セオドア・ルーズベルト (USS Theodore Roosevelt, CVN-71) は、アメリカ海軍の航空母艦。ニミッツ級航空母艦の4番艦。艦名は第26代アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトに因んで命名された。ルーズベルトのコールサイン「ラフ・ライダー "Rough Rider"」は、ルーズベルト大統領が米西戦争に従軍した際に指揮した第1合衆国義勇騎兵隊の愛称である。セオドア・ルーズベルトの建造契約は1980年9月30日に結ばれる。1981年10月31日、バージニア州のニューポート・ニューズ造船所で起工、当時の国防長官キャスパー・ワインバーガーが最初の溶接点を認証した。1984年2月にポール・W・パーセルズ大佐が初代艦長に決定する。同年10月に進水、1986年10月25日に就役した。建造にはニミッツ級で初めて船体各所をモジュール化して組み立てる方式が取られた。大型機器を先に搭載するなどしたため、組み立てた後に再度溶接する作業が減少し工期は短くなっている。これ以降のニミッツ級はすべてこの工法で建造されることとなる。同級の前3隻からの広範囲な変更点により、ルーズベルト以降の7隻は「セオドア・ルーズベルト級航空母艦」としばしば呼ばれる。1987年10月3日にデイトン・W・リット大佐が2代目艦長として着任した。翌1988年12月30日に初の配備が行われた。1990年6月9日、チャールズ・S・アボット大佐が3代目艦長として着任し、12月28日にルーズベルトと第8空母航空団("CVW-8")は砂漠の盾作戦のために母港のノーフォークを出港した。ルーズベルトは1991年1月17日の湾岸戦争(砂漠の嵐作戦)開戦には間に合わず1月21日にペルシャ湾に到着。先に展開していたミッドウェイ("USS Midway, CV-41")、及びレンジャー("USS Ranger, CV-61")の空母群と合流し、Battle Force Zulu(BFZ)を編成した。これにより紅海に展開している3隻の空母、サラトガ("USS Saratoga, CV-60")、アメリカ("USS America, CV-66")、及びジョン・F・ケネディ("USS John F. Kennedy, CV-67")からなるBattle Force Red Sea(BFRS)と合わせ、歴史上稀に見る空母6隻による同時アルファ・ストライク隊の出撃が記録された。ルーズベルトにとってはこれが初の実戦参加で、また砂漠の嵐作戦に参加した空母の中で唯一の原子力艦でもあった。作戦初期の段階ではルーズベルトを含む空母群BFZはイラクから離れたオマーン湾に展開していたが、これはペルシャ湾には小規模ながらもイラク海軍の脅威があり、またイラク空軍機からの対艦攻撃も懸念されていたためである。そのため紅海に展開するBFRSよりも出撃一回あたりにかかる飛行時間が長く、また空軍からの給油機の支援も限定的であったことから出撃数を稼ぐことができなかった。しかし2月3日にペルシャ湾の制海権が確保されたことにより、BFZはクウェート沖まで北上することができ以降は出撃数が増加した。最終的に艦載された第8空母航空団は2月28日の停戦までに4,149回の出撃と4,500,000ポンドの爆弾投下を記録。これは参加した空母6隻中最多である。ただし損失も多く、2月2日に所属のA-6E1機を撃墜(戦闘損失)され乗員2名を失い、また1月24日と2月5日にはF/A-18Aを事故(運用損失)で2機失っている。本航海中には出港直後の12月31日にもEA-6Bを事故で損失しているため、合わせて4機を失ったことになる。これは運用損失だけを見ても平時の航海ではまずない数字であり、実戦環境の厳しさを物語っている。因みに本作戦中損失機がもっとも多かったのはサラトガ艦載の第17空母航空団の戦闘損失機4機。停戦後は作戦に参加した空母が次々と帰国する中、ルーズベルトと第8空母航空団はプロバイド・コンフォート作戦に参加、イラク北部上空を警戒飛行した最初の連合軍部隊の一部になった。