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ルーベンス・バリチェロ

ルーベンス・ゴンサウヴェス・バリチェロ(, 1972年5月23日 - )は、ブラジル・サンパウロ出身のレーシングドライバー。愛称は「小さなルーベンス」を意味するルビーニョ()。F1で通算322戦のレースに参戦しており、これはF1史上歴代最多記録である。F1において、当時の史上最年少でポールポジションを獲得するなど早くから実力を見せていた一方で、競争力の高い車にはなかなか恵まれなかったため、優勝は125戦目に初めて獲得しており、これは当時としては最も遅い記録であった。名前のカタカナ表記については「フーベンス・ゴンサウヴェス・バヒケール」という表記が実際の発音に近いほか、姓について日本国内では「バリッケッロ」といった表記も多く見られるが、本記事では日本国内で一般的な「ルーベンス・バリチェロ」の表記で統一する。1981年にカートを始め、1990年にヨーロッパに移るまで、強豪がしのぎを削る当時のブラジル選手権においてチャンピオンタイトル5回、ランキング2位3回、サンパウロ州選手権においてもチャンピオンタイトル5回、ランキング2位3回という圧倒的な成績を残し、早くから将来を嘱望された。1989年にフォーミュラ・フォードのブラジル国内選手権に参戦し(年間ランキング4位)、1990年にはイギリスへと移り、同年にはフォーミュラ・オペル選手権を初年度でいきなり制した。1991年にはF3へとステップアップし、デビッド・クルサードとの争いを制して、このイギリス・フォーミュラ3選手権において19歳にしてチャンピオンに輝いた。この時点ですでにF1参戦の声がかかるようになったが、翌年は国際F3000にステップアップし、ルカ・バドエル、アンドレア・モンテルミーニに次ぐランキング3位の記録を残した。この年のうちにジョーダン・グランプリと契約を結び、翌年のF1ステップアップを決めた。1993年、弱冠20歳でジョーダンからF1デビューした。ポイント獲得こそ終盤の日本GPにおける5位2ポイントにとどまったが、シーズン通してイヴァン・カペリ、ティエリー・ブーツェンといったベテランも含め、チームメイトを着実に凌駕し、目まぐるしい天候変化の中で行われた第3戦ヨーロッパGPにおいては、非力なマシンで一時2位を走行し、その実力をうかがわせる。1994年の第2戦パシフィックGPでバリチェロは初表彰台を獲得するが、次のサンマリノGPでは初日にコースアウトして縁石でジャンプし、タイヤバリアを越えて直接金網にクラッシュした。このアクシデントでバリチェロは鼻骨を骨折した。予選ではトップ10の常連となり、第11戦ベルギーGPでは、ウェットからドライコンディションへの変化に上手く対応し、当時の最年少記録(22歳96日)で初ポールポジションを獲得した。度重なるマシントラブルに見舞われたこともあり、シーズン中の完走は8回だったが、5度の4位入賞を加えて年間ランキングを6位で終えた。1995年は、予選ではチームメイトのエディ・アーバインよりも後方グリッドからスタートすることが多かったが、カナダGPで2位表彰台に立ったのを最上位に、ドライバーズランキングではアーバインを上回った。1996年は地元ブラジルGPで予選2位を獲得。このシーズン限りでジョーダンを去り、新興チームスチュワート・グランプリへ移籍した。ナンバー1ドライバーとしてスチュワートから参戦した1997年は、信頼性の低いマシンに苦しみながらも第5戦モナコGPで2位表彰台を獲得。1998年は決勝最高5位と車体性能の悪さに苦しめられる。1999年第7戦フランスGPでチーム初、自身2度目のポールポジションを獲得し、表彰台にも3度登りエースとして実力を見せるも、チーム初優勝は第14戦のヨーロッパGPでジョニー・ハーバートにさらわれた。