘディングで先制するも、ロスタイムに同点ゴールを決められて引き分け。同日、首位の韓国がホームでUAEに3-0で快勝したため、2位UAEとの勝点差こそ2に縮まったものの、首位韓国との勝点差は7に開き、逆転は絶望的となる。ここで加茂周監督は更迭され、ヘッドコーチの岡田武史が監督に就任した。岡田監督の初戦、かつアウェー連戦となった10月11日、タシケントでのウズベキスタン戦では前半30分に先制され、敗戦直前まで追い詰められるが、終了間際にDFも前線に上げるパワープレーを敢行した結果、呂比須ワグナーのヘディングで後半44分ようやく同点とし、そのまま引き分けとなった。同節、韓国はアウェーでカザフスタンと引き分け、UAEは試合がなかったため、韓国との勝点差こそ7のままながら、UAEとの勝点差はUAEが1試合少ないとはいえ1に縮まり、首の皮一枚繋がった引き分けとなった。次の試合は10月26日、UAEをホームの国立競技場に迎えた2位争いの直接対決で、UAEが10月18日の第7節でカザフスタンにアウェーで敗れたためUAEと日本の勝点差1はそのまま、日本が勝てば2位浮上となる試合だった。呂比須が前半4分に先制ゴールを挙げるも、前半37分に追いつかれそのまま追加点を挙げられず引き分けた。この試合では終始UAE寄りだったジャッジと、異様に短いロスタイムが問題になり、試合後に国立競技場周辺で日本のサポーターが暴動を起こす事態となった。この試合の結果、上位3チームがいずれも2試合を残した状態で、同節試合がなく既に勝点16を得ていた韓国と2位UAEとの勝点差が8となり、韓国のグループ1位およびW杯本戦出場が決定するとともに、日本の自力による2位からのプレーオフでの最終予選通過が消滅した。もうあとがなくなった日本。11月1日、アウェーでの韓国戦で日本は、既にワールドカップ出場を決め、主力DFの洪明甫を累積警告で欠いた韓国守備陣を試合開始から翻弄し、前半1分に名波浩、前半37分に呂比須がゴールを決め2-0と快勝、勝点を10とする。翌日、UAEがホームで最下位ウズベキスタン相手に引き分けたため、UAEの勝点は9にとどまり、日本は逆にUAEに勝点差1をつけ2位に浮上した。日本は、勝てばB組2位が確定する11月8日の最終戦、アウェーで終了間際引き分けに持ち込まれたカザフスタンをホームに迎えた1戦でも、秋田のヘディングで先制、代表復帰した中山雅史や高木琢也のゴールなどで5-1で快勝し、第3代表決定戦への出場権を得た。最終予選B組の最終順位は以下のとおり。一方、A組には前大会ベスト16のサウジアラビアと強豪イランが所属していた。当初はイランがA組の首位を走っていたが、第9節にて最下位のカタールに0-2で敗れ、9節終了時点で勝点12の暫定首位で、最終節の第10節に試合がないため一足早く全日程を終了。第10節のサウジアラビア(勝点11)-カタール(勝点10)戦が引き分けに終われば、勝点でサウジアラビアと並ぶものの得失点差で1位となるが、いずれかが勝利した場合、もう1試合の中国対クウェートがいずれかの大勝に終わらない限り2位となるため、サウジアラビア対カタールの結果待ちとなった。この試合を1-0で制したサウジアラビアが首位となって本戦出場権を獲得、イランは2位に転落して第3代表決定戦にまわることとなった。A組2位が決まるまでの間、日本では、第3代表決定戦の相手としてはサウジアラビアの方が与しやすいとの論が主流であったが、期待に反して第3代表を争う相手はイランとなった。最終予選A組の最終成績は以下のとおり。第3代表決定戦をホーム・アンド・アウェー方式のもとで2試合開催することは日程的に難しく、中立地での一発勝負の実施が前提とされた。当時のB組の展開から、UAEがB組2位になることが想定されたため、第3代表決定戦はバーレーンで開催されることとなっていた。しかし移動距離や気候などで著しい不利を被ることになる日本協会はこれに猛反発。AFCでは、西アジア勢同士ならバーレーン、東アジア勢同士なら韓国、西アジア勢対東アジア勢の対戦ならマレーシア(イスラム教国であり、かつAFC本部がある)で開催するという案に落ち着いた。イランは時差の点で不利を受け(日本とマレーシアの時差1時間、イランとマレーシアの時差4時間半)、さらにイランは直行便が確保できず、試合直前にやっと確保できたのはドバイや香港を経由した約36時間の移動であった。そのため体調を崩す選手が続出し、準備もできなかった。時差や移動の面で日本に有利に働き、また、日本の第3代表決定戦出場がイランよりも先に決定したこともあり、マレーシアには日本のサポーターが多数観戦に訪れ、日本にとってはホーム同然の環境であった。日本はアウェー韓国戦から機能している北澤豪をトップ下に置いたダイヤモンドの4-4-2のフォーメーションを継続。FWはそれまでレギュラーながら前節カザフスタン戦で出場停止だった三浦知良と呂比須ワグナーが揃って出場停止から復帰したが、直前に実母を亡くしたばかりの呂比須はベンチスタートにして、三浦とカザフスタン戦で代表復帰ゴールを決めた中山雅史が2トップを組んだ。一方、イランはアジア予選で19得点と活躍したMFカリム・バゲリを累積警告による出場停止で欠いていたが、前日練習で車椅子に乗っていたコダダド・アジジが平然とスタメンで出場し、エースのアリ・ダエイ、ドリブラーのメフディ・マハダビキアと変則3トップを組む。