189日間の配備が完了すると、ルーズベルトは湾岸戦争に直接参加した空母の最後として1991年6月28日にノーフォークに帰還した。1992年2月14日、ルーズベルトは2度目の戦闘効率賞を受賞した。これは1991年に大西洋艦隊における最優秀艦として受賞したバッテンベルク・カップに続くものであった。1992年8月27日、スタンリー・W・ブライアント大佐が4代目艦長として着任する。2000年1月7日、ルーズベルトはノーフォーク海軍造船所で増加信頼性試験を開始する。作業は6月30日に完了し、海上公試を開始した。同年、8代目の艦長としてR・J・オハンロン大佐が着任した。2001年8月に訓練を完了し、9月19日に第1空母航空団と共に7回目の配備を開始する。大西洋を通過後、部隊は不朽の自由作戦の支援を行う。作戦は周辺諸国と協力してアル・カーイダを攻撃し、アフガニスタンに安定政権を樹立することであった。ルーズベルトは159日間の海上活動の後、第二次世界大戦以来最長の活動記録を達成した。バッテンベルク・カップおよび戦闘効率賞を再び受賞した後、ルーズベルトは2002年3月27日に母港に帰還した。ノーフォーク海軍造船所での信頼性試験は10月30日に完了した。ルーズベルトは2003年1月6日にカリブ海での訓練巡航に出航する。その後大西洋を横断し地中海への進出の命が与えられ、2月に到着、イラクへの攻撃準備を始める。3月16日、ルーズベルトはハリー・S・トルーマン ("USS Harry S. Truman, CVN-75") と共にイラクの自由作戦の支援としてイラクに対する空襲を開始した。この間、クレタ島のソウダ湾、スロベニアのコペル、スペインを訪問した。5月26日に母港に帰還し、部隊勲功章、海軍部隊勲章および対テロ戦争遠征章を受章した。2003年にジョン「ターク」・グリーン大佐が9代目の艦長に着任した。2004年2月、10ヶ月の増加信頼性試験を始める。広範囲オーバーホールでは各種システムの更新およびエレベーターのオーバーホール、スクリューの換装、船体の洗浄および塗装、海水弁の換装等が行われ、8月に出渠、4基のカタパルトの運用認証が行われ、2004年12月に信頼性試験は完了した。2005年5月にジョン・R・ヘーリー大佐が10代目艦長として着任した。2005年9月1日、ルーズベルトはペルシャ湾への6ヶ月の定期配備に就き、不朽の自由作戦を支援した。この配備では、スペイン海軍のイージスシステム搭載艦F-101 アルバロ・デ・バサンが外国海軍として初めてルーズベルト空母戦闘群(現 空母打撃群)の戦列に加わり、もう一つは2006年に退役するF-14 トムキャットの最後の巡航と言うことで注目された。ルーズベルトは2つのトムキャット運用部隊、VF-31 トムキャッターズ とVF-213 ブラック・ライオンズ を搭載した。また、ニミッツ級原子力空母の中で初めてタイプ II ジェネリック I&C 原子炉プラント制御コンソールを運用する艦となった。この配備ではスペインのマヨルカ島、イタリアのナポリ、アラブ首長国連邦のドバイ、トルコのマーマリス、ギリシャのケルキラ島を訪問し、2006年3月11日に母港に帰還した。2009年9月から2013年2月まで核燃料棒交換および近代化改装、通称RCOH(Refueling and Complex Overhaul)が行われ、試験航海終了後、8月29日に米海軍にデリバリーされた。RCOHに要した経費は26億2200万ドル。再配備後は2012年12月に退役したエンタープライズ("USS Enterprise, CVN-65")に代わり第12空母打撃群("Carrier Strike Group 12, CSG-12")へ配属され、搭載航空団もエンタープライズに配備されていた第1空母航空団("CVW-1")を引き継いだ。第1空母航空団(Carrier Air Wing 1, CVW-1)は、セオドア・ルーズベルト(CVN-71)に艦載される航空団。
出典:wikipedia
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