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震電

震電(しんでん)は第二次世界大戦末期に日本海軍が試作した局地戦闘機である。前翼型の独特な機体形状を持つ、最高速度400ノット(約740km/h)以上の高速戦闘機の計画で、1945年(昭和20年)6月に試作機が完成、同年8月に試験飛行を行い終戦を迎えた。略符号はJ7W1。1942年(昭和17年)から1943年(昭和18年)頃、海軍航空技術廠(空技廠)飛行機部の鶴野正敬大尉は従来型戦闘機の限界性能を大幅に上回る革新的な戦闘機の開発を目指し、前翼型戦闘機を構想し、研究を行っていた。また、1943年(昭和18年)、軍令部参謀に着任した源田実中佐は、零戦が既に敵から十分研究されているであろうと考え、零戦とは別に異なる画期的な戦闘機を求めて高速戦闘機を模索していたが、技術的に提案する知識がなかった。しかし、同じ考えを持つ鶴野正敬技術大尉の存在によって、震電の開発が動き出した。前翼型飛行機とは、水平尾翼を廃して、かわりに主翼の前に(水平な)小翼をつけた形態の飛行機を指す。従来型戦闘機ではエンジン、プロペラ、武装の配置が機体の前方に集中しており、操縦席後部から尾翼にかけての部位が無駄なスペースとなっていた。これに対し前翼機では武装を前方、エンジン及びプロペラを後方に配置することで機体容積を有効に活用でき、同じ重量の武装であれば機体をより小型にすることが可能となる。従って機体が受ける空気抵抗も減少し、従来型戦闘機の限界速度を超えることが可能となる、というのがその基本理論であった。日本では初となる前翼型戦闘機の試みであったが、当時の各国でも前翼機の試作は行われていた。代表的な例として米国のXP-55 アセンダー、イタリアの、英国のマイルズ・リベルラ等が挙げられるが、いずれも実運用に至ったものはなかった。震電の開発に当たっても中には「自然界に無い様な形状のものには何かしらの欠点があるはずだ。鶴野はそれに気づいていないのだ。」という様な意見をもつ者もあった。しかし、米国新型機への対抗という課題の中にあって、原理的に間違いのないものであるならと大方の賛同を得ていた。1943年(昭和18年)8月、空技廠にて風洞実験が行われる。1944年(昭和19年)1月末、実験用小型滑空機(MXY6)を用いて高度およそ1000m程からの滑空試験に成功し基礎研究を終えた。既に米国爆撃機の本土来襲を予測していた海軍は、翌2月には試作機の開発を内定。実施設計及び製造を行う共同開発会社として、当時、陸上哨戒機「東海」の開発が完了し、他の航空機会社に比べ手空きであった九州飛行機が選定され、空技廠からは鶴野大尉らが技術指導のため同社へ出向した。要求性能を決定する際、用兵者側から空戦フラップの装備を要求する声があったが、航空技術廠飛行機部、科学部はその効果を疑問視して巴戦を避けて高速一撃離脱をとる意見であった。軍令部参謀の源田実中佐から「400ノット以上の高速戦闘機が欲しいからこれをやるのであり、あまり付帯要求を出しすぎて速度が落ちるようなことがあってはならぬ」という指導的意見があり、鶴野正敬は要求性能をまとめられた。1944年(昭和19年)5月、B-29の迎撃を最大の目的として、十八試局地戦闘機震電が正式に試作発令される。当初、海軍の要求は1944年の4月から製図に取り掛かり、同年末には機体を完成させよというものだった。このため、九州飛行機では近隣は元より、奄美大島、種子島、熊本などからも多くの女学生、徴用工を動員し体制を整えた。その数は最盛期には5万人を超え、量産に移った際には月間300機の生産を可能とする目算が立っていた。また資材については、将来的に比較的余裕のある鉄で作る事を考えよとの要求もあった。1944年6月16日未明、本土北九州方面八幡に初のB-29来襲。震電開発チームは撃墜機を実地見学。1944年11月、技術者を集結させた九州飛行機は通常1年半は掛かる製図作業をわずか半年で完了。約6000枚の図面を書き上げる。同月ヘンシェル社のドイツ人技師、フランツポールが訪問。同氏所見をもとに多量生産的見地にたった改造図面の作成に着手。1944年12月から1月にかけて、震電への搭載が予定されていた「ハ四三」四二型発動機の開発にあたっていた三菱重工の名古屋工場が、断続的に行われたB-29の空爆により再起不能の壊滅的な被害を受ける。開発の大幅な遅延に繋がる。1945年(昭和20年)3月、大刀洗飛行場への爆撃を受けて、現在の筑紫野市原田へと九州飛行機は工場の疎開を決定。部品の運搬は牛車で夜中に行われた。1945年6月、1号機が完成し蓆田飛行場(現在の福岡空港)へ運搬。翌7月完工式。鶴野自身による滑走試験中、機首を上げ過ぎたために、プロペラ端が地面に接触して先端が曲がってしまう。