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ルー・ゲーリッグ

“ルー”ヘンリー・ルイス・ゲーリッグ(Henry Louis "Lou" Gehrig, ドイツ語:"Heinrich Ludwig Gehrig"(ハインリヒ・ルートヴィヒ・ゲーリヒ), 1903年6月19日 - 1941年6月2日)は、メジャーリーグのプロ野球選手(内野手)。ゲーリッグは毎日プレーを厭わないその頑丈さから鉄の馬("Iron Horse")と呼ばれ、からの14年間に渡り、当時の世界記録となる2130試合連続出場を果たした。1939年、体調異変を感じて自ら欠場を申し入れ、記録は途切れた。後の診断で筋萎縮性側索硬化症と診断されたゲーリッグは引退を決意した(この病気は「ルー・ゲーリッグ病」と称されることもある)。ゲーリッグが現役生活の晩年に手のレントゲン撮影を行ったところ、手だけで17もの骨折箇所が見つかった。連続出場はこれほどまでに彼の身体に負担を強いており、筋萎縮性側索硬化症の発症がなくても、遠からずその記録は途切れていただろうと推察される。記録のためにただ出場を続けていたわけではなく、MLB史上に残る非常に優れた打者でもあった。17年間で2000近い打点を挙げ、生涯打率は.340(歴代17位)。通算の長打率とOPSは歴代3位、出塁率でも歴代5位の.447と、打席に立てばほぼ2回に1回は塁に出た。オールスターに7回選ばれ(オールスターは1933年が初開催)、とにはアメリカンリーグMVPを受賞、1934年には三冠王を獲得している。1939年に当時史上最年少で殿堂入りを果たし、MLB史上初めて自身の背番号『4』が永久欠番に指定された選手にもなった。ゲーリッグは1941年6月2日に37歳の若さで亡くなり、翌1942年にゲーリッグの半生を描いた『"打撃王"』が公開された。ゲーリッグの連続試合出場記録は当初不滅の記録と思われていたが、6月13日、日本プロ野球の衣笠祥雄(広島)に更新され、MLBでは1995年9月6日にカル・リプケン・ジュニア(ボルチモア・オリオールズ)によって更新された。その他のニックネームには"Columbia Lou"、"Biscut pants"、"Larrupin' Lou"というものがあった。ドイツ系移民である父ハインリッヒと母クリスティーナ・ファクの息子としてニューヨーク市に生まれる。父親はてんかんを患っていたため、母親が生計を立てていた。両親は野球でゲーリッグが食べていけるとは思っておらず、母親は叔父がドイツで建築家として成功していたため、息子も同じ道を歩ませようとしていた。初めて野球で全国の注目を集めたのは、6月26日のカブス・パーク(現在のリグレー・フィールド)で行われた試合であった。ゲーリッグのニューヨーク商業高校とシカゴのレーン工業高校との対戦で、8回まで8-6で勝っている中、9回表に場外満塁本塁打を打ち試合を決定付けた。ゲーリッグはコロンビア大学に通ったが、同チームの野球部では試合に出場する事が出来なかった。その理由は大学1年生の夏休みに夏季プロリーグでプレーしてしまったためで、当時のゲーリッグはこれにより大学で野球に限らず全てのスポーツをプレー出来なくなる可能性を認識していなかった。しかし、結果的にはアメリカンフットボール部での試合出場が認められ、フルバックとして活躍した。息子の野球での活躍が新聞などで報じられるにつれ、母親も息子が野球選手を職業にできるかもしれないと思うようになってきた。ゲーリッグ自身も、当時熱心に誘ってくれたヤンキースと契約を結ぶか大学に残って卒業するかを迷ったが、母親が肺炎を患ったため、ヤンキース入りを決断し、契約金で医療費を賄う事にした。さらには残余金で、両親に初めての旅行をプレゼントした。の途中からヤンキースの一員となり、同年6月15日には代打としてメジャーデビューを果たす。最初の2年間は出場機会も限られており、1923年のワールドシリーズのメンバーには登録されなかった。当時の看板選手であるベーブ・ルースの直接指導の甲斐もあってにはレギュラーに定着し、437打席で打率.295、20本塁打68打点を挙げた。翌に主力打者として大きく開花し、打率.313に47本の二塁打と、アメリカンリーグでトップの20三塁打、16本塁打、112打点を挙げた。