F1でのここまでの7年間、年間ランキングではチームメイトのカペリ、ブーツェン、マルコ・アピチェラ、エマニュエル・ナスペッティ、アーバイン、アンドレア・デ・チェザリス、鈴木亜久里、マーティン・ブランドル、ヤン・マグヌッセン、ヨス・フェルスタッペン、ハーバートに対して一度も遅れを取ることは無かった。2000年には安定感を買われ、ミハエル・シューマッハのチームメイトとしてフェラーリに加入し、ブラジル人としては初のフェラーリドライバーとなった。この際、当初バリチェロは自身の契約がシューマッハとの「ジョイント・ナンバー1」で対等なものであると主張したが、開幕直前にはその発言を改め、自身は「ナンバー1b」だと語り、実質的には「ナンバー2」であることを認める、という一幕があった。この年からは表彰台の常連となり、同年第11戦ドイツGP、雨によりレース後半にはコースが半分フルウェット半分ドライという難しい状況となったがドライタイヤで走りきる決断を下し、2位でレインタイヤを履くハッキネンの猛烈な追い上げから逃げ切り決勝出走123戦目(参戦125戦目)にして予選18位から初優勝を飾った。表彰式ではポケットに忍ばせていたブラジル国旗を広げ、人目も憚らず男泣きする姿に惜しみない祝福が送られた。。続く2001年には年間ランキングもF1において自身最高位となる3位となり、翌2002年は4勝を記録しランキング2位となった。しかしながら、これらの年はシューマッハのサポート役に徹し、決してシューマッハを抜く姿勢を見せないことから『シューマッハの飼い犬』などと揶揄されることもまた多かった。このことが顕著に現れたのが2002年第6戦オーストリアGPである。このレースではファイナルラップまでバリチェロがトップだったが、チェッカーフラッグを受ける直前で2位走行中のシューマッハにトップを譲った。この行為は当時のレギュレーションでは問題なかったが、ファンからは大ブーイングが起こり、さらに表彰台でシューマッハが中央の座をバリチェロに譲った事から(この行為は禁じられている)、フェラーリ、シューマッハ、バリチェロの3者に対して罰金として合計100万ドルが課された。このことが影響したのか、それともシューマッハが独走でチャンピオンを決めたことが原因か、同年のヨーロッパGP、ハンガリーGP、イタリアGPではチームオーダーは発令されず自身が優勝を飾り、それどころかアメリカGPではゴール目前でシューマッハから優勝を譲られる場面も見られた(シューマッハとしてはフィニッシュラインの位置を勘違いしただけで譲るつもりまではなかった、という説もある)。その後、主催団体であるFIAによって2003年からはチームオーダーが禁止された。バリチェロはこの様にフェラーリの忠実なセカンドドライバーを務めてきたが、2005年のモナコGPで、ファイナルラップのシケインでシューマッハに強引な追い抜きを仕掛けられたことをきっかけに、これからは対等に勝負をすると宣言するなどし、翌アメリカGPではミシュランタイヤの問題の為実質フェラーリ同士でのタイマンとなり、初めてシューマッハとやりあうシーンが見られ、このGP後に移籍を決意することとなった。(但し、2人の関係はシューマッハのかつてのチームメイトと異なり、2006年以降も良好な関係が続いており、シューマッハの引退レースとなった2006年ブラジルグランプリでは、オーバーテイクされる際に感謝の意をこめて手を振られた。)同年の8月には翌年からB・A・R(同年末にホンダによって買収されホンダF1となる)へと移籍することを発表した。2000年から2005年までの6年で、ミハエル・シューマッハと共に築いた1-2フィニッシュの回数は24回に及び、これはルイス・ハミルトンとニコ・ロズベルグの組み合わせ(23回(2015年アブダビGP現在))、アイルトン・セナとアラン・プロストの組み合わせ(14回)、ミカ・ハッキネンとデビッド・クルサードの組み合わせ(13回)を引き離し、F1史上最多の組み合わせとなっている。