高千穂町(たかちほちょう)は、宮崎県の北端部にある町で、西臼杵郡に属している。宮崎県の北端部、九州山地の中に位置しており、町域の西北部から北部にかけては熊本県に接し、北部から北東部にかけては祖母山(標高1,756m)を挟んで大分県と接する。町域西部から南東部に向かって五ヶ瀬川(ごかせがわ、全長106km)が流れる。町の中央部にある宮崎交通高千穂営業所の周辺地域が町の中心部となっている。町中心部からやや南側の高千穂峡(たかちほきょう、正式には五ヶ瀬川渓谷)は観光地として有名。位置は県庁所在地である宮崎市から北西へ約120km、熊本市から南東へ約80kmの場所にあたる。県都・宮崎市へは直通する交通機関もなく、また高速道路もまったく整備されていないため片道3時間以上もかかるのに対し、熊本市へは阿蘇方面へ抜ける国道218号・国道325号が整備され通行が容易で、所要時間も約1時間半程度で到達できるため、熊本県との関係が年々深くなりつつある。ただ、これは今に始まったことではなく、阿蘇山麓との方が交通の便が良かったのは古代からであった。すなわち馬で五ヶ瀬町鞍岡から阿蘇外輪山南の熊本県山都町との馬見原の峠に抜ける218号が旧街道で、かつて存在していた高千穂鉄道(日の影線)が出来るまでの幹線だった。自動車で325号方面に向かうルートは、熊本との境の山岳部をダイレクトに横断する必要があるため、通行が容易ではなかったし、日之影町から高千穂町を抜けて阿蘇の外輪山東南を下る高森町の峠に到る道は今でもヘアピンカーブが多く、台風による土砂崩れが2006年に起きている。空港も熊本空港利用が一般化しているだけでなく、熊本市の繁華街や郊外ショッピングモールに買い物に向かう町民も増加。また、高千穂町など西臼杵郡が地盤の宮崎県北部信用組合も県境の壁を越えて熊本県信用組合への合併統合を選んだ。テレビ放送も隣の五ヶ瀬町とは異なり、町内北部の一部地域でしか熊本の放送局の受信はできなかったが、2011年4月より高千穂町でケーブルテレビ事業が開始されることになり、ケーブルメディアワイワイからの協力を得ることで熊本県民テレビと熊本朝日放送の再送信が実現することになった(日之影町も同様)。観光面においても熊本県との一体化が進んでおり、町内にある高千穂峡谷は熊本市内や阿蘇など熊本県の観光地とセットで周遊されるケースが多い。また、高千穂町は、高千穂無尽発祥の地である。高千穂無尽は、高千穂相互銀行に転換し、宮崎市に本拠を置いた。しかし経営悪化のため、高千穂相互銀行は1984年に当時の西日本相互銀行(本社所在地福岡市)に吸収され、西日本銀行(現・西日本シティ銀行)となった。これが唯一の相互銀行から地方銀行へ転換したケースである。しかしながら今日においては、高千穂無尽の名残は宮崎県側にはほとんど残っていない。※地籍調査の進捗率は85%。(平成21年度末時点)高千穂町の地形は、まず高千穂峡谷をなす五ヶ瀬川が北西の大分県境の祖母山から東南に向かって流れており、延岡に至る谷をなしていて、ほぼこの谷に沿って国道325号が走って、阿蘇外輪山に向かっている。これと交差する形で北東の宮崎県と大分県との境の山脈の切れ目、尾平越方面から天岩戸神社付近を通り岩戸川が流れて、岩戸街道が走る谷間をなし、町の中心部の高千穂峡谷の下流に注ぎ込んでいる。峡谷の上流よりの国見が丘付近(高千穂神社の近く)に、西南の五ヶ瀬町からもう一つの川、跡取川が流れ込んでおり、国道218号が川沿いに通っていて、五ヶ瀬町から西に進むと熊本県上益城郡山都町の馬見原地区に至る。このため、全体的に眺めると、岩戸川と跡取川がなしている二つの東北から西南に向けての狭い谷間が、五ヶ瀬川の作る西北から東南の大きなU字谷に十文字にクロスして、そのクロス部分の盆地(縄文時代までの阿蘇山の噴火により溶岩が流れて入ってV字谷を埋め出来た)の中に五ヶ瀬川が深く侵食して切れ込んだ峡谷があるという地形で、周りは標高1000m級の山々に取り囲まれている。衆議院小選挙区選挙では宮崎2区(延岡・日向・西都・児湯郡・西臼杵郡・東臼杵郡)に属する。近年選出の議員は以下のとおり。本町と日之影町、五ヶ瀬町で選挙区をなす。定数は1人。近年選出の議員は以下のとおり。日本神話においては、ニニギの天孫降臨の地とされている。またアマテラスがこもったとされる天岩戸が町内にある(もっとも、他地域にも天岩戸とされる岩は存在しており、必ずしもその岩が天岩戸と特定されているわけではない)。なお古代においては、この臼杵群の高千穂町一帯を上高千穂と呼び、外輪山を含む阿蘇山全てを下高千穂と呼び、千穂は「ちお」と呼ばれていたことが、阿蘇神社縁起や宇佐八幡託宣集などの古文書、あるいは平安時代に書かれた和名鈔で確認できる。中世の九州では阿蘇神社と結んでいた菊池氏が肥後の守護大名で、その分家の甲斐氏が高千穂一帯の二上山から鞍岡にかけての五ヶ瀬方面の山岳部の国人となっていた。このため中世の高千穂町は、むしろ阿蘇山と連動した歴史を歩んでいた。菊池氏のうち、一時甲斐国に行き、足利尊氏の時代に九州に帰った国人菊池重村(甲斐重村)に始まる甲斐氏は、菊池氏が内紛を起こした南北朝時代に高千穂神社の神官、三田井氏の客分となり、阿蘇氏の重臣として肥後に進出した。このため16世紀の甲斐親宣から甲斐宗運の時代、この地域の人々は甲斐党と呼ばれ、戦国大名阿蘇氏の家臣団として、豊後の大友氏と結び、薩摩の島津氏と火縄銃を用いた全面戦争をして、九州における真田昌幸のような立場になっていた。この大友氏対島津氏の構図は、大友宗麟亡き後、秀吉の介入で終わった。高千穂一帯は、徳川幕藩体制の下で延岡藩の一部となった。1692年に三浦氏が藩主となって以後は、牧野氏を経て内藤氏が延岡藩主となったが、これらは徳川幕府の親藩だったので、以後、この地方の郷士は延岡藩主の下で戦国時代以来の宿敵島津氏のお目付け役になっていった。1920年から町北部の土呂久(とろく)地区で硫砒鉄鉱が採掘され、町の経済を支えたが、1962年に閉山している。この鉱山から亜ヒ酸が流出し、鉱毒事件を引き起こした。1970年に国道325号線が出来て以後、阿蘇のやまなみハイウェイに至る観光ルートに組み込まれている。現在の主要産業は農業および観光業である。しばしば間違われるが、高千穂大学は高千穂町ではなく東京都にある。ただし由来は宮崎県の高千穂にちなむ。※2008年12月まで高千穂鉄道高千穂線の天岩戸駅と高千穂駅が存在した。日本神話を骨子とした観光展開を行っており、宮崎県全体に広がる「ひむか神話街道」の中心を担っている。
出典:wikipedia
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