セントルイス・カージナルスと対戦した同年のワールドシリーズでは打率.348で4打点を挙げるものの、ヤンキースは3勝4敗に終わり、世界一にはあと一歩届かなかった。は記録的な年であった。打率.373、47本塁打175打点に218安打を挙げ、この年の一シーズン117長打はベーブ・ルースに次ぐ歴代2位であり、また447塁打も歴代3位の数字である。ルースとゲーリッグの二枚看板を中心とした強力打線は「マーダラーズ・ロウ(殺人打線)」と呼ばれ、この強力打線を武器にヤンキースは110勝44敗の成績を残し、ピッツバーグ・パイレーツとのワールドシリーズも4連勝で制覇。この年のヤンキースがMLB歴代最強のチームだったとする評価も多い。シーズン60本塁打を放ったルースを差し置いて、ゲーリッグはア・リーグの年間MVPに選出された(ちなみにゲーリッグとルースの2人でこの年のア・リーグの全本塁打439本の1/4近くを叩き出している。また、この年のア・リーグの本塁打ランキングでルース、ゲーリッグに続いたのが18本のトニー・ラゼリであり、ゲーリッグがルースと並ぶ傑出した長打力の持ち主であることは間違いなかった)。ルースの陰に隠れがちではあったが、ゲーリッグの得点能力は球史でも随一のものだった。本塁打王に3回、打点王に5回輝き、打率.350以上6回、150打点以上8回、100四球以上11回、200安打以上8回、そして40本塁打以上が5回もあった。の184打点は未だに破られていないア・リーグ記録である。には三冠王も獲得している。「アイアン・フォース」「静かなる英雄」と呼ばれ、陽気なルースに対して物静かなゲーリッグと好対照でよく比較された。私生活では9月にシカゴ・パークスの支配人フランク・ツイッチェルの娘エレノアと結婚している。のち、エレノア夫人はゲーリッグの晩年と最期を看取り、その時の回顧録を執筆している。6月1日、ゲーリッグは貧打の遊撃手ポール・ワニンガーの代打として登場。翌日にはスランプのレギュラー一塁手ウォーリー・ピップの代役としてスタメン出場した。この時のゲーリッグ起用は、チームが不振であったための応急処置的な措置であり、当時のミラー・ハギンス監督がちょくちょく行っていたスタメン変更の一環であった。しかし、ゲーリッグはこの1試合のチャンスでスタメンの座を掴み、ここから14年に及ぶ連続試合出場記録が始まった。なお、ピップはこのシーズン終了後シンシナティ・レッズにトレードされている。ゲーリッグの連続出場はもちろん全てがフルイニングというわけではなく(全試合フルイニング出場したシーズンは1931年の1シーズンだけである)、時には代打出場によって続けられた。例として、腰痛の発作に襲われた際には1番・遊撃手で登録され安打を打った後すぐに交代したり、審判に抗議して退場となる(連続出場期間中にも6回退場を記録している)が既に打席に立っていたため出場と記録されたこともあった。シーズンの半ばから、ゲーリッグの成績は段々と下降線をたどり始める。これについて本人は当時「シーズン半ばで疲れてしまった。なぜかはわからないが、何か頑張れる気がしない」と述べている。また、エレノア夫人には30歳の誕生日以来脚に力が入らなくなっていると伝えている。夫人はゲーリッグが脳腫瘍にかかったのかもしれないと心配していた。対戦相手であるデトロイト・タイガースの投手エルドン・オーカーは後年、「ルーが病気になったと聞いたので、私は彼がいつからおかしくなったのか考えた。具体的な日時を言えと言われたら、1938年7月1日頃(この年のシーズン半ば)から、明らかに彼のプレイはおかしくなっていた」と回想している。ゲーリッグはシーズン前の1938年1月に『ローハイド』という西部劇映画で主演をしている。映画の中でゲーリッグはビリヤードの球を投げつけたりするなど、一見問題ないようにアクションをこなしていたが、椅子から立ち上がるのに手を付いたり、歩くときに少しふらついたりするなどしており、下肢筋力低下の軽い症状があらわれていた。ゲーリッグは次第に弱々しくなっていき、ロッカールームやフィールド上でさえ突然倒れてしまう事もあった。ほとんどの記者やファンは連続試合出場による疲れだと信じていた。35歳になってはいたが、周りのチームメイトはまだまだ限界ではないと思っていた。少なくとも彼の1938年の成績は打率.295、29本塁打114打点とリーグ平均を遥かに上回っており、ルースの引退間際の成績さえ大きくしのいでいた。