2006年は開幕当初は車に適応するのに苦労し、チームメイトのジェンソン・バトンに大きく引き離される形となったが、車体と自身のドライビングスタイルがマッチしていくに従い調子を上げ、中盤に入ってバトンがスランプとなったことにも助けられ第10戦アメリカGPではポイントで並ぶことに成功した。後半戦はバトンが終盤7戦を優勝1回を含め全戦入賞するという破竹の勢いを見せたこともあって、再び大きく離されることとなったが、バリチェロ自身も同じ期間に4戦連続入賞を含め5戦で入賞するというまずまずの結果で終えた。2007年は前年にフェラーリ時代のチームメートだったミハエル・シューマッハが引退したため、現役で唯一のアイルトン・セナと同じレースを戦った経験があるF1ドライバーとなり、フジテレビのF1グランプリ中継では「セナ世代最後の男」と呼ばれた。ところがホンダRA107のパフォーマンスは最悪といっていいほどで、バトン共々苦労を強いられた。その中でも内容ではバトンに対して決して見劣りはしなかったものの、バトンがなんとか数回の入賞を拾ったのとは対照的に、バリチェロは荒れたカナダGPや日本GPで上位を走る姿を見せるも、いずれもチームのピット戦略の稚拙さに何度も泣かされる格好で入賞のチャンスを逃し、結局この年は1ポイントも獲得する事ができず、自身初の年間ノーポイントとなった。シーズン末にはスーパーアグリに移籍するという異動の情報も流れたが、2008年もホンダのドライバーとして残留した。2008年は開幕戦で久々の6位入賞を果たしたかに思われたが、ピットレーン信号無視による失格の裁定を受けた。その後、F1グランプリ通算257戦目となった第5戦トルコGPではリカルド・パトレーゼの記録を15年ぶりに塗り替え、歴代最多出走記録を樹立した。なおこの記録に関しては、1998年第13戦ベルギーGPなど決勝出走していないレースもいくつかあるため雑誌やメディアによって基準の判断が異なり、広く論じられていたが、バリチェロ本人とチームはこのトルコGPで記録更新のお祝いをしており、そのことからも唯一予選落ちした1994年第3戦サンマリノGPを除き、予選を通過して決勝に進出した全てのレースを出走とカウントするのが通説となった。その次のモナコGPでは、序盤雨の荒れたレースを乗り越え、6位入賞を果たし、2006年最終戦ブラジルGP以来のポイントを獲得した。また、次戦のカナダGPでも7位でフィニッシュ。連続入賞を果たした。その後の第9戦イギリスGPでは雨のレースの中、タイヤ戦略が功を奏し、3位入賞。2005年アメリカGP以来3年ぶりに表彰台の上に立った。2009年はホンダとの契約が終了し、かつホンダではアイルトン・セナの甥ブルーノ・セナの起用が有力視される中で移籍先も無く引退すると思われていた。しかし2008年12月にホンダが撤退を発表・2009年3月にホンダの株式を100%買い取ったロス・ブラウン率いる新チームブラウンGPはバリチェロにオファーを打診し、ブラウンGPから参戦した。開幕戦では予選2位を獲得するが、決勝スタートでアンチストール装置が誤動作し大きく順位を下げるも、終盤に前を走るロバート・クビカとセバスチャン・ベッテルが接触リタイヤした事もあり、バリチェロは2位に入り優勝した僚友バトンと新チームに最高の結果をもたらした。第5戦スペインGPではチーム側が、バトンが渋滞に入るのを回避する為にバトンを2ストップ作戦へ変更・結果的にトップにいたバリチェロを逆転して優勝。バリチェロは「バトンの作戦変更を聞いて驚いた」と発言、マスコミからチームオーダー発動かと書きたてられる(ロス・ブラウンは即座に否定)。第9戦ドイツGPでトップ走行中、チームが戦略ミスを起こしてしまい、バリチェロが「チームが勝利を奪った、チームの誰とも話したくない」と激怒。第10戦ハンガリーGPで予選で自身のマシンからサードダンパーのスプリングが外れフェリペ・マッサのヘルメットを直撃し頭部を負傷。決勝では10位に終わり不調が続いた。しかし第11戦ヨーロッパGPでは、2004年中国GP以来の優勝を飾った。