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三上氏

三上氏(みかみし)は日本の氏族のひとつで近江国野洲郡三上郷を本拠地とする一族とされる。因幡国の奉公衆系国人領主などがいた。三上氏は近江国三上郷を本拠地とする一族とされる。古代文書を見るに、地名では六国史日本後紀および日本三代実録や、倭名類聚抄、延喜式に見える備後国三上郡、人名では続日本紀の田中朝臣三上や三上王、多治比眞人三上、日本後紀の朝原忌寸三上(山城国人大初位で宿禰の賜姓を受けた人物)が見られるのみで、近江国との関連は見られない。これらの文書で唯一近江国に関連する「三上」の記述は日本三代実録の貞観7年(西暦865年)8月28日の条および同貞観17年(西暦875年)3月29日の条にある「三上神」の記述のみである。吾妻鏡文治元年(西暦1185年)10月9日の条には、源頼朝が命じるも鎌倉御家人の誰もが固辞した源義経討伐令を受けた土佐坊昌俊の討伐軍に列した弟三上家季の名が見える。三上家季は近江の武士と推定されている。因幡三上氏は因幡国巨濃郡岩井庄(現在の鳥取県岩美郡岩美町)を所領としていたといわれる。一説によれば、三上氏は但馬山名氏から派遣された代官であり、但馬国との国境地域の経営を任されていたと言われる。因幡三上氏の存在は、文献には康正2年(1456年)より確認される。入部時期については一切不明だが一族として初めて文献に見える三上周通が「近江入道」と名乗っているので室町時代中期ごろかと思われる。その後、因幡三上氏は空白が有り文明年間まで下るが兵庫頭政実、兵庫頭経実と続いた。天文10年(1541年)の道竹城合戦で経実が討死すると、伯耆山名氏出身の山名こ不二郎(輝房)がその跡を継承した。また、山名豊国の家臣団にも三上一族の名が確認される。因幡三上氏の存在は江戸時代にはほとんど忘れられており、『因幡民談記』を記した小泉友賢は因幡三上氏関連の情報量の少なさ故、系統の全く異なる山名一族の山名東揚を「三上兵庫頭」と置き換えてしまった。その上、『鳥取県史』などの郷土史本では『民談記』の記述が史料批判もなしにそのまま取り上げられたため、誤った認識が広まることになった。ようやく近年になってこの三上氏に関する史料が確認されたことにより、小泉友賢の説が誤りであることが明らかになった。ただ、確実な史料が確認された現在においても「民談記信仰」の名残りから『民談記』の説を支持する者が僅かながら存在することも事実である。

出典:wikipedia

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