山口 素弘(やまぐち もとひろ、1969年1月29日 - )は、群馬県高崎市出身の元プロサッカー選手。ポジションはMF、主にボランチを多く務めた。運動量は多い訳ではないが、非常に知的で、巧みに相手のパスの出し所を消していき、攻撃の芽を摘む。また、攻撃の起点となってパスをフィールド全体に散らすと共に、ミドルシュートなどで自身も積極的にゴールを狙う。1997年2ndステージ第5節のホームの鹿島アントラーズ戦ではボランチとしては珍しいハットトリックを達成した。ポジション柄、ゲームメーカータイプの選手(日本代表では名波浩、中田英寿、横浜フリューゲルスではエドゥー、ジーニョ)らを下支えする役割を得意とした。1984年、前橋育英高等学校入学。1985年、鳥取国体に群馬県代表として出場。1987年1月、全国高校サッカー選手権大会に出場。1987年4月、東海大学に入学。1988年、全日本大学サッカー選手権大会で優勝(東海大学はこの年が同大会へ初出場であり、この年を含めて6年連続で決勝に進出した)。関東選抜(対関西選抜戦)に選出され、同試合にてMVPに選出される。また、1学年下で礒貝洋光、澤登正朗が加入し、ポジションを守備的ミッドフィルダーに移す。1989年、全日本大学サッカー選手権大会で準優勝。1990年、全日本大学サッカー選手権大会で2度目の優勝。同年、ユニバーシアード(サッカー競技)日本代表に選出される。1991年4月、全日空に入社、全日空サッカークラブ(後に横浜フリューゲルス)の選手となる。当時の監督は加茂周。1992年、Jリーグの前哨戦であったナビスコカップに出場。Jリーグの開幕した1993年、8月19日の対浦和戦にてJリーグ初ゴール。1994年1月1日、天皇杯で優勝。1995年8月、第1回アジアスーパーカップで優勝。1996年、1997年と2年連続でJリーグベストイレブンに選出される。1998年10月29日、横浜フリューゲルスと横浜マリノス(現:横浜F・マリノス)の合併が発表されたが新チームへは移行せず12月に名古屋グランパスエイトへの移籍を発表。1999年1月1日、横浜フリューゲルスの最後の試合となった天皇杯にて優勝。2000年1月1日、移籍後の名古屋においても天皇杯優勝。2002年12月、名古屋から戦力外通告を受けて、アルビレックス新潟に移籍。2003年11月23日、新潟がJ2で優勝し、J1昇格を果たす。2004年12月4日、新潟県中越地震チャリティーマッチにジーコジャパンドリームチームの一員として出場。2005年8月16日、新潟からJ2の横浜FCにレンタル移籍(その後、完全移籍)。2006年、横浜FCのJ2優勝とJ1昇格に大きく貢献した。2007年、キャプテンとしてチームを牽引。シーズン終了を待たずして戦力外通告を受け、現役引退。1995年1月、キング・ファハド・カップでのナイジェリア戦で日本代表にデビューする。1997年、フランスW杯アジア最終予選に向けて、日本代表に選出される。1998年6月、日本代表としてフランスW杯に出場(日本は3戦全敗でグループリーグ敗退)。引退後は主にサッカー解説者として活躍。2008年4月よりJFAアンバサダーとして若年層に対する技術指導や普及活動にも従事した。2009年にJリーグの監督に必要なS級コーチ資格を取得し、2012年3月21日、古巣である横浜FCに前監督のシーズン途中解任を受け監督として就任、第5節より指揮を執った。相馬直樹、秋田豊に次ぐ、3人目のW杯出場経験者の監督となる。監督初年度のシーズンは前監督解任時に最下位だったチームを立て直し、第9節にて監督初勝利を皮切りに最終的にはJ1昇格プレーオフへ進出するなどの好成績を残した。が2年目の2013年以降は優勝争いに絡めず中位止まりの成績に終始。「クラブとの意見の相違」を理由に足かけ3年に渡った任を退いた。2015年6月、日本サッカー協会技術委員(強化部会員)に就任し、Jリーグ・アンダー22選抜のコーチに登録された。!colspan="4"|日本!!colspan=2|リーグ戦!!colspan=2|!!colspan=2|天皇杯!!colspan=2|期間通算362||37||63||7||27||1||452||45106||4||colspan=2|-||5||0||111||422||1|||1||1|||||||490||42||64||8|||||||||-!通算
出典:wikipedia
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