ただ、親友でもあったビル・ディッキーはゲーリッグの異変に気づいており、ある日ケチャップのボトルを持ち上げられず、代わりにディッキーが取り上げてやったエピソードが残っている。1938年の暮れになると、道路のわずかな段差でも頻繁に躓くようになり、得意だったアイススケートでも頻繁に転ぶようになった。シーズン終了後、ゲーリッグはニューヨークの専門家に話を聞きに行ったところ、胆嚢に問題があるという専門家の診断を受けた。エレノア夫人はこの見立てに疑いを隠さなかったものの、ゲーリッグはその診断を信じて治療を任せた。健康を取り戻してヤンキースの勝利に貢献する事を自身の大きな目標とし、それに全力を注ごうとしたのである。ヤンキースに対する忠誠心は強く、球団が年俸の3000ドルダウンを提示してもゲーリッグは素直にそれを受け付けている。1939年のスプリングトレーニングが開幕しても、ゲーリッグの気力が回復することはなく、例年通りに激しいトレーニングを行って心を奮い立たせようとしても、状況は改善されなかった。当時、注目の若手選手だったジョー・ディマジオによれば動作全てがスローになり、打撃練習中に以前であれば遥か彼方まで飛ばしていたような球ばかりだったにも関わらず、19回も続けて空振りしたという。同年のゲーリッグの成績は自己最低の34打席4安打1打点、打率.143であった。さらには走塁面でもキャリアを通じて積極的な走者であったゲーリッグだったが、同年には筋肉のコントロールを失いつつあり走る事さえ困難となっていた。ジョー・マッカーシー監督は球団首脳部からのゲーリッグをベンチに下げろとの圧力には従わなかったが、ゲーリッグ自身は次第に一塁守備を普通にこなすことも難しくなった。2130試合目の連続出場となった1939年4月30日のワシントン・セネターズ戦では無安打に終わった。この試合で普通のゴロを捕り、一塁ベースに入った投手ジョニー・マーフィーにトスしてアウトにしたが、これを見た二塁手のジョー・ゴードン、捕手のビル・ディッキーが口々にゲーリッグにナイスプレーと言って元気づけた。ごく当たり前のプレーなのにと感じたゲーリッグは引退の潮時とばかり、2日後の5月2日に自ら監督のもとに出向き「俺は下がるよ、ジョー」と伝えた。マッカーシーはこれを承諾し、代わりにエルスワース・ダールグレンを一塁手として起用。ゲーリッグには、もし出たくなったらいつでも出すと伝えた。主審にその日のラインアップ表を渡したのもゲーリッグ自身であったが、この日で彼の14年間に及ぶ大記録は終わり、試合前にヤンキー・スタジアムのアナウンサーは「皆さん、これは2130試合ぶりにルー・ゲーリッグが試合に出ない日です」と述べた。デトロイトの観客はベンチにいるゲーリッグにスタンディングオベーションで大記録の終焉を称え、ゲーリッグ本人は涙を浮かべた。連続出場が途切れた後もゲーリッグはチームに帯同するものの、状態はさらに悪化。6月中旬にはエレノア夫人も再度脳腫瘍の可能性を疑っていた。エレノア夫人は友人からミネソタ州ロチェスターのメイヨー・クリニックにいるチャールズ・メイヨー医師への紹介を受け相談をした。メイヨー自身もゲーリッグの突然の変貌に関心を持っていたようで、すぐに本人を連れて来るように伝えた。エレノアはここで自分にしかゲーリッグの病状を伝えないようにとの条件をつけた。メイヨーはこれに難色を示し、『家の長にしか伝えられない』と述べると、エレノアは『自分が家計簿を握っているので自分が唯一の家長だ』と反論した。エレノアは直ちに当時ヤンキースが滞在していたシカゴからロチェスターへゲーリッグを連れて行き、メイヨーの診断を1939年6月13日に受ける。最初にゲーリッグを見たハベイン医師は、一目見た瞬間彼の歩き方や姿勢が明らかにおかしいのを見抜いていた。ゲーリッグの症状は数ヶ月前に自身の母を蝕んでいた筋萎縮性側索硬化症の症状に酷似しており、顔の表情機能の低下や奇妙な歩き方は母親と全く同じように見受けられた。筋萎縮性側索硬化症とは、飲み込む事や話す事が困難になるなど、急激な運動機能の低下の一方、精神機能には一切の低下がなく、急速に不自由になっていく身体を曇りのない意識のもとで認識させられるという難病である。患者は発症後、半数ほどが3年から5年で呼吸筋麻痺により死亡する。その後6日間ゲーリッグはメイヨー・クリニックで過ごし、ゲーリッグの36歳の誕生日となった6月19日にエレノア夫人とゲーリッグ本人に病名が告知された。