この後、プロペラを試作2号機用の物と交換、機首上げ時にプロペラが接触しないよう側翼の下に機上作業練習機白菊の車輪が付けられた。(量産機では主脚の接地位置をうしろにずらし、垂直尾翼の下に車輪は付けない予定であった)1945年8月3日、試験飛行にて初飛行に成功。続く6日、8日と試験飛行を行ったが、発動機に故障が発生し三菱重工へ連絡をとっている最中に終戦となった。最大速度400ノット(約740km/h)以上を目標として開発されていた震電は、機体後部にプロペラ、機首付近に小翼を配した前翼型、エンテ型、先尾翼型と呼称される設計であった(本項では「前翼型」で統一する)。実戦での戦術としては、震電の快速を活かしB-29の前方に展開、高度12,000mから30mm機銃4門を斉射。更に速力差を活かし再びB-29の前方に進出、2度目の攻撃を行うという手法が計画されていた。性能諸元に関する計画値は別表に記載する通りである。3回の試飛行ではエンジンは全開にせず、降着装置(脚)を出したままの状態であるが、水平飛行中に最大速度293.5km/hを記録している。しかしプロペラのカウンタートルクを相殺しきれず右に傾いたままの飛行となり、これがまず調整の大きな課題と目された。また機首が下がり気味であったこと、及び油温の上昇なども報告されている。ただし雷電で問題になった延長軸の震動はとりあえず低速では起こらず、横安定の方はきわめて良好であった。上記の飛行時の安定性に加えて、以下の問題もあった。終戦時、設計図や資料、及び組み立て途中の2、3号機と十数号機までの部品類が海軍の命令で焼却されたが、1号機は蓆田飛行場の格納庫に保管された。のち占領軍の命令により破壊された風防などが復元され(敗戦に憤慨した工員が破壊したといわれている)、さらに飛行させてみよという命令も出たが、これは果たせなかった。1号機は昭和20年10月に船便にてアメリカへ運ばれた。また九州飛行機本社以外の分工場に保管されていた資料類も英訳してアメリカ軍に引き渡された。2015年現在も震電1号機は国立航空宇宙博物館の復元施設であるポール・E・ガーバー維持・復元・保管施設にて分解状態のまま保存されている。震電には「震電改」(略符号J7W2)として将来ジェット化する構想があったという説がある。この震電のジェット化構想説の根拠は、元九州飛行機設計部第1設計課副課長清原邦武の航空雑誌への寄稿である。清原は寄稿で「1944年6月5日、空技廠で開かれた『試製「震電」計画要求書研究会』上かその後の指示で、空技廠発動機部員より「ガスタービンの使用を考慮して設計を進めよ。」というのがあった。震電に取付けるのは地上静止推力900kg、ほぼ3,000HP相当のもので速度は420kt(780km/h)程度になるだろう。ただし離陸補助ロケットが必要だが、これは過荷重としたいということだった。石川島芝浦タービンで試作中のネ-130ジェットエンジンだったようだ。いよいよトモエ戦時代も終るなと思った。「震電」の発動機配置からすれば、ジェットエンジンに換装することはそれほど難しくないように思われた。ぜひ早く実現したいものだと興奮を感じたことを覚えている。結局、これは実現しなかったが、中島飛行機で設計された双発ジェット攻撃機「橘花」は九州飛行機でも試作し、1号機がほとんど完成したときに終戦となった。」と証言している。しかし、その他には震電についてはジェット化を考慮して設計された具体的な記録が見つかっていない。また、震電の動力艤装班主任を務めた西村三男もジェット化の話があったことは認めているが、実現に向けては「具体的には何ら進んでいなかった」とも証言している。搭載予定であった当時試作中のジェットエンジン、ネ130の開発の進行状況も終戦近くにようやく全力試験にとりかかった段階であり、実際に運用できる状況でなかった。原因として、その前身であるネ20は様々な致命的欠陥を抱えており、この欠陥の結果設計時全力運転でわずか15時間と非常に耐久寿命が短い状態であったが、当時震電と並行して開発されていた橘花の試験飛行時でもこの欠陥が露呈しており、解決には向かっていなかったという。この欠陥はネ20のみでなく開発中のネ130にも起こっており、もちろん震電に搭載できる状況では無かった。更に言えば、戦争末期の日本には最早ジェットエンジンに必要不可欠な耐熱金属を作るための希少金属(ニッケル、クロムなど)がほぼ枯渇しており、よく言われる排気タービンもこの資源不足による耐熱性の高い代替金属の開発が一つの大きな壁となっていた。従って、仮に試作エンジンが完成したとしても量産はほぼ不可能であったと考えられる。

出典:wikipedia

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