第13戦イタリアGPではバトンと1・2フィニッシュで2勝目。トルコGP・ハンガリーGP以外の全戦でポイントを獲得し、ランキング3位となった。シーズン前半は7戦で6勝したバトンと比べ不調だったが、ブレーキ素材をイギリスGPで従来品からバトンと一緒のメーカーに変更するとフィーリングが良くなり後半の復調に繋がった。アブダビGPの翌日の2009年11月2日、ウィリアムズへ移籍することを発表した。2010年のベルギーグランプリで、F1ドライバーとして初となる通算300戦参戦を達成したとされ、同グランプリで関係者から祝福を受けた。また同グランプリで行われたグランプリ・ドライバーズ・アソシエーション(GPDA)の会合において、前任者のニック・ハイドフェルドの辞任に伴い、GPDAの会長に就任した。前年のブラウンGPとは違いナンバー1待遇を受けることができたせいか、開幕戦よりマシンのポテンシャルを存分に引き出すパフォーマンスをみせたものの、マシンの完成度については、全くの新型ではなく去年のFW31の進化型にすべきだったとバリチェロ本人が言及する程度の出来だった。しかし、ブロウンディフューザーが投入されたヨーロッパGPではシーズン最高位の4位入賞を果たす素晴らしい活躍を見せ、以降もマシンに新パーツが追加されていき、シーズン前半に比べより多くのQ3進出や入賞を果たしていった。この事がチーム代表のフランク・ウィリアムズをして「ルーベンスがいなかったら、どうにもならなかっただろう」と言わしめることにつながった。2010年11月15日、来季もウィリアムズに残留することが発表された。2011年は、カート時代からの自身のラッキーナンバーであるカーナンバー11をつけての出走となった。カーナンバー11は、2006年に在籍したホンダ以来5年振り。しかし成績はふるわず最高は9位2回・4ポイントに留まる。2012年、チームは持参金を持ち込んだブルーノ・セナと契約し、ウィリアムズのシートを喪失。F1ドライバーの引退が事実上決定した。2012年1月からインディカーのテストに参加、3月に親友のトニー・カナーンも所属するKVレーシング・テクノロジーからフル参戦することが決定した。インディカーデビューとなるセントピーターズバーグは燃料管理に苦しみ17位で終える。しかしアラバマ(8位),ロングビーチ(9位),サンパウロ(10位)とトップ10フィニッシュを重ね、インディ500前のポイントランキングでチームトップの11位についた。自身初のオーバルでのレース、インディ500では予選10位からルーキードライバー最上位の11位でフィニッシュし、ルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得した。バリチェロは現在F1での最多出走記録を持っているが、具体的な出走レース数についてはメディアによって相違がある。本人は2010年ベルギーグランプリで300戦を迎えると認識しており、記念にヘルメットのカラーリングを変更すると発言している。F1公式サイトでもベルギーグランプリを300戦目とするニュースを伝えている。なお、怪我による予選不出走により、キャリアで唯一予選落ちした1994年サンマリノグランプリについてはこの300戦の中には含まれていない。しかしメディアの一部では、フォーメーションラップ中にリタイアを喫した2002年の2レース(スペイン、フランス)や、ミシュランタイヤのトラブルで大騒動となった2005年アメリカグランプリ、決勝1回目のスタートでクラッシュに巻き込まれ赤旗中断・再スタートとなった決勝に出走できなかった1998年ベルギーグランプリといったレースを出走回数のカウントから外すべきという主張もある。この意見を採用した場合、2010年ベルギーGP終了時点でバリチェロの出走レース数は「296戦」となり、現役引退時点では「321戦」となる。

出典:wikipedia

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