ただしゲーリッグはエレノア夫人に向けた手紙で以下の様に記しており、詳しい症状はエレノア夫人にのみ通達されていたという説もある。ゲーリッグはチームに復帰するために到着したワシントンの駅でボーイスカウトの集団に出迎えられた。そこで子供たちに対し手を振り返したが、隣にいた同行者の記者に向け「彼らは俺に幸運を祈っているよ、俺は死にそうなのに」と語ったという。6月21日にヤンキースはゲーリッグの引退を発表。しかしキャプテンとしてチームに帯同すると述べた。1939年7月4日のセネターズとのダブルヘッダーで、ヤンキースはルー・ゲーリッグ感謝デーを制定し、メジャー他チームを含む多数の人々がゲーリッグを祝福しに訪れた。ゲーリッグが初めて勝った1927年のワールドシリーズ制覇の記念旗が掲げられ、当時のナインもゲーリッグのために式典に訪れた。ニューヨーク市長フィオーレロ・ラガーディアも訪れ、当時現役を引退していたベーブ・ルースもスピーカーとして招かれた。ゲーリッグの成績上昇期はちょうどルースの下降期と重なったため、ルースはゲーリッグの連続出場記録を皮肉って、たまには休んだり釣りに行った方がいいんじゃないかと記者に述べる事もあった。しかしこの日のスピーチでは、皮肉ではなく、心から一緒に釣りに行きたいと述べ、ライバルを称えた。二人がこのように親密さを示したのは、ゲーリッグの妻がルースと関係を持っていると一部メディアで報じられて以来初めてだった。また、マッカーシー監督はスピーチをしたら泣き出してしまいそうだと述べ、なかなかこの依頼を受けようとはしなかった。結果的にマッカーシー監督はゲーリッグについて「野球人、スポーツマン、そして一般市民としての素晴らしい例であり、野球というスポーツが出会った最良の人材である」と述べ、その後ゲーリッグに「ルー、君が“チームに迷惑をかけるので辞めます”と言いにきたあの日の悲しいデトロイトでの夜が、俺の人生の中で最も悲しい日のうちの一つだった。他に何が言えるかい?」と泣き顔で振り返った。ヤンキースはゲーリッグの背番号『4』を史上初の永久欠番に指定。背番号制が導入されたのがゲーリッグのキャリア開始後の1929年であったため、彼の他にヤンキースで背番号4を付けた選手はいない。この日ゲーリッグは様々なVIPやスタジアムのグラウンドキーパー、用務員などからも贈り物をもらい、球団は銀のトロフィーをプレゼントした。式典の後、この日の担当者マーサーはゲーリッグが泣き崩れているのを見て、「今日はゲーリッグにスピーチをしてくれとは言わないことにします。そうしない方が良いと思います」と述べ、マイクを片付けた。ゲーリッグもマッカーシーとフィールドを去っていったが、観客からゲーリッグコールが湧き上がり、本人もフィールドに戻りスピーチを始めた。ゲーリッグは歴史に残る名スピーチを行った。観客は立ち上がり、約2分間スタンディングオベーションが続いた。ゲーリッグはマイクから離れて大きくよろけ、頬から流れる涙をハンカチで拭き取った。球場内で「」が演奏され、聴衆が「ルー、私たちはあなたを愛してます」と歌詞を替えて歌う間、ルースはゲーリッグにかけ寄り、彼を優しく抱きしめた。翌日の"ニューヨーク・タイムズ"紙は「今まで野球場で見た光景の中で最も感動した場面の一つ」と報道し、ハードボイルドで知られた非情な記者たちさえも「懸命に涙をこらえていた」と伝えた。ダブル・ヘッダーの第2試合が終了してビル・ディッキーと一緒にヤンキー・スタジアムを後にしたゲーリッグは彼の親友にはっきりとした口調で「ビル、今日のことはずっと先まで覚えておくつもりだ」と語った。ジョー・ディマジオは野球場で二度涙を流したが、最初に泣いたのがこのゲーリッグのイベントであった(二度目は1949年10月1日のジョー・ディマジオ感謝デー)。テレビが普及していなかったこの時代、「私はこの世で最も幸せな男です」というセリフは3年後に公開された映画『"打撃王"』で広く知られた。このセリフはアメリカ映画協会(AFI)が「AFIアメリカ映画100年シリーズ」の一環として選定した『アメリカ映画の名セリフベスト100』の38位に選ばれた。しかし映画と実際のスピーチには異なる点があり、語られた元オーナーやGM、また球団の裏方、相手チームへの感謝が削られ、代わりに新聞記者への感謝が加わっている。