それまで右サイドMFだったマハダビキアをウイングの位置まで高くしたのは、日本がこの数試合大きな武器となっていた左SB相馬直樹のオーバーラップを牽制する狙いであった。試合は前半39分、日本がMF中田英寿のスルーパスに反応した中山がGKの脇を抜くシュートを決めて先制。前半はこのまま1-0と日本がリードして折り返すも、イランは後半開始25秒にダエイのシュートのこぼれ球をアジジが押し込んで同点とし、後半14分にはダエイがヘディングシュートを決めて2-1と逆転した。後半18分、後のない日本の岡田監督は2トップの三浦と中山に代えて城彰二と呂比須を同時投入する。この積極策が功を奏し、後半31分に中田のクロスボールを城がヘディングでゴールに突き刺し、2-2の同点に追いつく。コンディショニングに失敗したイランの選手は時間経過とともに運動量が落ち、接触プレーで倒れた後起き上がれない場面が目立つようになる。しかし、両チーム決勝点を奪えないまま後半を終了し、得点が決まった時点で試合終了となるゴールデンゴール方式の延長戦に突入した。延長戦開始と同時に、日本はMF北澤に代えて5人目のFW岡野雅行を投入。岡野は最終予選においてそれまで一度も出場機会を与えられていなかったが、中田からのパスに俊足を活かして何度もゴールに迫る。しかし、GKと1対1になる絶好機でシュートを打たず、ゴール前へ走りこんできた中田へのパスを選択してチャンスをつぶし、次のチャンスではシュートを打ったもののゴールのはるか上に打ち上げてしまう。城はゴールへ迫った際に頭をポストに激しくぶつけ、意識が朦朧とした中でもプレーを続けていた。イランも反撃を見せ、ゴール前でフリーでクロスを受けた選手のシュートがバーの上を通過するなど両チームとも決定的なチャンスをものにできなかった。そのピンチの直後、PK戦への突入も近づいた延長後半13分、呂比須が中盤で奪取したボールを中田がドリブルで持ち上がり、ペナルティエリア直前からミドルシュート。イランのGKアフマド・アベドサデがはじいたルーズボールに岡野が走りこみ、スライディングしながら右足でゴールに押し込んだ。散々外した末にとうとう決めた岡野は「これを外したらもう日本に帰れないと思った」と後に語っている。試合終了直後、岡田監督を始めスタッフ・ベンチメンバーが一斉にピッチへ飛び出し、ヒーローの岡野をもみくちゃにした。シーソーゲームの末に、日本はこの劇的なゴールデンゴールで悲願のW杯本戦初出場を決めた。1954年のW杯スイス大会予選に参加して以来43年目、10回目の挑戦での悲願達成だった。なお、ワールドカップの予選及び本大会でゴールデンゴール方式が採用されたのはフランス大会および日韓大会(2002年)のみで、2004年をもってゴールデンゴール方式は廃止されたので、この方式でW杯出場を決めたのはこの試合に勝った日本だけである。なお、この一戦に敗れたイランはオセアニア地区代表オーストラリアとの大陸間プレーオフに勝ち、ワールドカップ本戦進出を決めている。この試合は地上波ではフジテレビ(実況:長坂哲夫、解説:清水秀彦)、衛星放送ではNHK-BS1(実況:山本浩、解説:松木安太郎)が生中継した。日曜日の深夜の放送にもかかわらず、フジテレビの平均視聴率は47.9%という高視聴率だった。「フジテレビが中継する試合で日本代表は負けない」という、当時の不敗神話はこの試合でも継続された。岡野のゴールデンゴールの瞬間、フジテレビの中継で解説を務めていた清水は「やったー!」という歓声をあげ、実況の長坂は「最後は、岡野ー!日本、勝った!ワールドカップ!」と叫んだ。ラジオで実況を務めたニッポン放送の師岡正雄は「岡野だぁーっ!岡野! 岡野!」と絶叫。翌日の新聞・ニュースには「日本中が歓喜した」との言葉が躍った。試合後は興奮したり泣きながらインタビューに応じる選手が多い中で、中田は落ち着いてインタビューに応じ、「代表はうまく盛り上がったんで、あとはJリーグをどうにか盛り上げてください」とコメントした。翌日放送の『ニュースステーション』(テレビ朝日)ではサブキャスターの小宮悦子と、サッカーコーナー担当の川平慈英がその喜びを伝えた。特に小宮は現地に赴き、試合を観戦するほどの熱の入れようで、岡野のゴールデン・ゴールの瞬間は絶叫で後のことは覚えていないと述べている。また、川平は自由が丘のスポーツバーで兄であるジョン・カビラとこの試合をテレビ観戦し、日本が勝利(出場権獲得)した際は嬉し涙を浮かべ、「(日本に)生まれてよかったよ。生きててよかった!」と絶叫。最後はバーの客とともに「日本サッカーの曙だ!」と勝ち鬨を挙げた。2007年2月3日、長野市サッカーフェスティバルの講演会で、1997年当時日本代表を率いていた岡田とイラン代表を率いていたバドゥ・ヴィエイラが、ジョホールバルでの試合以来約9年ぶりに再会し対談を行った。バドゥは当時AC長野パルセイロで監督を務めており、その縁もあって長野での対談が実現した。対談の内容はやはりジョホールバルに関する話題が殆どで、当時話題になった情報戦的な駆け引きなど采配についての裏話も語られた。

出典:wikipedia

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