また、「最も幸せな男」をゲーリッグは最初に語っているが、映画では最後に語るよう変えられている。ゲーリッグの引退後、ヤンキースの首脳部はゲーリッグが経済的に困らないよう全ての手を尽くすと述べ、フロント入りする事になっていた。当時の規則によると1939年の年俸は全て支払われることになっており、また試合も病の進行と共に歩けなくなるまで観戦し続けた。アメリカ野球殿堂への投票権を持つ全米野球記者協会(BBWAA)もゲーリッグの病の状況を考慮し、特例としてゲーリッグに対する特別投票が行われ、殿堂入りが決定した。36歳という当時史上最年少での殿堂入りにも関わらず、病により式典に参加する事はできなかった。ゲーリッグの病状を診断したメイヨー・クリニックもデスクワークならまだ出来ると想定していたものの、首脳部はフロント入りの約束を反故にして、ゲーリッグに違う仕事を探した方が良いと示唆。これに対しゲーリッグは激怒した。1939年10月、ラガーディアに請われて、10年任期の仮釈放委員会委員に就任した。ラガーディアはゲーリッグの仕事ぶりに大変満足していたと伝えられている。ゲーリッグは死の1ヶ月前まで仮釈放委員会のオフィスに出勤して仕事をしていたが、次第に歩けなくなり車椅子の使用も拒否した事から完全に寝たきりの生活になった。この頃、発見されたばかりのビタミンEが奇跡を願って投与されたが、何ら効果をあげることはなかった。1941年5月下旬、ヤンキースの外野手、ジョージ・セルカークが病床のゲーリッグを見舞った時には最盛期93キロあった体重がわずか41キロしか無かったという。それでもゲーリッグは「良くなったらトレーニングを始めるよ」と弱々しく語った。1941年6月2日に没。37歳。38歳の誕生日の17日前だった。ラガーディア市長は市内全域に半旗を掲げる事を命令した。エレノア夫人はゲーリッグの死後に一度も再婚せず、残りの人生は筋萎縮性側索硬化症の研究を支援することに捧げた。エレノアは1984年3月6日、80歳の誕生日に、夫の死から43年後に逝去した。晩年に出版した回顧録の中では「他の男性に20年間どんなに尽くしていただいたとしても、あの方と過ごした2分間に得ることの出来た喜びや悲しみと引き替える気にはなれません」と述べている。ゲーリッグが達成したMLBでの歴代1位記録はふたつあり、いずれも後年、記録を塗り替えられている。それでも通算打点1995打点は、2014年現在MLB歴代4位で、これを上回るのはハンク・アーロン(2297打点)、ベーブ・ルース(2213打点)、バリー・ボンズ(1996打点)の3人で、いずれも歴代通算本塁打トップ3であり、ゲーリッグ自身通算本塁打は493本塁打であること、またゲーリッグ自身の現役が17シーズンだったことを考えれば驚異の記録と言える。1999年にはMLBオールセンチュリー・チームに選ばれている。得票数は全選手中でトップだった。2009年、引退70周年を記念して、MLB機構はALS関連の4団体を支援し、7月4日の試合ではセブンス・イニング・ストレッチの時にゲーリッグのスピーチが放送された。2010年にゲーリッグは筋萎縮性側索硬化症ではなくCTEMという症状の似た別の病気だったという説が提唱されたが、CTEMは特殊な状態の組み合わせでしか発症しない極めて稀な病気であるためその可能性は低いと否定されている。1931年と1934年に読売新聞社主催の日米野球において、全米選抜チームの一員として2度来日。大日本東京野球倶楽部(現:読売ジャイアンツ)のルーツとなる全日選抜チームに対し、9戦全勝と圧倒している。沢村栄治の好投による“あわや完封負け”の危機から全米軍を救ったのがゲーリッグのソロ本塁打による1点だった。しかし沢村にまつわる不滅の伝説である「全米軍のクリーンナップを4連続奪三振」の中には、ゲーリッグもその名を連ねている。死去の翌年の1942年、サム・ウッド監督による伝記映画『打撃王』("The Pride of the Yankees")が制作・公開された。原作はポール・ギャリコの『ルー・ゲーリッグ ヤンキースの誇り』。ゲーリッグ役をゲイリー・クーパーが演じた。ベーブ・ルースはじめヤンキース時代のメンバーの何人かも本人役で出演している。

出典:wikipedia

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